※グロではないですが暴力表現ちょっと多めです、ご注意下さい。
彼の記憶の中にある一番昔の光景は、円筒形の水槽の中だった。
栄養や空気を運ぶ数え切れないほどの透明なプラスチックの"臍帯"、成長促進剤や催眠剤など、様々な薬品の混ざった"羊水"と、それを中に満たす分厚く巨大なガラス管の"子宮"。
それこそが、今はグレイスという名を抱く彼が幼少期を過ごした"胎内"だった。
「●●様、384-3号の今日の実験ですが」
「いつも通り、十二時から開始するわ。内容はおもに耐久能力の精査よ。48号と51号と……あとはそうね、124号、125号も用意しておきなさい」
「了解致しました」
白衣を着た男女数名がこちらを見ながら話すのを、彼は何を思うこともなく聞いていた。
彼にとっては日常のことだった。
それが、彼にとって苦痛しかない日々だとしても、彼はそれしか知らなかった。
そうしていつものように連れてこられた、強化コンクリートで囲まれた実験場で、彼はいつもと同じ一言を告げられた。
「さぁ、あいつらを殺しなさい」
少しでも嫌そうな素振りを見せればスタンロッドで殴られることを覚えていたから、彼はいつもと同じように頷いた。
そもそも、なぜ"嫌だ"と思ったのかさえ、もうとうの昔に彼は忘れていた。
『本日の実験は能力検査です。384-3号、心拍数、脳波に異常無し。……124号及び125号、開放を確認しました、これよりテストを開始致します』
無機質なアナウンスを合図に、彼は何も考えることなくその足を踏み込んだ。
放たれた矢を思わせるような俊敏な動きで相手の懐へ一瞬にして入り込み、その首に手を掛け、そして一気に捻る。
ごきん、という不自然な音を聞きながら、離れた場所にいたもう一体──125号とナンバープレートが付いたそれが彼に向かって技を放とうとするのを横目に、自身の内側へと意識を集中させる。
ごうごうと渦を巻く龍の力の奔流を掬い取るように、右の掌の方へと誘導する。
禍々しいほどの藍色をしたその力を持ったまま、相手の技による水の奔流に真っ正面から突っ込み、そのままカウンターとして叩き込んだ。
受け身を取ることすら出来ないまま吹っ飛んだ125号は、どしゃ、と鈍い音を立てて壁にめり込むようにぶつかり、そのまま動かなくなった。
『124号及び125号、共に心肺及び脳波停止、死亡を確認しました。タイムは48秒。384-3号の被ダメージは27、与ダメージは合計304。以上で実験を終了します』
再び流れたアナウンスに、自身に出された"命令"は遂行されたのだと、ぼんやりした頭で彼は感じた。
──目の前で息絶えた彼らが、どこかのトレーナーから奪われ、薬で無理矢理意志を奪われた存在だということなど、彼は知る由もなかった。
そして、黙って見ていた白衣の女が、深く溜め息をついたことも。
その後、受けたダメージを回復する間もなく、彼はまた別の実験室へと連れてこられた。
両腕を乱暴に引かれ、壁に取り付けられた手枷がその手首に嵌められる。
特殊な微弱電流により彼の攻撃能力を奪うその枷を一瞥することさえなく、彼は俯いた。
これから行われる実験が、自分に最も苦痛をもたらすものだと、何も考えないように歯を食いしばり、何も見ないのが一番の対処法だと、彼は短くはない経験から悟っていた。
『只今より、384-3号の耐久実験を行います』
先程と同じ声のアナウンスが、またも無機質に始まりを告げる。
(……はやく、おわれ)
「48号、氷の礫」
女性の淡々とした声に、48号と呼ばれたポケモン──ユキメノコが応える。
身構える間もなく、冷気を纏う氷が彼の下腹にめり込んだ。
「────っ!!」
声にならない悲鳴。
長い間言葉を発さなかった彼の喉は、ただでさえ声を出せるような状態ですらない、それでも彼は叫んだ。叫ばずにいられぬ痛みだった。
『被ダメージ、62です』
激痛、と呼んで差し支えないそれを、アナウンスがやはり無機質に数値化する。
「もう一度」
女性の声。
そして再びの、激痛。
「……っ、ゲホッ、ゴホッ!!」
今度は右胸に命中したそれが、肺から強制的に空気を押し出す。
思わず咳込んだ彼に、しかし女性は容赦などしてくれない。
『被ダメージ、65です』
「……48号、もう一度」
(……いたい、くるしい)
『被ダメージ、63です。これ以上の実験は384-3号の生命維持に影響が出る恐れがありますが、どうしますか?』
「……もういいわ、もう止めます。今のデータをプリントアウトしてちょうだい」
『かしこまりました』
(……あ、れ…………いつもと、ちがう?)
女性の言っていた意味は彼にはわからなかったが、音や雰囲気から、その日はいつもの"日常"と違う命令が下されたのだ、と彼はまだ痛みのためにぼやけた頭で、なんとなく察していた。
程なくして、クリップボードに留められたいくつもの数式やグラフの羅列された紙が、女性の手元に届けられる。
それを一瞥して、女性は再び深く溜め息をついた。
「ダメね。やっぱり中途半端なデータを元に作ったシロモノじゃ、イミテーションにすらならないみたい。耐久力も攻撃力も、本物の推測データの七割以下だわ。これじゃ伝説のポケモンと言うには拙すぎる……。これで三体目、多少育てれば伸びるかと思ったけど無駄だったわ。こいつも失敗作ね」
「では、384-3号は如何致しますか」
「聞くまでもない、殺処分しなさい。生かしてるだけ金が無駄よ」
それまでぼんやり聞いていた彼の頭に、初めて警鐘が鳴り響く。
(さつ、しょぶん……)
何回か同じ単語を、彼は聞いたことがあった。
それは、自分にしばしば向けられる、"殺せ"というのと同義だと、その単語を告げられたポケモンが尽く息をしなくなっているのを目の当たりにしてきた彼は、察した。
察して、しまった。
(ころ、され、る?)
自分が今まで命を奪ってきたポケモン達が、ふと脳裏に過ぎった。
顔も覚えていない彼らだけれど、それでも彼らに自分が何をしたのかくらいは知っていた。
彼らがその間際に目に浮かべた恐怖の意味も。
それは彼がほとんど唯一まともに知っている概念──"死"という現象であり、そしてその原始的な恐怖は、皮肉にもその殺戮の経験ゆえに、通の何倍にも研ぎ澄まされて彼の心に飛来した。
「…………たく、ない」
ざらりとした、声。
やっと出せるようになった彼の声は、あまりにも不穏な響きを帯びていた。
「……何?」
女性はその刹那、ばきり、と手枷が無理矢理破壊された音を聴いた。
自らの耳を、目を、その場にいた誰もが疑った。
その一瞬のタイムラグが、彼らにとって致命的な一瞬となってしまった。
「しにたく、ない……!!」
金の目が、ぎらりと暗い光を放つ。
(しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない、死ぬのは、しぬのは、こわい。しぬのは、しぬのは、死ぬ、のは)
「しぬのは、おまえたち」
その言葉に呼応するように彼の輪郭がヒトの形を失い、黒い影となって長くうねり、そうして再び固まった時──そこにいたのは、伝説に残る天空の覇者たるドラゴンポケモンと、色以外寸分違わぬものだった。
ぐわ、と赤黒い口が大きく開かれたと思った瞬間。
「えっ……ッキャアアアアア!!」
──部屋の中は、火の海になっていた。
そのまま黒い龍は天井を突き破り、幾度も炎をその実験施設に吐きかけ、そうして完全に炎に包まれたのを見るとどこへともなく飛び去ってしまった。
ホウエンのとある山で起きた不審な山火事は、ギンガ団の総力を挙げた証拠隠滅により自然発火によるものと結論付けられ、全ては始めから、何も無かったことにされた。
逃げ出した彼の行く先は、誰も知らない。
──ある、一部を除いて。
「……おーいスルト」
「おっせえぞクレールてめぇどこで油売ってやがっ……なんだそれ」「なんか見るからに満身創痍のヤバそうなガキ」
「いや見りゃわかるよそれは!!誰だよそいつ!?」
「知らねぇ、すぐそこで倒れてたから拾ってきた」
「ハァ!?」
翌日、ホウエン某所の路地裏でのことだった。
数時間後。
彼は、見知らぬ部屋の中で目を覚ました。
「……?」
体を起こすとあちこち痛かったが、なぜか傷はずいぶん回復しており、そして患部には白く細長い布が巻かれていた。
身を横たえていた寝台の柔らかさが、とても不自然で気持ち悪くて、そろそろと床に足を下ろすと、床は灰色のコンクリートや白いリノリュームではなかった。
ということは、ここはあの実験施設ではないのか、と彼は漠然と考えた。
「お、起きたかガキ」
「っ!?」
後ろから聞こえた見知らぬ声に、思わず部屋の隅へ跳びすさる。
深い藍色の髪をした青年はしかし、そんな彼を見て口の端を上げた。
──それは、彼が初めて目にした"笑顔"という表情だった。
「んな警戒しなくても、取って食ったりしねえよ。怪我の具合はどうだ?」
「……よるな」
近寄ろうと一歩踏み出した青年に、彼は容赦なく力を放った。
ふ、と顔を背けて避けたつもりだった青年の頬を、しかしその力はざっくりと切り裂いた。
「……すげえな、お前」
しかし青年は別段機嫌を損ねた風でもなく、むしろ好奇心と驚きを浮かべて彼を見た。
青年は付近において喧嘩では負け無しを誇っており、自身の強さにはそれなりに自負があった。
しかし彼の目の前の少年は、まだ怪我も治りきらないだろう状態でその動体視力を上回って見せたのだ。
「……おまえ、だれ、ここどこ」
「俺の名前はクレール。ここは俺らの根城の廃屋。ぼろいがそれなりに快適だろ?……で、お前の名前は?」
(……なま、え)
聞かれたことにはとりあえず答えねば、という条件反射で、彼はひとまず警戒を放り投げありったけの知識をかき集めてそれが"呼ばれ方"を指しているのだと考えた。
「さんびゃくはちじゅうよんの、さんごう」
「……は?」
しかし、彼の呼び名は青年には理解できなかったらしく、目を丸くされてしまった。
眉をひそめて同じ言葉を繰り返すと、やっと青年はそれが彼にとっての"名前"なのだと知った。
「384の3号……?またけったいなもんだなこりゃ。お前ニンゲンの実験施設かなんかにでもいたのか?」
実験。
その響きに思わず背筋が震える。
一気に顔色を変えた彼に、青年は困ったように眉を下げながら少年に近付いた。
「……図星か。随分きっつい仕打ちをされたみてぇだなその反応じゃ。まぁとにかく落ち着け、ここにはお前を傷つける奴はいねぇから安心しろ」
「きずつける、やつ、いない……?」
鸚鵡返しをする彼に、青年はニッと笑って頷いた。
「おう、だから今はゆっくり休め」
そういってわしゃわしゃと頭を撫でた手を、彼は拒む気になれなかった。
──お前の名前、考えといてやるよ。楽しみにしてろ。
そう言って出ていった青年の後ろ姿に、彼は何と言葉を掛ければよいのかわからず立ち尽くした。
何か、きっとこんな時、かけるべき言葉があるのだと思うのに、それを知らない自分がひどくもどかしかった。
そんな、彼にとって未経験の感情を持て余しながら柔らかくて落ち着かない寝台に座り込んだ時。
(……あれ)
彼は、自分の頬を何かが伝っているのに気がついた。
指で掬ってみるとそれは無色透明な水で、恐る恐る舐めてみると微かに塩辛かった。
(なんだ、これ。……びょうき?)
後から後から目尻から流れるそれを、止める術などしらないから、彼は流れるがままに任せることにして寝台に寝転がった。
妙なこともあるものだ、と思う彼は、もう寝台を気持ち悪いと感じなくなっている自分には気が付かなかった。
一方、青年──クレールは、階段をゆっくり降りながら頬に流れる血を舌で舐め取って艶然と笑った。
「クレール、どうしたのその怪我」
階下に降りた先の廊下にいた深鵺が、それを見てぎょっとした表情で問う。
「あのガキにやられた。さっきまで誘拐された猫みてぇに警戒してたが、まぁ今は落ち着いてるよ、安心しろ」
「……やられた?あなたが?」
信じられない、と言いたげな深鵺にとは対照的に、クレールは心底面白そうな表情を崩さない。
「あのガキ、この先めちゃくちゃ強くなるぜ。……うまく俺らに付いてくれることを願おうじゃねぇか」
「……はぁ、まあ仲間が増えるのは別にいいけど……」
「あ、あとあいつ見た目よりかなりガキみてぇだし食事とかの世話はお前に任せるわ」
「はいはい……え!?いやちょっと待ちなさいよあんた今さりげなく丸投げしなかった!?」
「あいつの名前何がいいかねぇ、もういっそあいつの性格と真逆っぽくグレイスとか……」
「もー都合良く聞こえない振りしてんじゃないわよ!!」
「……なんか、うるさい……」
そんな階下の小さな騒ぎを、彼は少し鬱陶しげに、けれどどこか満更でもない様子で聞いていた。
後ほど彼が固形物をまともに食べたことがないと発覚して食事をどうするかてんやわんやに揉めたり、はたまた歳の割に知識が乏しすぎると発覚したり、更に実験の影響が次々判明したりと、彼については修羅場に次ぐ修羅場が吹き荒れることになったが、それはまた別の話。
黒い空
(あのころの"そら"はどこまでもくろくてくらかった)
(でも、いま、は)
「なぁグレイス、最近お前時々笑うようになったよな」
「そう、か?」
「あーそういえば確かに。前は周りの真似してるみたいな顔だったけど、最近結構自然に笑ってるかも」「……そうだと、いい、なぁ」
「あっ、そう、その顔」
「……?」