「旅行しよう」
そう言われた二週間後、8月14日の朝、俺は急行列車の四人掛けのボックス席で雀野と向かい合っていた。進行方向を見ている彼の隣席には当たり前のように駒江がいて、楽しそうに車窓を眺める横顔に座席の柄が透けて見えた。
――駒江は幽霊だ。
もともと俺と雀野の共通の友人だったが、わけあって死んで以来、お盆が来ると律儀に現れるようになった。何かと楽しそうで存在感も大きいが、俺と雀野にしか見えていないから、
「あのー、ここ空いてますか?」
ごくまれに、こういうことが起こる。
俺たちに声をかけてきたのは、2人組の若い女性だった。自然すぎて不自然な動作で髪を耳にかけ、急に声をかけてきた厚かましさには似つかわしくないはにかみがちの笑顔で首を傾げる。自分の若さと外的な魅力とを自覚していなければできない所作だと思った。
「72点、65点」
女性には聞こえないのをいいことに駒江が言う。
「雀野に目をつけて声までかけたその行動に敬意を評して、下駄を履かせてやったぜ!」
幽霊の採点はともかく、他にも丸々空いているボックス席があるにも関わらず声をかけてきた2人の目的が実際雀野にあることは明白だった。視線がずっと彼の周辺から動かない。すぐ近くに実体を持った俺も居るのだが。浮わついたところのない、ありのままでいて涼やかな雀野の有り様は、たまにこうして人を惹き付けるらしい。長いこと友人をやっていて慣れてしまった。
「おい、」
とはいえ、俺が雀野の撒いた種の処理をする義理はない。俺は、そ知らぬ顔で車窓を眺めていた雀野の靴の先を蹴った。雀野は一瞬、俺にしか分からないように顔をしかめて、
「申し訳ありませんが」
と女性たちに向かい困り顔をつくった。そしておもむろに自分の隣席、駒江にピタリと指を差す。
「そこにもうひとり、居るんです」
「えっ、」
思わず俺も一緒に声を上げるところだった。適当な理由で断ればいいものを、まさか馬鹿正直に、幽霊が座っているから席は空いていないなんて言うんじゃないだろうな。当の駒江はダブルピースで不毛なアピールをしている。
「先の駅で乗り合わせる予定なんですか?」
さすがに女性たちはそんな幽霊の存在など思いもよらないようだったが、それでもプライドなのか意地なのか、単に引き際がほしいのか、会話を続けようと試みた。雀野はふっと悲しげに視線を下げる。自分の見せ方という点では、雀野は彼女たちの上をいっていた。
「いえ、一緒に来るはずだったんですけど、……亡くなってしまって」
「それは、」
息を詰める女性たちの前に、鞄のポケットから写真まで取り出して見せる。
「大事な友人だったんです。この旅行もとても楽しみにしていて。……だから気持ちだけでも、3人で居させてもらえませんか」
雀野の切なげな微笑みに打たれ、女性たちは神妙な顔で謝罪まで口にして去っていった。2人の背中がやや早足に車両を変えて消えたのを見届けてから、俺はようやく息を吐いた。やりとりはほんの数分だったろうに、なんだか疲れた。
「笑いすぎだぞ、駒江」
「だっ、てよォ」
雀野が写真を出した辺りからずっと大笑いをしていた駒江は、目に涙までためている。見えないし聞こえない、まったくいい身分の幽霊は、ヒィヒィ言いながらかたちばかりの呼吸を整えようとした。
「だって『大切な友人だったのに亡くなってしまって……』とか、どの口が言ってんだよ、ひでぇよ、」
「それはどうも」
雀野はさらりと返した。
――駒江を死なせたのは、雀野だ。
事故ではない。あれは確実に殺人だった。雀野は駒江を殺し、駒江は幽霊となって帰ってきた。恨みつらみを言うでもなく、かつてのままのあり方で。俺はそのことを知っているし、もちろん知っていて黙っていることが罪になることも分かっている。だが、別に口外するつもりはない。俺は友人。幽霊こそ見えるが、ただの友人なのだ。
「ところで、その写真、」
「誰? 高校の制服だよな?」
俺と駒江の声は重なっていた。雀野がさらりと応える。
「そう、高校の。文化祭のあとに記念だとか言われて貰ったうちの1枚だよ。こんなこともあろうかと思って持ってきたんだ」
「こんなことってどんなことだよ!」
「使うなよ!」
駒江が笑いすぎて椅子をすり抜けた。俺たちにしか聞こえない騒音の中で、雀野は車窓を眺め、「海はまだかな」と呟いた。
*
「海なんてガキの頃以来だな」
宿泊先に荷物を置き、歩くこと数分。俺は大きく伸びをした。海だった。何物にも遮られずじりじりと照りつける太陽。吹く風はぺたぺたしていて、潮の匂いと一緒に温められた砂の甘い匂いがする。お盆の時期だというのに、海水浴客は少なくなかった。そこかしこにパラソルが並び、老若男女一様に騒いでいる。
「『俺も水着を持ってくればよかった』って?」
駒江がニヤニヤ笑いながら俺の顔を覗き込んだ。
「冗談だろ」
「いまも見えてるの?
見えるから、海には近付かなくなったんだろ」
まるで何でもないことのように雀野が訊く。
「あー……うん、まあ」
その通りだった。海は見える。“普通は見えないもの”がそれはもうたくさん見える。“駒江”ほどはっきり見えるものは少なくて、ほとんどが霧や気配程度なのだが、その数は街中とは比べ物にならない。俺の場合、それらが干渉してくることはないが、――波打ち際にぺたりと座り込んで笑う子どものすぐ隣に、同じような年頃の子どもが無表情で立っていてしかも半透明。気持ちのいいものではない。今回だって、雀野に誘われなければ海になど来なかっただろうし、いざこうして来たところで入りたいだなんて思えない。砂を踏む距離で空気を味わうだけで充分だ。
「俺には何も見えないな」
雀野が小さくこぼした一言を、駒江は逃さなかった。
「お前には俺が見えれば充分だろ」
「呪ってやるなよ」
「口説いてんだよ」
「同じだっつの」
俺と駒江のやりとりを尻目に、雀野は黙って水平線を眺めている。
――雀野の周りには、幽霊は近付かない。
あらゆる意味で例外の駒江はさておき。雀野の近くには影も霧も気配の類いも一切寄ってこない。なぜだか。初めて会ったときからそうだったから、駒江が同類を威嚇して遠ざけているのでもないらしい。だから、俺にとって雀野はただ気の合う友人だっただけではなく、彼の周りは唯一おかしなものの見えない、安らぎの場でもあったのだ。そう、駒江が現れるまでは。
「何回も訊いてるけどさ、」
「なあに?」
「なんで雀野だったんだ?」
駒江はウフフと笑った。
「類似性」
「認めねぇよ」
「なぜですかお義母さん!」
「雀野、塩くれ、塩」
「いくらでもあるよ」
雀野は海を指差した。
*
その後、だらだらと海辺を歩いたり、上手い飯を食ったり、女の人に声をかけたりかけられたり、観光らしい観光をして、卓球に興じて温泉に入って。充実感を胸に布団に入ってすぐに眠りに落ちてしまった俺だが、深夜、ふと目を覚ました。
身体はまだ寝ているのに、意識と感覚だけが覚醒しているような状態で、目線だけを動かす。暗くぼんやりとした視界で、雀野が部屋を出ていこうとしているのが見えた。俺に気を使って音を立てないようにしているのか、慎重な動きではあったが、すでに着替えまで済ませているようだ。傍らには当然、駒江もいる。
「どこに行くんだ?」
そう、訊けばよかったのだと思う。なぜそうしなかったのか分からない。しようと思えばできたはずだが、俺は息をひそめて動かなかった。そして、雀野が戸を閉める瞬間。彼の背後に控えた駒江が俺を見た。ばっちりと、目があった。気づかれた。身を硬くする俺に対し、幽霊は透ける人差し指を唇に当て「しー」と、きれいにウインクをしてみせた。背筋が凍る。
「……よし、」
きっかり15秒を数えて、俺は飛び起きた。見届けなければならない。根拠もなくそう思ったことを覚えている。
*
帰りの列車も空いていた。来たときと同じ席順で座り、来たときと同じように車窓を眺める。雀野は少し、疲れているように見えた。そんな彼を前にして言葉は自然と口から出た。
「また行こうな」
雀野はわずかに目を見開いて、それから小さく「うん」と微笑んだ。
「俺も行く! だからお盆の時期にしろよな!」
すかさず駒江が叫ぶ。
この賑やかな駒江も、明日には消える。地獄に帰るのだと涙ながらに当人は言うが、地獄がどんなところかは覚えていないようで「雀野が居ないってだけで俺にとっては地獄なんだ」と嘯く。
「今度は春とか秋とか過ごしやすい時期がいいんじゃないか?」
「それもいいかもね」
「えっ、ねぇ俺は?」
「美味しいもの食べてー」
「俺食えないんだけど!」
「寺社巡りとか」
「女子か! ってか、んなとこ言ったら俺浄化されちゃう!」
「ははは」
「お前にだって罰当たるからな雀野!」
「なんで?」
「その澄んだ瞳!」
うるさいヤツだとは思っているが、駒江のいる時間はなんだかんだで楽しい。生前も、死後も。雀野も楽しそうだ。しかし、同時に駒江の存在は日常では有り得ないのだとも思う。日常にしてはいけないのだ。お盆の終わり、駒江が帰る日、2人で何を話すのか、どう過ごすのか俺は知らない。雀野が穏やかに日常を取り戻してくれればそれでいいと、ひとりの友人としてそう思う。
「俺っていい友人かなぁ」
「うん」
「やだ泣きそう」
「なんで俺をおいてお前が泣くんだ駒江……!」
その後、ネットで地域版の新聞を読むことを日課にして数週間が経った頃、俺はようやく『若い女の旅行者が行方不明』という記事を見つけた。事故や自殺の可能性も含めて捜査されているらしい。とても小さな記事だった。
* *
(仮題)
EDはクックロビン音頭な