狭いバスタブの中に少しぬるめのお湯を溜めて身を浸す。汗も精液も洗い流して、清めるだけ清めた身体に羊水のようなぬるま湯がしみていく。
ボクはノボリの胸に頭を預け、ノボリはボクの身体を抱いていた。ノボリの体温を感じながらのこの一時は、眠くなるほど心地好い。
ぴちゃん、ぴちゃんと、天井から水滴が落ちる音が静けさにこだまする。会話はない。いつもなら、ボクが適当な話題を適当に話して、ノボリが相槌を打つという決まった流れがあるが、今のボクはそれを望む気持ちはなかった。それはノボリも同じだった。
ボクたちの思考には、今日の仕事終わりに夕食を食べに行ったレストランで漏れ聞こえた、ある人たちの会話がぐるぐると渦巻いていた。
『ホモとかレズっていいよなぁ。ヤる時子供出来る心配なくってよ』
『いやいや、そんなことよりまず世間の目気にしなきゃいけねぇから、全く気楽でもねぇだろ』
『あーそうか、じゃあやっぱ普通がいいかー』
『お前、彼女に堕ろせって言ったの?』
『あー…言った』
『ひっでぇヤツ』
『だって今子供なんかできても困んじゃん。育てらんねぇし』
『育てる気無いの間違いだろ』
『あ…バレた?』
笑い声混じりのこの感心しがたい会話が聞こえた時、ボクたちはふっと顔を見合わせて、サイテーだね、そうですねと、
「ねぇ、ノボリ」
言い合うことも、顔をしかめることさえできなかった。ただただじっと無表情になって、
「ノボリは、さ」
互いの目の色に同じ感情を見出して、そのまま何も言うことなく食事を再開した。
「子供、欲しいと思ったことある?」
ボクはノボリの顔を見ずに聞いた。
「……欲しい、とはっきり思ったことはありません。ただ、」
一拍置いて考え考え、ノボリは続ける。
「道や駅で、楽しそうにしている親子の姿を見て、もし自分に子供がいたらどうなるだろうと考えたことはあります。そして、その子供は…」
ノボリは一度口を閉じて言うのをためらった。ボクにはなんとなくその言葉が予想できてしまったので催促せずにいたけれど、ノボリはゆっくりと口を開き、
「言えば、笑うかもしれませんが」
と前置きして、
「自然と、頭に浮かぶ私の子供の姿というのが、私と貴方の間に出来た子、という設定なのです」
予想通りの言葉を言った。
「貴方のようによく笑う、可愛らしい男の子で、育てるにはどちらか育休をもらわねばならないとか、保育園へは毎日貴方と交代で送り迎えしてとか、つらつらと想像してみたことがあります」
「ボクもそう。同じこと、考えたことある。特にそれを望んでるわけでもないんだけど。なんかたまに、そんなことがあったらどうなるかって、頭に浮かぶ時ある」
水滴がボクの顔に降りかかった。思わず目を閉じて身じろぐ。身体を浸している水面が揺れる。
「クダリ」
「なに?」
「私は…女性が羨ましい」
低い声で告げられた本音につられて顔を見上げた。視界に入った表情はなんとも言い表しにくい複雑なもので。
「私はさっき、貴方が私の中に出したものをそこで洗い流してしまいました。女性だったらずっと留めておけるものを。いつも思うのです。貴方が私の中で果てる時、この身体は貴方を形だけ受け入れられても全てを受け入れきることができない。それが悔しくてならないと」
あまりにも苦々しげに呟かれた言葉はまるで呪いのようだった。だとしたらノボリは自分を呪っているに違いない。女に生まれなかった自分を。
「でもね、ノボリ。ボク、ノボリが女の子だったら、多分こんな風に好きになってなかったよ。ボクとおんなじ男で、秘密も悩みも全部一緒にできる人だったから、好きになったんだと思う。最初から性別違ってたらきっとこうはいかなかったよ。だってボク、女の子の考えてること全然理解できないし、ほとんど別の生き物だよ、あれ。すっごく高いピンヒール、あんなの履いてまともに歩けるなんて同じ人間とは思えない」
ノボリはほんの少し口角を上げて「左様でございますか」と独り言のように応えた。その表情は寂しげにも見えるし、嬉しそうにも見えた。
「クダリ」
「なに、ノボリ」
「今、私がピンヒール履いてまともに歩いてみせたら、どうします?」
ボクはとてもかかとの高いピンヒールを履いてつかつかと美しく歩いて見せるノボリを想像した。ノボリなら本当にできてしまいそうだなと思う。意外と様になるかもしれないとも思った。
「それでもノボリを好きでいるよ」
ノボリは「ありがとうございます」と言いながら、ボクの額に優しいキスを一つくれた。
ボクたちはぬるま湯が冷めてしまうまでずっとそこで抱き合っていた。