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無題

理解していたはずだ。理解はしても、納得は出来ていなかったのか。納得出来ていた振りをしていた、だけだったのかもしれない。
俺達は最強だ。そう周りからは言われていたし、もちろん俺達だってそう思っている。なのにこんな終わりはあんまりだと、運命を恨まずにはいられない。ここで終わらせるものかと、俺達なら何でも出来ると信じていたのに。俺達なら助けられると、あの人なら大丈夫だろうと信じていたのに。強くなると決めたあの日から、俺達はひとつであろうとも決めたのだ。記憶はいつだって呼び起こせる。忘れているのではなく、思い出したくないだけなのだ。
どうして俺達に何の相談も無かったのか、どうして1人で行ってしまったのか、どうして巻き込んでくれなかったのか。今更聞きたいことも聞けやしない。ただあの人は俺達を、俺達だけでは無く沢山の人を守る為に自分の命を使ったのだ。ならば俺達はあの人の意志を、記憶を、存在を守る為にこの拳を使う。俺達は何度でも立ち上がってきた。今度だって、例え何があったって立ち上がるだけだ。俺達は決して1人ではないことを教えてくれたあの人の為にも。目的は違っても、同じ敵を追う奴らの為にも。今度こそ絶対に、確実に。俺達の手で、終わらせる。

七夕

夢、或いは現実、もしくは幻。此処がそのどれかであることは間違いないはずなのだが、如何せん適当に生きてきたこの身は、そんなことすらどうでもいいらしい。
「空」は暗闇に覆われていた。空か地か、それさえも記憶としては曖昧なままで、恐らくこの身体に感じる重力やこの目に映るものを見た限りではきっと其処は空と定義してよい場所なのだろうと思う。日時の感覚もないまま、毎日のように空を見る。もはや日課となっているこの動作も、何故日課となる程継続しているのかなど覚えているはずもない。“気付けばそこに居て、そうしていた”だけの動作だった。こうする事で何かを得られる訳でもなく特別なことは何一つ無いのだが、ここまで無意識の中だともはや一種の本能と言えるのかもしれない。本能には逆らえないものだ、なら仕方ない、と半ば諦めに似た感情を含みながらも、今日もまたその日課を遂行するのだった。
暗闇を見ると、鮮やかに輝くいくつかの光。それはすぐに増え、周りは全てそれに囲まれていた。自らを主張するかのようにキラキラと瞬くそれは、川のようにも見えた。音も無くただ静かに空を流れる川、確か或る国ではこの川を隔てて男女の伝説が語り継がれていたような気がする。川の両岸にある2つの愛の光を、人々はベガとアルタイルと呼んだ。確か巫山戯すぎた2人が1年に1度しか会えなくなるといった話だったか、なんだったか。また或る国の神話では、妻を失った哀しい男の持ち物であるリラだったという話もある。
愚かだと思った。地に立つ人々はそれに願い、祈るのだ。そんな愚かな2つの光に祈ったところでどうにもならないことを知っていながら、どうして人々は願うのか。無意味だ。叶わぬ夢を見る意味などあるものか。人々は、愚かだった。そう、だからこそ自分はこうして今この場所に在る。夢でも現実でも、ましてや幻でもない此処は、自分のような皮肉屋にはうってつけの場所だった。叶わぬ願いを祈る人々を愚かだと嗤いながら、美しいと、叶えばいいとこの場所から祈る自分のような半端者には。そんな自分すら、何者かさえも記憶には無いというのに。
今日も自分は「空」を見る。願うのは唯一つ、愚かな願いを叶えてしまう存在が消えることを祈って。

私信

今までの自分はどうだっただろうか。未来に目を向ける事を拒み続け、過去にばかり思い出を刻みそれを良しとしていた。感情の起伏があまり表に出ない方であると自覚はしているが、今日くらいは多少思い切ってみてもいいのかもしれない。
最近、仲良くしてくれる友人たちが出来た。休みの度に遊びに誘ってくれる、休みでなくとも夜は話し込んで日付を越えることもしばしばあった。自分が考えている事を上手く表現出来ない事を知っているその友人たちは、いろんな方法で表現のやり方を教えてくれた。共に悩んでくれる事もあった。共に笑いあった。共にたくさんの話をし、たくさんのものを共有した。思えば些細なきっかけで出会った友人たちであった。少しでも違う場所にいれば出会う事がないはずの人たちだった。友人の友人、そのまた友人。そんな繋がりから始まった自分たちの関係は、これからも続いていくのだろうか。今が楽しいからこその不安は、きっとこの先も残り続けるのだろう。きっと解決する事はない。それだけ、自分は今満ち足りているのだと、その友人たちのおかげで自分は今、未来を見ることが出来ているのだと知ってしまった。過去にばかり囚われていた自分を知ってくれた、それだけで自分がどれだけ救われたのかわからないが、感謝は言葉に出来なかった。
一期一会という言葉があるが、この言葉を意識するようになったのは過去のトラウマが原因だった。今でも引き摺り続けているその恐怖は、確実に自分の心を蝕んでいる。今の人生は一度しかなく、その人生で出会いは一度きりだ。なら今出会った人を大切にするべきだと、それを信じて生きてきた。自分と出会ってくれた全ての人に感謝を、出会う機会をくれた全ての人に感謝を。こんな自分と、たくさんの時間を過ごしてくれた事への感謝を。こんな自分を好きだと言ってくれた。自分を卑下する事を良しとしないその友人たちにはまだまだ頭を抱えることもありそうではあるが、今、この自分を好きだと言ってくれる友人がいるのなら今の自分も嫌いにはなれそうになかった。
私と出会ってくれて、ありがとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。
どんなときも元気で明るい、一緒にいて楽しいあなたたちが大好きです。

お誕生日おめでとう。

死について

―千寿―
人はいつか死ぬモノだ。それがいつになるかなんて誰も知らないし、自分自身それを知りたいと思った事もない。いつか、そう遠くない未来に起こるであろう自分の最期を考える事が恐ろしいと人は云うが、起こる事が確定していてそれを恐ろしいと感じるのならばそれまでをどう生きるか、の方が大事なんじゃないか。最期に後悔するかしないのかで言えば断然後者だし、死が恐ろしくないのかと聞かれれば、どうだろう、まだ死んだ事がないから分からない。痛くなければいいな、とは思う。分からないのは体験した事がないからで、何故ならわたしは今生きているから。死に対して思うことといえば、興味以外の何者でもない。だってまだ実感していない。死への恐怖を。いつか来るその時まで、この興味は楽しみに取っておきたいと思う。

―玉波―
死とは恐ろしいものだ。今までそこにあったはずの命が、突然無くなってしまう。感情も表情も、私を彩っていた全てのものが消えてしまう。誰にも平等に訪れる事だとしても、出来ることなら避けたい、たとえ無理だと分かっていても。無理ならせめて、最期くらい幸せに。今までの人生が幸せではなかったという訳ではない、でも私は幸せだと思える最期を迎えたい。例えば、愛する人に見守られながら。共に逝けたらもっと幸せだと思えるかもしれない。途方もない程の死への恐怖も、きっとあの人となら。そう思うけど、私はまだ生きていたい。死ぬのは恐ろしい。私が死ぬのも、あの人が死ぬのも。何故、私は死にたくないのか。守ると決めた、あの人が生きている限り。

―航平―
死は恐ろしいものではあるが、誰もが恐れている訳ではない。今すぐ、何十年後か、なんていつ来るか分からないものに怯えながら過ごす程自分は暇ではないし、先に散った人が待っているのならそれは恐怖ではなく憧れだ。死に憧れているなんて、と人は云うだろう。そんなものに憧れを抱くのなら今すぐ死ねばいい、と。そうではない、まだ逝く理由が無い。理由が無ければ行動出来ないのは自分の性格だ。自分はまだ、死ぬ理由を見付けられていない。その理由を探して生きるのは有意義だと思う。死は平等なものだけれど、死ぬ瞬間くらい自分で決めてみたい。きっと自分の死にたい場所ならとっくの昔に決まっている。あとは、時間だけ。その時が来たら、抗うこと無く流れに任せることにする。

―灯―
ヒトは死ぬものであるのなら、俺はとうにヒトではないのかもしれない。だって、まだ惨めにも生きてしまっている。家族、知人は皆死に絶えるほどの永い時間をまだ旅している。俺の終着点は死だ。死ぬ事で俺はきっと救われる、そう信じている。亡者は死ねた事を喜ぶべきだ。この薄汚れた世界を知らなくて済むのだから。俺は今までいろんなものを見て、たくさんの事を聞いて、ヒトは滅ぶべきだと思った。だから、俺も早く死ぬべきなのだ。待っていて、くれるのだろうか。死は恐ろしいものではない。唯一の救いの手だ。もうこの身は朽ちるべきで、どれだけ足掻いても、どれだけ体を傷付けても止まることのない心の臓を恨みながら生き続けるのにはもう疲れた。いつか死ねる事を祈りながら、俺はまだ生きている。
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