「というわけで三條くん、トリックオアトリートだよ」
人もまばらになった放課後の教室で、高すぎない耳心地のよい女子の声が響いた。その女子は自分の名を呼んだように聞こえたので、どうやら話しかけられたのは自分らしい。こちらの行く手を阻むように立ち塞がった彼女はまるで子供のような、いや確かにまだ子供なのだが、何かを企んでいるような瞳で自分を覗き込んでいた。
先程の彼女の台詞、何が“というわけ”なのかは一切理解出来ないが、言葉の意味は知っている。今はもうそんな時期なのかと黒板の日付へと目をやった。
「ハロウィン、ですか」
今日は10月の末日、世間ではハロウィン当日のようで、そういう季節の行事に詳しくない自分にはまず投げ掛けられる事の無い台詞だった。
「そう。お菓子くれなきゃイタズラする日だよ」
「ちなみに拒否権は?」
「ないよ、どっちか返事しないとここは通さないから」
そう笑顔で告げる彼女に、どうしたものか、自分にはその二択しか用意されていないらしい。別に自分には急いで帰る理由はないが、目の前の彼女には待っている人がいるのではなかったか。毎日のように共に帰る家族のような人が。
「山花さんは帰らなくていいんですか」
「帰るけど、三條くんの返事聞いてから帰る」
ほら、と急かす彼女に呆れたように息を吐き、己の制服のポケットの中に手を突っ込む。確か、ここに。
「飴ならありますけど」
中には今朝姉から渡されたレモン味の飴が3粒ほど入っていた。今考えるともしかすると姉は今日がハロウィンだと知っていて、気を使ってくれたのだろうか。帰ったら礼を言わなければ、と思いながら彼女へと手渡す。一瞬喜んだ顔はしたものの、すぐに表情は翳ってしまった。レモン味は嫌いだったのかと不安になりながら名を呼ぶ。
「山花さん?」
「あ、飴は好き!ありがとう、でもせっかくイタズラも考えたから実践したい」
「それじゃあオアじゃなくてアンドになりますけど」
「名前で呼びたいなって思って」
「は、」
自分でも間抜けな声が出た事はわかった。突然何を言い出すのか、この人は。
「文化祭の時にせっかく仲良くなれたと思ってたんだけど、全然三條くんからは話しかけてくれないし。わたしから話しかけても前と態度変わらないし!だったら、せめて呼び方だけでも仲良さそうにしたいなって、」
思って、と尻すぼみになっていく彼女の言葉には驚くほかなく、どうして人気者である彼女がここまで自分と仲良くしたいと思ってくれているのか、だからといって何故名前呼びなのか。そもそもそれは悪戯ではないのではないか。疑問は多々あったが、彼女の意見を拒否する理由は自分には無く、むしろそんな事の為にわざわざ貴重であろう放課後の時間を使わせてしまった事を申し訳なく思う。自分などの為に彼女の顔が曇るようなことがあってはいけない。この人は、いつでも笑っているべきだ。
「名前なんて…、どう呼んでもらっても構いませんから。そんな事で悩まないでください」
「だって、嫌われてるのかと思った」
「嫌う理由がない人を嫌うほど僕はひねくれ者ではないと思っています」
そこまで話して、彼女に笑顔が戻る。やはりこうでなくては。彼女は誰かの太陽なのだ。
「じゃあ、航平くんって呼んでいい?わたしの事も名前で呼んでいいから」
今までクラスメイトを名前で呼んだ事などなかったように思う。抵抗がないと言えば嘘になるが、驚くほどに口に馴染んだその名を噛み締めるようにしっかりと言葉を紡ぐ。
「わかりました。──千寿、さん」
そう言うと同時に二人して吹き出す。改めて名前で呼び合うのはなんだかむず痒くて、少し照れてしまう。それは彼女も同じようだった。
「じゃあ、せっかくだし校門まで一緒に行こう。帰る準備してくるね」
こちらが返事をする前に自分の席へ走る彼女の顔は晴れやかで、たったこれだけの為に彼女にどれだけ気を遣わせてしまったのだろう。他人と接するのは得意ではないが、彼女にならもっと砕けてもいいのかもしれない。そう思わせてくれる人は人生の中でそう多くないだろう、彼女はとても輝いて見えた。
「おまたせ、航平くん!」
行こっか、と駆け寄ってくる彼女に微笑みを返し、人のいない教室を後にした。