【蕾綻ぶ季節】
「引け!ハイドン・ウェンデル。兄さんを起こしに行くのは弟である俺の務めだ」
「解ってねぇな。これだからお子様は。こんな朝に弟に会いたい訳がねぇだろ」
小鳥の囀りよりも早い、扉の向こうの喧騒に目覚める。
「アイリス…か。今、何時だ」
「だいぶ早いよ。あの馬鹿共を黙らせれ来るから、アルベルはまだ寝ていていい」
まだ寝惚ける頭で身体を起こし、最初に気付いたのはこの部屋が自分の寝室では無いこと。次いで、優しく髪を撫でるアイリスが裸で隣にいる事。
「むしろ、昨日の今日じゃ身体に障るだろうから、ゆっくりしていていい」
ごく自然な所作でアイリスに頬に口付けられて、己も生まれたままの姿なのだと気が付いて、いっきに目が覚める。そして、昨晩の全てを思い出した。身体の奥に疼く痛みも。
「あ…」
思わず身体を隠したアルベルを見てアイリスが微笑む。
「うん。上々だね。すっかり恥じらい方が淑女だよ」
不意に距離を詰めたアイリスの秀麗な顔が、昨晩己の上で如何に男らしかったか思い出して、アルベルの顔が朱に染まる。
「美しいドーナ。なんなら生まれたての恋人同士みたいに、戯れようか?朝は夜とはまた違うよ」
「何を言ってるんだ。アイリス」
「僕は本気。アルベルなら、朝日の中でも抱ける」
「寝言は寝て言えアイリス」
再びアルベルがベッドへと沈められた所で荒々しく扉が開かれ、ハイドンが入って来る。
「貴様の役目は終わり。この後は婚約者の俺の役割だろうが」
ハイドンは遠慮も断りも無くベッドの側まで大股で歩み寄って来ると、アイリスの首根っこを捕まえてベッドの外へと放り投げる。
「ありがとう。ハイドン」
「おう構わねぇ」
「痛いよ乱暴者。ローゼルトは?」
背中を打ち付けたらしく、痛そうに擦りながら立ち上がったアイリスが問う。
「追い返した。流石に今日は会いたくねぇだろ?」
「君にしては懸命な判断だね」
ベッドに腰掛け、「大丈夫か?」と気遣うハイドンにアルベルは辛うじて「ああ」と返す。ハイドンはレッド・ロータス三星騎の一つ、ウェンデル家の嫡男で、アルベルとは兄弟の様に育った。今日からは、娘から女になったアルベルの婚約者だ。最も、この婚約はアルベルが成人した時に解消される仮初めのものだが。
アルベルは自分の身体を見る。赤い情事の痕が残る身体を、確かにローゼルトに見られなくて正解だ。ハイドンの気遣いに感謝をしなくてはいけないと顔を上げ、いつもの笑顔を作ろうとして失敗する。まるで、自分が昨日迄の自分と違う存在になってしまった様な心地に震える。
「アルベル。湯浴みするか?アイリスの汚ねぇもんが付いたままじゃ気持ち悪いだろ」
「ちょっと。人を雑菌の様に言わないでくれる」
「似たようなもんだ」
だが、変わらぬ二人のやり取りに笑いアルベルは気をしっかり持てと己を律して立ち上がる。
「湯の支度を」
だが、何も纏わぬアルベルの身体を見たハイドンが、一瞬凍り付いた様に静止し目を逸らす。やはり、自分は何か変わってしまったのだろうか?再び去来した不安にアルベルは思わず俯く。
「馬鹿」
ハイドンを罵るアイリスの小さな呟きも、耳に届かなかった。
湯を浴び幾分かさっぱりしたアルベルは、柱に身体を預け立っていたハイドンに足を止める。
「こんな場所で何をしてる?」
「あー、いや、それは…」
近付き気安く触れた指は冷たくなっていた。何故か一瞬震えているのが気にはなったが。寒かったのだろうと納得する。
「まさかずっと此処で待っていたのか?まだこの季節、明け方は寒いというのに馬鹿だな」
「アルベル。騎士団の演習場に行くぞ」
「今からか?」
「身体を温めるのに付き合え」
「全く。湯を浴びたばかりだと云うのに」
やれやれと肩を落とす振りをしつつも、ハイドンの提案は正直嬉しいと心を弾ませる。
「嗚呼。見ろ、ハイドン」
「んぁ、なんだ?」
演習場までの道すがら、一本の気を指差したアルベルの元に、少し先を歩いていたハイドンが戻ってくる。
「小さな蕾がある」
「どれだ?」
「ほら、あそこだ」
軽く身体が重なる程に近付いて指を指す。
「あ、ああ。本当だ。ちいせぇのがあるな」
「もうすぐ、春だな」
そう、もう間も無くこの国に春が訪れる。くよくよ悩んでどうする、アルベル・グラディオーレ・バレンタイン。私が何に悩もうが立ち止まろうが、時は待たずに季節は巡るのだ。ならば前に進むしかないではないか。
「ハイドン?耳が熱いが熱でもあるのか?」
「ない!早く演習場に行くぞ」
「ああ。今日こそハイドンを負かせてやる!」
「言ってろよっ!」
はしゃぎながら歩く、どう見ても仲の良い男子と娘にしか見えない二人を柱の影から眺めていたクリストフェルは浅く溜め息を吐き出す。
「アルベル。お前の運命は、幾本もの複雑な糸が絡み付いている。こんな数奇な運命の持ち主を見たのはローズ以来だ」
せめて、そんなお前に幸多からん事を。そう何処へともなく祈り、先程アルベルが指差した木を仰ぎ見る。その先には、今は宝物庫となったデューン・モント城の屋根が見える。その木の下にかつて素敵な物語があった事は、誰も知らない。
どうか、せめて今だけは優しい春を迎えられるように願う。
ローゼルトは祈りを解き、顔を上げる。まるで嘗ての主の性格を表す様に、隠す様に城の地下に設けられた小さな聖堂。その時から、誰にも荒らされず、誰の手も付けられて居なかったこの場所が好きだった。静謐なこの場所にいると、心が落ち着く。いつの日からか、この場所を毎朝手入れをするのが日課になっていた。
「アルベル…兄さん」
今は禁じられた呼び方で、その名を呟く。きっと、聖なるこの場所で呟く言葉なら呪いも聞き届けはしないだろう。そうでもしてないと、心がはち切れそうだった。日に日に美しさと輝きを増す人。艶やかなドレス姿で優しく微笑まれる度に胸が弾み同時に軋む。その人がドレスを脱ぎ去る時に、この苦しみから解放されるのだろうか?
「愛してる」
不可解な思いから解放されたくて、手当たり次第に漁った書物の中に見つけてしまった言葉。その言葉を見た瞬間に、「ああ、これだ」と思ってしまい、歓喜し絶望したのが一年前の春。血の繋がった姉弟ですら許されないのに、ましてやあの人は兄でバレンタイン家の嫡男。決して許される訳がない想いは秘めるしかない。しかし、日に日に募り高まる想いはきっと苦しみしかもたらさない。
「掃除しなきゃ」
そんな自分がなにか汚れたものに思えて、そんな時にこの小さな聖堂を見つけた。手入れもされずにいたこの場所を清め続けたら、汚れた己でも少しは神々に許される気がして。毎朝祈りを捧げる。だが、日々祈るのはアルベルの無事と健康ばかりで、そんな己に自嘲すら沸き上がる。
「アルベル」
「お呼びでしょうか。父上」
優雅に頭を垂れる姿は淑女そのもの。
「身体は大事ないか?」
「………はい。問題ありません」
アルベルの頬に恥じらう色が滲む。だが、それを態度に表さないアルベルは正しくバレンタイン家嫡男に相応しいと、ダーリエは目を細める。
「アルベル。間も無く開催される春の宴だが、お前は儀式を終えた女として出席する事になる」
きっと、男であるアルベルは、これからその矜持を傷付けられる数多の障害に合う事だろう。
「心得ております。父上」
「………そうか。何か困ったらハイドンを頼りなさい」
華麗にお辞儀をして、淑女らしく父の手に接吻を施し辞すアルベル。その行く末を思うとダーリエは溜め息を吐き出さずにいられなかった。
「大丈夫ですか。ダーリエ様」
「ああ、すまん。大丈夫なんだ。大丈夫さヴェルト」
ハイドンの父であり、幼い頃から親友のヴェルトの肩に凭れダーリエは祈る様に瞳を閉じる。
間も無く、シュロウに春が訪れる。誰もが浮かれ喜ぶ美しき春が―――
END