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としをとるということ。

老いて、弱くなって、その弱さをあきらめではなくて、うけいれられるようになることが、おいだとおもう。
だれかにそばにいてほしいというよっきゅうふまんであったり、いじをはってあやまれなかったかこのしっぱいであったり、そういったものをうけいれられるようになることが、おいだとおもう。
だから、いまは、まだわからない、りかいできない、いみをみいだせないあのにんげんせいであったり、けんおするにんげんらしいかんじょうが、いつのひかぼくにめばえ、しみこんでいき、おいていくのだろうとおもうけれど、いまはまだそのかんかくをうけいれられないし、よわいことはいやだし、じぶんがよわいとあたまでわかってもこころがごねます。

いつのひかひとといることにやすらぎをおぼえ、ひとりでいることにふあんをかかえ、しにおびえるひがぼくにおとずれるでしょうが、それはわかいぼくがのぞんだにんげんとしてのかんじょうや、えいえんのねむりであること、わかいぼくのねがいであったことをきっとぼくはわすれてしまうでしょうけれど。さいごに、むかしからのねがいがかなうなんて。ひにく、とは、おもわないけれど、やはりじんせいのしゅうちゃくえきはしということにきけつします。
じんせいがむだなことで、むだでなくすためにいのちをつなぐということや、かすかないみがあるということがじゅうようなのだとするしてんがあることはわかっているのですが、それでもやはりげんざいのぼくはその弱さをうけいれられません。

A地点から旅立ちB地点やC地点を経てかえってきたA地点はおそらくなつかしくあたらしいなにかとしてめにうつるのでしょうけれど、旅したことをひていするのではないけれどやっぱりもとのばしょにもどるんだったらたびだったいみがちいさすぎて、旅だったことは、必要なのでしょうけど、…ああ、小数点以下を切り捨てたいのです。

まとめ。
物事にはいろいろなしてんがあるということ。
結果だけではなくて、過程にもちゃんと意味があるということ。
けっかだけをじゅうしするぼくは視野が狭いということ。(その視野が狭いという事実を常に分かっていられる、素直にそう思えることが弱さを受け入れる、ということ。)(ものは言いようだね)

実はね。平等主義に見える孤立主義。
誰かの意見を受けとって。その人の意見を尊重するということは、結局ぼくに関係ないからできることなんだ。ぼくは通過点にすぎなくて、そして相手もぼくにとって通過点。ぼくはぼくの確固たる意見を持っていて完全なるぼくの指針として存在しているのでぼくはそれをどうにもこうにも動かせないのです。
ちっ。

平等でいたいぼくはきっと不平等な気がします。あぁあー。ともだちが卒論の指導のとき一方に片寄れって言われてたの思い出しました。わたしも一方に片寄るべきだということや一方に片寄ることの意味は分かっていたんですけど、まあすべてのことに対して同じ原理を流用するわけにはいかない。しゃーない、しゃーない。

よわいことやできないことはわるいことじゃない。視野を広く持つことを意識するのではなくて、視野が狭いことをわかっといた方がいい。
何事も人に相談。
人って、相談する前に自分で答えを決めているらしいけどね。
そうだんそうだん。
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