迫る。迫ってくる。
状況が変われば発言も変わる。かけられる言葉も変わる。
年寄り役さんに叱られた時に、年寄り役さんがそれを出来ていなくてもあさねさんが怒られたこととは関係ない。あさねさんが出来てないなら直さなきゃいけないでしょとい言われた。
でも、あさねが学校を去ることとなったら、年寄り役さんに同じように叱れた場合も、今度から気を付けましょうねぇ。笑 くらいに収まりました。
なんか。ケーキの海にずぶずぶ沈んでいくような、甘ったるい地獄。
今日、近づこうかと思って、わたしも話題を持ってきたんだった。
閑話休題。
眠い。眠すぎる。
なんなんだこのブログは。
ってことで、先生が戻ってきたら、具体的にどんなカリキュラムで僕たちを仕込むつもりですか?
最近になってやっと自分を見てあげられる、…見れる?ようになった。
客観視は出来ていて、むしろ客観的にしか見ていなくて、だから自分が何をしたいのかとか、何に価値を見出だしてるのかが分かってなかった。
表面的に現れる嗜好とか言動でこうなんだろうとイメージを持っていたけれど、実際の自分が見れていなかった。
内面の、何に傷付きどう思っているのかというのは、結構大事です。
…自分の内面の感情を分かっていない人って多いと思うけど、自分がどう思っているのか自分で分からないのは、相当な不幸だ。
他人が考えているであろう幸せを自分に与えても、自分の求めてる幸せじゃないから幸せに感じられないよ。
それに気付くのはすごく大事だ。
だから自分のことを理解したいし、
なりたいものにはなりたいしなりたいと思っていいし、
やりたいことをやればいいしやりたい理由なんて探さなくて良い。
生きていていいし生きていてほしい。わたしが死んだらわたしの世界はおしまいなので何をしても良いから、辛いことから逃げてもいいし悲しくて泣いてしまってもいいから生きていてほしい。
傷付くのも、傷付いてでも生きていてほしい。耐えられないほど痛いんだったら例え針が指先に刺さった程度の痛みでも投げ出して良い。
自分の痛みは自分にしか分からない。だから痛いと思うならもういい。
これは無気力承認ビジネスとは違う。
思っているよりわたしは自分の痛みに目をつぶる傾向があります。
最近気づいたんだけど。
何故か泣いてしまうのは傷付いているからだ。
泣くのは悪いことじゃない。多分わたしの頭が理解するより先に心が自分の痛みに反応してる。
だからないてもいい。泣いて良い。
やりたいことが分からないのも分かるけど、自分の心に向き合えていなくて、向き合ってなかった時間が長かったからもうやり方が分かってないんだ。
今からでも聞けるし、自分のことなので、自分を取り戻そう。
抱き締めておかえりが言いたい。
でも自分だからずっと一緒にいたんだけど、…何て言ったら良いのか。笑
たなこんが幸せを願ってくれたわたしは何て言えば良いのか、幸せだって笑っていればいい。
ほんとうのしあわせ。
ほんとうのさいわい。
ほんとうのこうふく。
それが例え客観的に見た不幸であっても、幸せになりたい。
何度でも云うけど生きていてくれたら良い。
解釈違いだったのかもしれない。
心臓を取り出したかったのはあると痛いからで、自分の意に反したことをされているときだったのかも。
嫌なことがあったら、それに抗うべきだったんだ。
柳のように流すのは楽だけど良いことじゃないんだなぁ。
次は気を付けます。