「ちょっと、外を見てきてくれないか?」
いやに静かな窓の外。先程まではあれほど波がざわめき立ち、荒れ狂っていたというのに。不気味なまでの静けさは、本来安堵を覚えるはずが、逆に不安を掻き立てた。
カラコロ…と、若い管制官がそろりと様子を窺うように窓を開ければ、先程までの嵐が嘘だったかのような光が降り注ぐ。鈍雲は光明に裂かれ、行く宛もなく引いていた。
「晴れてますね。」
「そうか。」
「雪に変わったかと思ったんですが。」
「馬鹿野郎、雪にはまだ早いだろ。今降られても迷惑だ。」
報告を受け、彼も窓から身を乗り出す。波の音は、遠くなっていた。水面に映る月が揺らめき立つ。
「しかし、呑み込まれそうだな。」
「そうですか? 光がある分指標になりますし、問題ないかと。」
「穏やかな面を目の当たりにする程、警戒心は薄れる。」
「そういうものですか。」
顎の無精髭を撫で、年を食えば食うほど捻くれて来たなと微笑を浮かべる彼に、若い相棒は水平線を睨む。月明かりの無い夜はぽっかりと口を開け、近付く者すべてを無の世界へ誘わんとする線を。
「月なんてモンは、俺からすれば警戒するに越した事のない物のひとつだな。」
「警戒?」
「傍目はまん丸で綺麗だし、その昔は飛脚の足下を照らしてたさ。だけど、ずーっと表の面しか見せねぇだろ。ボロが全く出ねぇ。」
「……そういう女性に騙されて来たんです?」
「嫁がいるからって調子扱いてんのか。」
「そういう意味じゃありません。」
開け放ったままの窓からは、冷え込んだ空気が流れ込んでいた。窓の縁に圧し掛かり、業務そっちのけで話し込む彼らは身震いをしながらも、その場から動こうとしなかった。絶え間なく揺れる水面の月影に合わせ、心はワルツのステップを踏んでいた。
「それに、月明かりなんてモンはちょっと雨が降っちまえば行く者を惑わす像になる。」
「雨粒への反射の事を言ってるんです?」
「元々希望なんざ持ち合わせてないが、夜の海ほど先行きが見えないモンはねぇや。ま、だからこそ灯台があって、極点の星を当てにすんだけどよ。」
「無線やレーダーの無かった時代の話ですか。」
若い相棒は呆れながらも彼の話にずっと耳を傾けていた。自分にはない彼の考え方は、正しい正しくないという論点を抜きにしてただ面白かったからだ。四十を超えたというのに身なりはだらしなく、がさつ。傍から見れば細かいことなど問題にしなさそうな彼だが、実際は警戒心の固まり。彼こそが月のような物じゃないかと気付きの溜め息を。
「ま、呑まれたらCQDを使いたいくらいには捻くれてるさ。」
「100年以上も前の信号じゃないですか。」
「敢えてのモールス符号でな。」
「その緊急通信の取り扱いも、とっくに廃止されてます。」
「"come quick, distress."なんて、直球過ぎて分かりやすいだろ。『すぐ来て、遭難した。』なんてよ。」
「それなら、"save our souls."の方が。shipsでもいいですが。」
「バクロニムの中の意味なんてどうでもいいが、闇に葬られた音で緊急通信をする、その方が俺はロマンを感じるね。」
「実務に於いてはロマンなんか使えません。」
若い彼は、さらに深い溜め息を吐いた。ロマンで飯が食えれば苦労はしないと。そんな彼に対し、相変わらず無精髭を撫でながら、若い奴は頭が堅くてまいったねと苦笑した。とは言え、自分のような者がもう一人もいれば、場は荒れると理解していた。切り揃えることも久しくしていない荒れた髪を束ねて話の続きを始めた。
「儚いとされる物ほど、案外図太い気がしてね。」
「また唐突に。」
「月明かりにしてもそう、雪にしても。」
「そう言えば、急に冷えてきましたね。窓、閉めましょうか?」
「お前がどうしても寒いってんなら閉めてもいいが。」
「…雪は、どういうことなんです?」
「音もなく迫り来て動きを封じるわ、溶けない限り長い間居座るわ。光の乱反射って意味じゃ雨より厄介だわ。」
それ以上のことが語られることはなかった。あれほど目映く水面を照らしていた明かりもまたすぐに鈍雲に覆われ、海はまた大きく口を開いた。奏でられていたワルツのリズムこそ、荒れる波と共に大きくなっていた。
窓から吹き抜ける風も、冷たさと勢いを増す。再び訪れようとする嵐の予感に、また無精髭を撫でながら笑みを浮かべる。その眼光は鋭く水平線を捉えている。
「ツートンツートン、ツーツートンツー、ツートントン。」
end.
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#お題20111113
黒音ありて灰雪奏でる月明かり
ECO(@nanoeco24)