「オリンピックが東都で開催されることが決定したようだね」
「それはいいんだけど野球・ソフトボールがどうなるかの方が気になるぞ」
「野球とソフトボールがどうかしたのかい?」
「はあっ……これだから圭斗は」
菜月さんを誘ってやってきたラーメン屋で語るのは、ちょっとした時事の話題。ただ、彼女にとってはオリンピックの開催都市よりもどの競技が採用されるかの方が気になるらしい。
野球・ソフトボールが開催競技に復活して初めてオリンピック自体も関心事に加わるのかな、という気配すら見え隠れする。まあ、いざそのときになってみると、彼女はナンダカンダでいろんな競技を見ていると思うけど。
「そもそも圭斗はスポーツに興味ないんだからオリンピックがどうこうっていう話題を振ってくること自体が違和感だ」
「言ってくれるね、事実だけど」
僕がスポーツに対して興味がないことを知っているからか、彼女の反応も芳しくない。もしこれが野坂からの振りだったら、野球がどうなるかやその他諸々の話が広がっていただろう。
「東都でオリンピックをやるのは7年後か」
「僕たちは28歳になる年だね。菜月さんはその頃、どうしてる予定?」
そして彼女は黙り込んでしまった。ずるずると麺を啜りながら。この質問に対する答えを考えているのかいないのか。触れてはいけないところに触れてしまったのだけは確かだった。
僕の表情を窺う素振りもない。彼女はただただ自分の世界にいる。大きな一息でずるずるずる、と一気に麺を啜りそれを喉に通し、水を含み、それをさらに喉へ通してようやく彼女は次の言葉を発した。
「高崎の定義に沿って言うと、うちにとって7年後は未来だ」
高崎の定義。それは将来、そして未来という単語の使い分けのこと。将に来る、言い換えれば今にも来る、手の届くところにあるそれが将来。未だ来ず、手の届かないところについて語る言葉が未来。
高崎は、国語辞書的にはさほど意味合いの変わらないそれをはっきりと区別して使い分けているとのこと。そして未来という言葉が好きではないとも。その高崎定義に基づいて言えば菜月さんの「将来」は範囲が狭い、余りにも。
「7年後に生きていることを前提にして話すことがまずな」
「死んでいたい?」
「わからない」
そして彼女は再びずるずると麺を啜り始めた。2年後のことすらわからないのに7年? そんな風にも見て取れる。ただ、僕は彼女にこう言ってやりたい。手が届かないところのことを、好きに夢を見て何が悪い。
「うちは今で精一杯だ。もう言わすな」と無言で語っている。菜月さんは真面目すぎるのかもしれない。今に来るその時を過ぎなければ未来のことに夢など見られない、なんて風に捉えているんじゃなかろうかなどと心配は尽きない。
「未来って、何か曖昧だろ。かと言って、近い将来どうしてるのかの具体的イメージも持てない。想像できないことは実現しないって言うし、うちはその近い将来にもきっと存在してないのかもしれない。将来に辿り着かないことにはその先の未来もない」
「本格的に思考を拗らせてるね。何も、現実に辿り着かなければならない未来ばかりじゃないよ。夢ばっかり、野望ばっかりの未来があって、何がいけないと言うんだい?」
お前は本当にバカだな。そう言い放って彼女は最後の一筋を啜りきった。ごちそうさまでした、と合わせる両手は別の祈りにシフトして。
「野球・ソフトボールが開催競技に復活しますように」
「何だ、菜月さんも十分7年後に夢を描いてるね」
end.
++++
7年後に生きていることが前提にならないのが菜月さんでした。あ、考え方っていう意味でね。
というワケで時事ネタ2弾と、プチ野球事情。プチしょぼん菜月さんの話も地味にやりたかった。
高崎定義というのはこれから3年生の話と言うか就職活動関係の話ではちょいちょいと出てきそうな概念ですね。