部屋に漂う美味しそうな、幸せの匂い。小麦の誘惑とはまさにこのこと。果林先輩がお腹空いたーと叫ぶ声も真剣味が違う。ふっくら膨れたパンは焼き色もキレイ。
「うん、何とか形になりそうだね」
「いっちー先輩おなか空きました」
「もうちょっと待って」
このパン焼き大会が開かれているのはカズ先輩の部屋。オーブンレンジが学生の一人暮らしで使うレベルのものじゃないなあと思うけど、だからこそ開けた大会でもある。
部屋でパンを焼こうと思うんだよね。そうカズ先輩が思い立って、白羽の矢が刺さったのがハナだった。パン屋さんでバイトしてるからだと思う。食べ物の気配に敏感な果林先輩も一緒に焼くことになった。
今日のサークルでみんなで食べようということで焼く量は結構いっぱい。その前に焼き上がった物を果林先輩に食べ尽くされないようにするのも大事なポイント。
丸めた白い生地がかわいいと果林先輩はにこにこしている。その様子を見てカズ先輩はそういうものなのかなあと不思議そうだったけど、ハナから見てもこれはちょっとかわいいと思う。
「でも、一時はどうなることかと思いましたよ、果林先輩がドライイースト買い忘れるんですもん」
「えー、アタシの所為なの?」
「ホント果林先輩しょぼんですよ。カズ先輩が持って来てくれてなかったらどうなってたか」
「まあまあ、結果ちゃんと焼くところまでたどり着いてるんだから」
パンの焼き上がる匂いには、これからも慣れることはないと思う。バイト中でも、違う店先でも、今この瞬間でも。パンの焼ける匂いを嗅ぐ度に心がそわそわするんだろうなあって。
果林先輩も炊き立てご飯の匂いってたまんないよねー、とハナの言うことにはある一定の理解をしてくれるみたいだった。少し違うというのはこの際措いといて。
「あ、これ焼けて、次焼いてる間に何か挟む物でも作ろうかなあ」
「カズ先輩そこまでしますか」
「おハナ、いっちー先輩を侮っちゃあいけないのよ、これが」
「りんごあるしジャムがいいかなあ、それとも総菜パン路線で焼きそばかカツにしようかと思うんだけど、どっちがいい?」
買い出しの時にカズ先輩がカゴの中にいろいろぽいぽいと突っ込んでいたのはこういうことだったのかと。単に自分の生活の買い物だと思ってたけど、そうでもなかったらしい。
果林先輩はどっちもー、と手を小学生のようにピンと上げているし、ハナもどっちがいいかなあと真剣に考えて。どっちも、と言えばカズ先輩はどっちもやってしまうのだろうか。
「でも高ピーがいることを考えると総菜系は外せないか」
「カズ先輩、ハナは甘いのも食べたいです!」
「わかったよ、ハナちゃんが言うならどっちも作ろうか」
「わーいやったー!」
「何で「ハナが言うなら」っていうのに果林先輩の方が喜んでるんですかー! ハナが喜ぶタイミングを持ってかないでくださいよー、しょぼーん」
それじゃあ下準備をしようかと台所に向かうカズ先輩の背中について踏み入った台所は、それまでよりも幸せの匂いが濃くなっていた。その顔を見るまでは、あと少し。
「今焼いてるのはライ麦パンだし、こっちはカツサンドにしようか」
「そうですねー! ハナはカツサンドも好きですー!」
「そしたら、スライサーでキャベツを切ってもらっていい?」
end.
++++
いっちー宅の台所が学生の一人暮らしの装備ではなくなっているような気がするけど、まあいっちーオカンだしいいか。
というワケでハナ誕だしとかいうノリでハナちゃんとパンのお話。でも今回は自分たちで焼いちゃう。
でもいっちーと果林とハナちゃんという組み合わせっていうのもなかなかない感じではあって楽しいなあ。きっときゃっきゃしてるんだろうね。