腹が減っては戦は出来ぬと言うが、問題は、空腹を自覚してしまう程度の集中力だったことだ。一度それを自覚してしまえば、気になるのは時計の針。時計の針は深夜1時を回ろうとしていた。
そろそろ講義も中盤に差し掛かり、課題の難易度も上がり始めていた。講義中に提出する物はもちろんしているが、提出期限のある物であれば後に回してしまうこともある。今も、そんな作業の真っ直中。
石川は妹の勉強を見るとかで今日は来ていない。静かなゼミ室で作業の手を止めれば、聞こえるのは背中越しのキータイプ音。一応、存在はあるようだが、その手が止まる様子はない。
時計が気になり、苛立ち始める。空腹を自覚した途端手が止まる。溜息も増えた。パックのミルクティーはとうに飲みきったし、チュッパチャプスのストックも切れた。すべてが上手く回らない。
冷蔵庫の掟に従い無記名の物があれば食ってやろうかと思ったが、冷蔵庫の中にある物は確かすべて記名されていた。食物を求めて動くのも実に面倒なのだ。
「……リン…?」
「む、騒がしくしたか」
「明らかに、様子が変わった……」
今まで黙々と課題に取り組んでいた美奈がくるりと椅子ごと振り向き、オレの様子を窺う。美奈は腹が減ったとかそんな様子も見せずに集中していたおかげか、どうやら課題も一段落したらしい。
「リンが、この課題に行き詰まるということは、考えにくい……」
「情けない話だが、腹が減ってな」
すると、美奈は無言で冷蔵庫を覗く。簡単な夜食なら作れるという言葉には、素直に甘えることにした。あまり豪華なものを期待されても困るという忠告には、この時間帯に出される夜食が贅沢だと返した。
岡本ゼミに料理の出来る人間はほとんどいない。簡単な物なら作れるが、美味い物となると。それが男所帯の宿命なのかもしれない。男でも料理に凝る奴もいるにはいるが。
たまに料理の材料となる食材が冷蔵庫にあるときは、大抵「フクイ」と書かれている。それらを美味い物に化けさせることの出来る、ここでは唯一の名前だ。
だんだんと、食欲を刺激する香りが広がってきた。フライパンの上では米が踊っている。惚れ惚れとするような手際の良さだ。飯を炒めながらも、美奈からは質問が飛ぶ。
「オムライスは、卵がいろいろ出来るけど……」
「お前のやりやすい風で構わん」
「それが、一番困る……私は、リンの好みが知りたい……」
「そうか。どちらかと言えば、薄焼き玉子で巻く方が好きだ」
「わかった……」
半熟卵だろうが薄焼き玉子だろうが、言えばどちらでも出来るということなのか。美奈の料理技能は、卵と言えば炒り卵くらいしか出来んオレには想像も付かん領域だ。
そして目の前に出されたのは、薄焼き卵で巻かれた立派なオムライス。夜食と言えば、もっと簡単な物を想像していただけに予想を裏切られたが、こういう裏切りは嫌いじゃない。
「いただきます。……うん、美味いぞ」
「よかった……」
「お前は食わないのか?」
「ううん、私は――」
否定を打ち消すその声は、オレのではない腹の虫。どうやら美奈もそれなりに腹が減っていたらしい。しかし、オムライスは全てオレの皿の上にある。自分が食うことは端から考えていなかったのか。
「お前も食えばよかろう」
「でも」
「つべこべ言わずに食え」
スプーンに飯を乗せ、美奈に突きつけた。こうでもせねば食う気配がなかったのだ。新たな皿に取り分けるのも手間だった。食いついたのを確認して、ひとつ、大きな頷きを。
「どうだ、美味いだろう」
「作ったのは、私……」
「それはそうだが」
オレが何口か食い、美奈に一口食わせてというのをしばらく繰り返した。腹が減っては戦は出来んと言うが、美味い夜食は贅沢だ。これでもうしばらくは頑張れる。2時を回ったら課題を再開することにしよう。
end.
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リン様的には「お前も食わねば保つまい、だがスプーンや皿を準備するのも面倒だ。まあ直接食わせればいいだろう」というところに行き着いたらしい。
でもまあ言っちゃえばリン様からの強引でムリヤリな施し、という名のあーんを拒まない美奈も美奈なんですがね!!! 案外欲望には忠実なのか…?
いくら深夜だからってちょっとやりすぎじゃないですかねこの潜在的バカップル候補が…! 石川がいなけりゃこんなモンなんですがね