「温泉に行きたい……」
「は?」
大きな溜め息と同時に出たその願望は、きっと俺がよく連れ回されるスーパー銭湯とかそういう大衆浴場じゃなくて、それこそ本当の温泉なんだと思う。
温泉に行きたいという言葉の中には「静かな旅館で温泉三昧しつつ美味いモン食って美味い酒飲んで、ゆっくりとくつろぎながら読書をして命の洗濯をしたい」くらいの意味が込められているはずだ。
「伊東、ワールドカップが終わったら温泉に行かないか」
「また急だな。つかワールドカップが終わったらすぐテスト期間だからな」
「お前、そんなに履修してないだろ?」
授業、バイト、サークルなどなど、俺のスケジュールを大体把握しているのが浅浦だ。俺も浅浦の予定は大体把握してるからおあいこなんだけど。だから、2人とも空いている日はすぐに割り出される。
2泊とは言わない、せめて1泊。それくらいなら授業にもサークルにも大した影響はないはずだと有無を言わさず温泉旅行の予定が組み込まれるのだ。
「お前もワールドカップで狂った体内環境と生活リズムを取り戻すべきだ」
「温泉でねえ」
「本当は世間の夏休みに入る前、つまり今頃行くのがベストなんだぞ。今すぐにでも車を走らせたいっていうのに」
「はいはいどーも、俺のワールドカップ観戦にお気遣いいただきアリガトウゴザイマス」
多分、今の浅浦はスーパー銭湯みたいな人が大勢いる場所じゃなくて、それこそ知ってる人はほとんどいないような秘境の温泉に行くのがベストだと思っているだろう。
知っている人のほとんどいない、誰にも見つかる心配もない場所で1日ゆったりと。そういう優雅な時間の使い方をしたいんじゃないかなって。付き合いの長さ故のカンだ。
「車で行ける範囲で、ゆったりと1泊出来るところで、料金は――」
「おーい、浅浦ー?」
「海がいいか山がいいか、やっぱり山かな。そうなると食事は」
「あの、もしもーし、雅弘さーん?」
こうなると浅浦の行動は早い。ネットで条件に合う旅館を探し、早々に予約を入れてしまったのだから。何月何日、空けとけと念押しされて気付く。この予定が彼女にバレようものなら浮気扱いになるのかと。
相手が浅浦とは言え温泉旅館に泊まりで旅行って、完全に浮気旅行だ。そんなことを言えば浅浦の方も、あの人なら相手が俺だからこそ浮気旅行って言いかねないとかいう現実的な返しをするものだから。
「そう言われる俺の身にもなれ。絶対良からぬ妄想をするに決まってんだぞ」
「お前もあの人と泊まりで旅行すればいいだけの話だろ。混浴がある旅館でも探してみるか」
「そう泊まりで温泉に行くだけの財政的余裕があるように見えるか」
「お前、あんまり散財しない方だろ。テレビ買って結構時間経ってるし、ある程度は回復したんじゃないか?」
「俺じゃねーよ、慧梨夏にだ。夏はコミフェに向けて節約してんだぞ、これでもかと」
すると浅浦はまた大きな溜め息をついた。ワールドカップが終わってもお前たちバカップルはなかなかデートの予定が出来そうにないなと。そんなことは俺が一番わかってる。だけど4年に1度だ、仕方ない。
「何か心配したら疲れた。浅浦、銭湯連れてけ」
end.
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浅浦クンがワガママ放題かと思いきや、最後にはいち氏もワガママ放題なのでナンダカンダやりたい放題な幼馴染みいいね
基本いち氏の生活スタイルはワールドカップ基準なので、温泉に行く時期を決めたのは浅浦クンなりの気遣いなのかもしれないけど、一人でふらっと行きそうなのにいち氏を誘うのがね!
あと、慧梨夏の財政面の心配を始めるいち氏……ドンマイ!