三月は嫌いだ。
一年の中でいちばん、寂しい月だから。
さびしくてかなしくて、壊れてしまいたくなるから。
「誕生日おめでとう、タロー」
なるちゃんが優しく笑いながら、俺の髪を撫でた。
俺はその温かくて大きな掌の心地良さに目を細める。
今日は、俺の誕生日。
毎年、この日だけは必ずなるちゃんと過ごした。
けれども、今年は。
「ごめんね、もう行かないと」
「うん、いってらっしゃい」
なるちゃんが申し訳なさそうに笑う。
俺はちょっとだけ困ったように笑い返した。
なるちゃんは今日、どうしてもバイトへ行かなくてはならない。
人手が足りないからと、急に頼まれたらしい。
ひとりは嫌だった。けれど、我が儘を言うのはもっと嫌だった。
「ちゃんと帰ってくるよ。明日、どっか行こう」
なるちゃんはくしゃりと俺の髪を掻きまぜると、慌てた様子で出て行った。
鍵をかけて振り返ると、ガランとした部屋が視界に映る。
テーブルの上にはなるちゃんがプレゼントにくれた香水がある。
けれど、誰もいない部屋はひどく寂しくて哀しかった。
「‥‥もう子どもじゃないよ」
ぽつりと囁く。
子どもじゃない。
けれど、大人でもない。
解っているけれど、解りたくない。
大丈夫。なるちゃんはちゃんと約束を守ってくれる。
ちゃんとそばにきてくれる。
だから、待っていよう。
ソファに腰掛けて、香水を開けた瞬間、あのひとの顔が浮かんだ。
なるちゃんたら、わざとなのかな。
心臓がどくんと脈打つ。
あのいつも強気で、でも無防備で、本当はすごくさみしがりやな女。
「‥‥ゆの‥」
あいつを好きになってから、俺はいったい何を得ただろう。
恋なんて、愛なんて、いちばん知りたくはなかったのに。
どうして、こうもあいつの顔が浮かぶのだろう。
時計を見やる。
時刻は20時を過ぎたところ、着く頃には21時を周るだろう。
俺は、ヘルメットを抱えて外へ飛び出した。
なるちゃんがあいつを、湯野を好きなのは知っている。
湯野も同じように、なるちゃんを好きでいる。
けれどお互いに近付きはしない。
だから好きになってしまったのかな。
だから諦めてしまえないのかな。
考えはただ、巡るばかりで。
エンジンを止めて、湯野の部屋を見上げる。
湯野にしては珍しくバイトが休みだったようで、窓からは皓々とした明かりが漏れていた。
湯野の番号をコールする。
数秒の呼び出し音の後に、湯野の声が聞こえた。
『もしもし? 桐島?』
「……、もしもし?」
心臓がどくんと騒ぐ。
この心臓を満たす気持ちはいったいなんだろう。
『なに、珍しいね。桐島が電話してくるとか』
湯野がけらけら笑いながら囁く。
俺はどうしようもない息苦しさに小さく息を詰めた。
「声。……声、聴きたくなったって言ったら、信じる?」
『あーはいはい、寂しくなった?』
湯野がますます可笑しそうに笑う。
普段あれだけ喧嘩しているのだから当たり前かも知れない。
けれど、そのたった一言がひどく、あたたかい。
「‥ねえ、窓の外見てよ」
ぽつりと呟くと、電話越しに湯野が戸惑った反応をした。
衣擦れの音の後にカーテンがそっと開かれる。
湯野のひどく戸惑った表情へ小さく手を振った。
『え…えぇえ!? ちょ、待っ、ちょっと待ってて!』
その一言を最後に電話越しからドタバタとやかましい音が響く。
どうやら慌て過ぎて電話を切るのを忘れているらしかった。
くすりと、自然に笑みが零れる。
「き、桐島?」
携帯を握り締めたまま、階段の踊り場から湯野が顔を覗かせた。
僅かに頬が紅潮しているのは風呂上がりなのだろうか。
通話を切ってポケットに入れる。
ねえ、なるちゃん。
今日だけ、今日だけは許してね。
「びっくりした?」
「……寿命が百年縮んだ」
「……あんた、あと何年生きるつもり?」
階段を降りながら、湯野はいちまんねーんと馬鹿丸出しな答えを怒鳴る。
こんな馬鹿を好きになった俺は相当な馬鹿かもしれない。
「ところで桐島、何かあったの?」
湯野が何気ない顔でそっと尋ねた。
俺は小さく笑って首を振る。
好きだと言えたら、どんなに楽になれるだろう。
けれど言わないのは、言ってしまったらきっとこの女は壊れてしまう気がして。
「そっか」
湯野が優しく笑う。
作り笑いだって解っているのに、ちっとも嫌じゃなかった。
心配してくれているのが、解るから。
「ねえ、湯野」
「ん、何だい?」
一言。たった一言が言えない。
好きだと言ったら、欲しくなる。
本当は言わなくても。
なるちゃん、早く奪っちゃってよ。
こいつを迎えにきてやって。
じゃないと、おれ
「目つぶってくれない?」
湯野が怪訝そうに眉を顰める。
けれど、そっと目を閉じた。
「十秒、俺の好きにさせて」
そう言い放って、湯野の小さな身体をそっと抱き締める。
早春の空気に冷やされて肌は僅かに冷たいが、どこか温かい。
そう感じた瞬間、ひどく安心して。
「――――」
唇をそっと動かす。
声にはしない。結果は見えている。
ねえ、聞こえた?
湯野。湯野、俺はあんたが、あんたのことが、
「‥‥ありがとう」
かっきり十秒後、俺は湯野を手放した。
そしてフルフェイスのメットを被り、バイクに跨がる。
「…桐島、」
湯野が呆然と俺の名前を読んだ。
俺はメット越しに笑う。
伝わればいいのだ。僅かでも、少しでも、あんたに。
「おやすみ」
「桐島、」
湯野が縋るように俺の腕を掴む。
ライオンハートがふわりと香った。
「‥‥きてくれて、ありがと」
湯野が微笑む。俺も笑った。
エンジンをかけて、出発する。
湯野の横を通り過ぎる瞬間、湯野が泣いた気がして。
それでも、俺は止まらなかった。
なんだろうか、ひどく、目が熱い。
頬を熱くて冷たいものが伝い落ちる。
寂しくはない。苦しい。
心臓が痛くて、痛くて、壊れてしまう。
ああもういっそ、
(すきだすきだすきだ、でもあんたがすきだから言わないよ)
青春ララバイ