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夏とアイスと蝉の声。

 



 暑い。いや、むしろ熱い。



「あづいよお゛…」


「そのうめき声、余計に暑苦しいから黙ってくれる?」


「だってさあ…暑いー…」



 扇風機の前に陣取って団扇をぱたぱたさせながら、あたしは黙々とバイクを弄る桐島を振り返った。
 彼は額にじっとりと汗をかきながらも、相変わらずの無表情である。
 若干、むかつく。



「てゆーか、なんであたしがあんたに付き合わなきゃなんないの。部屋戻ってたっていいじゃん」


「だめ。なんであんただけ涼しい思いさせなきゃなんないわけ?」


「はあ? なんなのそのジャイアニズム!ありえない」



 あたしが溜め息を吐くと、桐島はさも不機嫌そうに煙草に火を点ける。
 実はそうやって煙草を吸う姿が結構、いいなあと思う。
 けれど、その仕種が好きだなんてあたしは言わない。
 言えば、この常春頭は馬鹿の一つ覚えみたいにばかすか吸うに決まっているのだ。 彼は呆れたように溜め息を吐くと、持っていた工具(名前が解らない)を工具箱に戻す。



「あのね、ここ俺んち。俺にも見られたくないものの一つや二つあるの」


「うわっ、もうやめてよ!」



 わかったら黙って、とあたしの顔に紫煙を勢いよく吐きかける。
 あたしはばたばたと手を動かして、桐島を睨んだ。
 そんなあたしを見て桐島は少しだけ、困ったように笑う。




「よくそんなんで鳴海ちゃんに愛想尽かされなかったよね」



 そうやって、鳴海の名前が出てくるのは本当に久々だった。
 だから、どう、答えたらいいか解らなくて。
 解らないから、きっとその時のあたしの顔はとても間の抜けた顔をしていた。



「なにその顔。あんたってほんと笑える」


「…なるちゃん、元気?」



 桐島が場を繕うように軽口を叩く。
 その仕種が、不自然であたしは思わず、いつもなら聞かないようなことを聞いてしまった。
 桐島はんー、と曖昧な返事をした。



「……連絡先変わってないの、知ってるでしょ?湯野」



 連絡してみなよ、と彼は珍しく優しい口調で言った。
 だから、あたしは黙って頷くしか出来なくて。
 暑かった。蝉時雨は鳴り止まない。
 辺りは強い陽射しを浴びてきらきら輝いていた。
 空を瞼に掌をかざして見上げる。
 そこには鳴海と別れた時と同じ、憎らしいほど澄んだ空があって。
 桐島はバイクの点検が終わったらしく、工具を片付け始めた。



「ねえ、湯野」


「んー、なんだい」


「蝉、うるさいね」


「うん。‥‥でも、嫌いじゃないよ」


「俺も。夏、すきだし」


「‥‥なるちゃんと同じこと言ってる」



 ふと、小さく笑う。何だか嫌な予感がしていた。
 けれど、それはあたしが止めることは出来やしないものだと解っていた。
 だから、苦しいのか。それとも、




「湯野。半分あげる」



 す、と鼻先に冷たいものが現れる。
 そのチョココーヒー味のアイスはあたしが大好きで、いつもなるちゃんが買ってくれた、ああ、どうしよう。



「ねえ、湯野」



 鼻先にアイスを差し出したまま、タローは立ち尽くしていた。
 ただ懐かしいのか、それとも、恋しいのか、意味のわからない涙を流す湯野はどうしようもなく美しかった。
 抱きしめることが出来たなら、どんなによかっただろう。
 この女が俺を思って泣いてくれれば、どんなに幸せだったろう。



 おれ、いま、きっとひどくみにくいかおを。



「‥‥きりしま、」



 湯野がか細い囁きをこぼした。
 タローは差し出したままだったアイスを湯野の膝に投げる。
 その仕種に湯野が少しだけ困ったように笑った。



「…つめたい」


「シェイクになるよ。早く食べなよ」



 湯野が頷いて、笑う。
 その笑顔が嫌いで、すきで、どうしようもなくなる。
 ぷちりと吸い口を千切ると、湯野の掌に溶けたアイスがこぼれた。
 あ、と小さな声が漏れる。
 蝉の声が、消えた。



「…っあ、」


「‥どうして?」



 声が掠れた。
 彼女の頬が赤いのはきっと、暑さだけではない。
 湯野の手首はとても華奢で、ちょっと力を込めれば簡単に壊れそうだ。
 こんな女、壊してしまおうか。めちゃくちゃに傷つけてしまおうか。
 掠れた声が、心の中で訊いている。
 どうして、おれじゃないの。
 どうして、おれじゃだめなの。
 どうして、どうして、どうして、どうして。



 ちゅ、と音を立てて掌に滴る甘い液体を舐めた。
 湯野は抵抗しない。ただ、俯いてタローのなすがままになっている。
 だから、もう、止まらなかった。



「ん、ぅっ!」



 唇を思うままに貪った。
 湯野が息苦しそうに胸を叩いても止めなかった。
 湯野のシャンプーの匂いがして、頭がくらくらした。
 もっと欲しくて、抱き締めようとしたけれど、―――出来なかった。



「…どうして、俺じゃだめなの」


 どうして、いつも選ばれるのは鳴海ちゃんなの。
 あんたしかいない。俺をまっすぐ見てくれた女はあんたしかいないのに。


「…どうして、鳴海ちゃんなんだよ」



 溶けきったアイスが車庫のコンクリートにぽたりぽたりと滴る。
 桐島は苦しそうにあたしの肩を掴んだまま、俯いていた。
 あたしは、少しだけ痺れている唇を歪めてそっと笑みを作ってみせる。
 それはきっと、ひどく歪んだ笑みに違いなかった。



 ねえ、なるちゃん。あの日と一緒だね。
 逃げるあたしと、追いかけられないなるちゃん。
 追いかけられなくしたのは、あたし。
 桐島の姿があの日の彼と重なっていく。
 こんなに彼を追い詰めているのは、あたしなのだとあたしは、思った。



「あたしは、どちらも選べない」



 それなのに、そうやって答をうやむやにする狡くて弱いあたしが憎い。
 蝉の声が帰ってくる。
 あたしと桐島は、互いに困ったように笑ってみせるしか出来なかった。





  夏 
    
  に 
  隠 
    
  し 
  た 
  嫉 
    
  妬 
    
  心 
 


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