鳴海の穏やかな低い声は、柔らかな余韻を残して消えていった。
湯野はなんと言えばいいのか解らないのか、唇を噛んで黙り込む。
下から覗き込んでみると、からかわれて悔しがる子供のように今にもこぼれ落ちそうな大きな丸い瞳に涙をうっすらとためていて、鳴海は思わず小さく吹き出した。



「なんなんですか、もう!やっぱりからかってるんでしょう…?」



くつくつと声を立てて笑う鳴海に熱で赤い顔を更に真っ赤にして、湯野は怒る。
しかしさすがに辛くなってきたのか、声に覇気はなく、しりすぼみになって首をぐにゃりと力なく傾けた。



「…いや、そこは年相応なんだなって。まあとりあえず、今日は帰ろう。どうせもう夕勤の子が来るよ」



鳴海がどうにか笑いを治めてそう言うと、彼女は少し不服そうだったが、渋々といった体でこくりと頷く。
寒いのか、半袖から伸びる細い腕を何度もさすり、見かねた鳴海は自分のロッカーからパーカーを取り出して肩にかけてやった。



「リーダーに話してくるからここで待てるね?」



「…ちっさい子じゃありません」



「はいはい、いい子にしててね」



口先を尖らせて、拗ねたように反論する湯野をあしらって、鳴海はスタッフルームをあとにする。
厨房に戻るとちょうどシフトリーダーにかち合って、鳴海が話しかけようとすると彼女のほうから声をあげた。



「あ。おかえり、木村くん」



「冴木さん」



「今日さーすごい暇じゃない?雨なのに夜お客さん来んのかなー」



シルバーを綺麗に磨いて補充しながら、冴木はさもかったるげにため息をつく。
ちょこちょこシフト調整も任されることがあるらしく、人を多く組んだりすると注意されるらしい。
この間も店長に言われたんだよねー、と遠い目をする彼女はどこからどう見ても社畜であった。



「すみません、冴木さん。湯野さん体調悪いみたいで熱も高そうだし、俺送ってきてもいいです?」



足元フラフラで、と言い訳がましく付け足すと、冴木はびっくりした顔してそれから心配そうに眉をひそめた。




「えー熱高そう?あの子、あんまり面倒見てもらえてなさそうだけど大丈夫かな…全然大丈夫です。人は足りそうだから」



「そんなの解るもんです? じゃあタイムカード切っときますね」



「えー、解るでしょ。服装とか、全部サイズ合ってないじゃん」



サラッと言われたその台詞がひどく軽く聞こえて、鳴海は冴木に気づかれないように唇を噛む。
ありえた現実を先程から何度も突きつけられている気がする。
もしあの子が彼女と同じように、哀れみや同情の目を向けられていたら、あの子は今以上に誰も信じなかったかもしれない。
そこまで思い至った時、これはどちらに対する哀れみや、悔しさなのかが解らなくなって、鳴海は口元を手で覆った。
冴木が最後のシルバーを磨き終えて、カトラリーケースをひとまとめに積み上げながら、ふと鳴海の顔を見た。



「…木村くんさあ、湯野さんに手出したりしないよね?」



ぎょっとして思わず冴木を見返すと、彼女は何とも言えない複雑な表情を浮かべて、眉間に少し皺を寄せた。



「え…あの、なんで、ですか?」



「木村くん、基本的に人と関わるの嫌いでしょう」



特に女、そう言って冴木は禁煙パイポを口にくわえた。
ついさっき、恋人ごっこをしようと言いましたなんて、口が裂けても言えない鳴海は更に図星を刺されて、余計にどぎまぎした。



「モテるのに、女の子と絡んでる時目が死んでるよね。 でも湯野さんの面倒は率先して見てくれるし、ミスも見逃さない。
まあ上の立場としては助かるけど、そこに恋愛絡まると困るんだよね。
彼女、未成年だから」



がじ、と音を立ててパイポを遊ばせながら冴木は淡々とした口調で言いきった。
彼女は鳴海よりも年上で大人だった。だからこその言葉だということも鳴海には理解できた。
しかし、かといってもう伸ばした手を引っこめる理由には、多分足りなかった。



「…よく解んないんです。でも、恋愛ではないので、安心してください」



「………茶化して悪いけど茶化させて。ガチかよ、頼むわ」



冴木はたっぷり30秒黙ったあと、律儀に断ってから茶化した。
その反応で、鳴海は自分が冴木のことはそんなに嫌いじゃない理由を何となく理解した。
彼女はさもめんどくせえ、と言わんばかりにガジガジとパイポを齧り、んん〜と唸る。



「まあ…外野がとやかく言いたくないし、釘は刺したからもし手出しても少なくとも私以外にはバレないようによろしく」



ひらりと後ろ手を振って、冴木は立ち上がり、早退届を2枚鳴海に渡してくる。
それを受け取りながら、鳴海は察しのよすぎる上司を見返す。
彼女はガラ悪くパイポを吸いながら、鳴海のもの言いたげな顔を見つめ返した。



「……俺、ガチに見えます?」



「少なくとも、私にはね。おつおつー」




サラッと言い返されて、ますます鳴海は押し黙る羽目になった。
それ、次のシフト時に持ってきてねー、と軽い調子の冴木の声を背に鳴海は休憩室に早足で戻った。
先程からの雨は強くなってきていて、バイクは使えないなとぼんやり考えつつも、冴木に言われた言葉たちを反芻する。
特に未成年、というキーワードは楔のように鳴海の心へ深く突き刺さった。
解っているつもりだったのに、多分自分では理解出来ていないところもあるのかもしれなかった。
冴木が湯野が苦しんでいるのに気づいていても、何もしないことも。




「……俺に、」




唇をきつく噛み締める。自分に何が出来るのだろう、どうすればあの女の子を救ってやれるのだろう。
鳴海には何も思いつかなかった。けれど、どうしてもあの女の子を手元に置いておきたかった。
その為には、どんな手だろうとなんだって使ってやる。
歯痒い気持ちを抑えながら、滅多にかけない番号を呼び出してコールする。
数回のコール音の後に、あまり聞きたくない声が低く耳朶に落ちてきた。




「……もしもし、ーーー」




休憩室に戻ると、湯野は最早取り繕う体力もなく、机にぐったりと伸びていた。
既に外は土砂降りだし、タクシーは呼んでおいたが、これは歩けるのだろうか。




「湯野さん、起きれる? 車呼んだから、病院行って帰ろ?」



「……病院…行きたくない、」




最早、土気色を通り越して真っ白な顔色で呻くように湯野は応えたが、その要望は受け入れられない。
どう見ても、一晩くらい泊まった方がよさそうなくらいだった。



「…悪いけど、抱えるよ」



湯野のロッカーから着替えと鞄を取り出してまとめると、自分の荷物と一緒に背負い、そのまま湯野を抱きかかえる。
ちょうど来ていた夕勤の子達がぎょっとした顔をしていたが、それは無視してさっさと裏口へ向かう。
ふと視線を感じて目線を泳がすと、冴木がこちらを見ていた。
それはなんとも言えない呆れた顔で、鳴海はちょっとだけ肩を竦めてみせる。



すみません、冴木さん。やっぱり、恋かもしれません。




「すみません、中央病院まで」



休日診療をしている病院の名前を告げて、ぐったりと鳴海にもたれかかる湯野をそっと抱き寄せる。
身体は燃えるように熱く、けれど伝う汗はひどく冷たい。
どうしてだろう。こんなに小さな肩に、どうしてこうも何もかも乗せてしまえるのだろう。
鳴海は昼間見た、彼女の母親の下卑た笑みを思い出して目元を押さえる。
自分の為にしか子供に会いにこない。子供はずっと、待っているのに。



横殴りの雨がタクシーの窓を酷く叩いては流れていく。
心を鎮めたくて、鳴海は抱き寄せた湯野の頭を少しだけ強く、そっと抱きしめた。



病院に着くとやはり少しの抵抗は食らったが、無理やり抱えて診察室に放り込むと、過労と少しの栄養失調を指摘された。
解熱剤と点滴を投与され、その隙に会計を済ませた頃、ジーンズのポケットに押し込んだスマートフォンが着信を告げた。




「はい。………うん、そう。……解った、ありがとう。お父さん」




父の義務的な声がひどく耳障りだった。けれど頼れるものはなんだって今は使うしかない。
あの女の子を救ってやれるのは、きっと自分だけなのだ。
あとから思えば、驕りも甚だしいことを鳴海は本気で思っていた。
救われたいのは、誰だったのか。
のちに彼は何度もその問いを呟くことになる。




電話を切って、静かな処置室に戻ると、カーテンに区切られたベッドで湯野は小さな寝息を立てて眠っていた。
真っ白な顔色も相まって、まるで陶器人形のようにも見えた。
みすぼらしい外見のせいか、あまり目立たないが、顔の造りがとても整っていることに今気がついた。
指先でそおっと頬に触れる。点滴が効いてきたのか、熱も下がってきたように思えた。
薄暗い処置室で白熱灯の光が彼女の幼い顔立ちに影を作る。
その様がひどく綺麗で、鳴海はスマートフォンを取りだし、カメラを起動しようとしてーーーやめた。
それは彼女の瞼がかすかに震えたからでもあるし、さすがにここまでしてしまうとストーカー行為のように思えてしまったのもある。




「…起きた? お水あるよ、飲める?」



誤魔化すように柔らかい声でまだ少しぼんやりしている湯野に声をかける。
一瞬自分がどこにいるのか解らなかったのか、ふわふわと視線をさ迷わせたあと、ゆっくりと鳴海の顔へ視線を向けた。




「お金…あれ、保険証は、」



「財布、開いて出しちゃった。ごめんね」




そう言うとほっとした顔になる。実際に支払ったのは鳴海だったが、ひとまずは誤魔化しておきたかった。
点滴が落ち切るまであと少しあった。その間に鳴海はこの子供を説得しなければいけなかった。




「あのね、加那。きみを俺の家で預かることになったよ」