「おめでとう、木村。素晴らしい話だぞ」
顧問の唐突な一言に、俺はレンズを手入れする手が止まった。
プルルル、という無機質なコール音が数回したのち、いつもと変わらない落ち着いた穏やかな声がした。
「鳴海ちゃん?」
「タロー、元気? 今、大丈夫?」
うん、と子供っぽい頷きが返ってくる。
しかし、すぐには言葉にすることが出来ない。
しばらく、居心地の悪い沈黙が続いた。
「鳴海ちゃん? どうしたの、何かあったの?」
なかなか言い出せずにいると、タローの不思議そうな声が耳元に響いた。
――言わずにいることも、まだできる。
何も言わなければ言わないでいても、タローは怒ったりしない。必ず帰ってくると、解っているから。
けれど、今回は違う気がした。
だからこそ、言わなければいけない気がした。
「――アメリカに、行くことに、なったんだ。この間、コンテストに出品した写真が評価されて、一緒に仕事をしようって」
タローが小さく息を詰めたのが、電話越しでも分かった。
緊張して、やたら早口に言ってしまった俺も、気づかれないように唾を飲み込む。
タローは何も言わない。
俺は矢継ぎ早に言葉を続けた。
「シェーン・ウィリスっていう風景専門のカメラマン。その人について、いろいろ教えて貰う。‥‥三年は帰ってこれないと、思う」
「あいつのことはどうするの」
タローが、ぽつりと呟いた。
あいつが誰だか一瞬、理解できなくて戸惑う。
タローは静かな声で続けた。
「鳴海ちゃんは知ってるでしょ。湯野のこと、なあなあにしたまま、逃げるの?」
「加那は関係ない」
思いの外、強い口調で反論した。
けれど、タローも引かなかった。
「じゃあなんでまだあいつとの写真、捨てないの? どうして、湯野と住んでた部屋、出ていかないの? 関係ないっていつまで逃げるの?!」
こんな風にタローが口調を荒げることがあっただろうか。
こんな風に俺を責め立てたことが一度でもあっただろうか。
俺を許し続けた、タローが、
「―――まだ好きなくせにどうして湯野を迎えにいかないの」
その時、俺はタローもまた、彼女を見つけてしまったことを理解した。
「‥おれは‥」
掠れた囁きがこぼれる。
けれど、何が言いたいのかよくわからなくて何も言えなかった。
加那を再び見つけた時、加那は他の男のものだった。
しばらくして別れたと聞いた時、喜ばなかったと言えば、嘘になる。
けれど、加那は俺を頼らなかった。
だから俺はもう、加那と付き合えないのだと思って。
―――お得意の袋小路に逃げ込んだ。
「加那はきっと、迷ってるね」
俺を選ぶのか、それとも、タローを。
そしてその答を俺達に伝えるのか、伝えないのかも。
「‥あいつは待つよ、きっと。鳴海ちゃんが帰ってくるの」
今だって待ち続けているのだから。
タローの語尾にそんな言葉が含まれているように、聞こえた。
それは俺の浅はかな願望でもあった。
「‥俺は、湯野に伝えないよ。湯野に、嫌われたくないし」
ぽつりとタローが、呟いた。
俺はその言葉に小さく苦笑して、解ってるよと囁く。
解っている。だからこそ、まだ迷っている。
「また連絡するよ。ちゃんと‥加那にも」
それじゃあ、と言って、俺は一方的に電話を切った。
そのまま壁に凭れて、ずるずると床にしゃがみこむ。
ポケットを探ると、随分前に辞めたはずの煙草がかさかさと音を立てた。
パッケージを見て小さく笑う。
緑にラクダの絵。加那が可愛い、と笑うからこの煙草を変えた。
口にくわえると、メンソールの味が唇にじんわりと広がった。
何だか予感があった。
確信に近く、けれど受け入れがたい予感が。
けれど、彼女が欲しいことに変わりはない。
だから、くるしい。だから、いとしい。
どうしようもない気持ちでいっぱいになり、俺は小さな溜め息を白い煙に紛れさせる。
窓を見上げると夏の眩い陽射しが射し込んでいた。
蒼く澄んだ空。
高い夏の空が、やけに目に眩しかった。(あの瞳によく似ていて、)
穏やかな終 焉を望んだ臆病者