当たり前に続く日常のはずだった。
「おっはよーん!」
2学期が始まったばかりのまだ暑い9月の朝、あたしは珍しく早朝バイトが休みで悠々と教室に飛び込んだ。
まだ夏休み気分の残る教室の空気はそこかしこに気だるさがあって、それがみんなに伝染しているようにも感じる。
あたしは隣の席で眠たげに頬杖をつく中谷を振り返り、そして首を傾げた。
昨日、メールで明日は貴巳と行くと言っていたのに、桐島がいない。
トイレかと思ったが、鞄もないのでそもそもまだ登校していないのだろう。
「おはよーん中谷。ねえ、桐島は?」
風邪ならメールが来るはずだしー、と中谷に訊ねると、彼は長い睫毛に彩られた切れ長の目をぱちくりとさせて、不思議そうな顔をする。
そして、唐突にあたしの額に迷わず手を添え、自分の額にも手のひらを当てた。
完全に熱を測るポーズである。あたしは何をふざけているのかと呆れてじと目になった。
「ナニ意味わかんないことしてんの、熱なんかねーですわよ」
「…いや、お前こそ何言ってんの?キリシマって誰?」
「は?ナニ喧嘩したの?」
どーせくだらない理由で言い合ったのだろう二人を想像してしまい、思わず吹き出す。
けれど、中谷の表情はますます怪訝なものとなっているのに気付いて、あたしは固まった。
中谷はもう一度、あたしの額に手を添え、首筋に手を当てた。
その表情は本当に困惑していた。
「だからお前何言ってんの?…熱はないみたいだけど…俺らのクラスにキリシマなんていないだろ」
「……へ?」
思わず間抜けな声が出る。
1年も同じクラスにいるのに、中谷は何を言っているんだろうか。
昨日も、みんなで一緒に帰ったのに?
「おはーす、何やってんのあんたら」
固まり合うあたしと中谷に遅めに登校してきた瀬那が不思議そうな顔で挨拶をした。
その背後には引っ付いてきたであろうアンジュもいる。
あたしは間抜けな声が出た時のポカン顔のまま、瀬那たちを振り返った。
「……なあ、萩原。キリシマって知ってる?」
中谷は真顔のまま、瀬那に問う。彼女はひっつきたがるアンジュを押しやりながら、不思議そうな顔をする。
アンジュもへばりつこうとする手を止めて、あたしと中谷を不思議そうに交互に見た。
瀬那は頬をぽりぽりと掻きながら、困惑気味に答えた。
「キリシマなんて苗字、この学年いないでしょ」
「いるよ!」
反射的に立ち上がって怒鳴った。ざわついていた教室がいっぺんにしん、と静まり返る。
心臓がやけに痛い。背中の芯がつめたくなって何だか上手く息ができなかった。
桐島はずっといるのに。みんな、ドッキリなのかな。なんで知らないふりなんて、どうして?
ぐちゃぐちゃな思考が頭の中でやかましい。
そうしてふと、あたしは気付く。
………あれ? 桐島ってどんな顔だった?
「………いるんだもん。桐島は、いるよ」
力の抜けた声で囁く。クラス全員からの困惑気味の視線が刺さって、寒気がした。
勢いを無くして俯くと、中谷があたしを宥めるようにぽんっと頭を軽く叩く。
いつもなら安心するはずの彼の優しさも、今はなんの意味もなさなかった。
次第に教室へ喧騒が戻ってくる中、あたしたちは何も言えないまま、気まずい空気が流れる。
ふと唐突にアンジュが口を開いた。
「ねえ、カナ? もしそのキリシマって子が本当にいるのなら連絡してみたら?」
「あ、それ確かに。そんだけ言い張るなら連絡先知ってるだろ?」
アンジュの提案に中谷も同意する。あたしは少し震える手でスマホのメッセージアプリを開いた。
そしてまた、心臓がどきりとする。
「……なにこれ…」
桐島のアカウント名が、NO NAMEに変わっていた。
今朝見た時まではちゃんと桐島だったのに。
慌てて内容を開く。メッセージ自体は消えておらず、ひどく安心した。
震える指でメッセージを送る。『いまどこ?』
それはすぐ既読になって、あたしは少し泣いてしまった。
「ほら!これ、既読になったよ!もう知らないふりなんて怖いからやめよーよ!」
スマホを突き出して必死にアピールする。
3人とも即座にスマホ画面に釘付けになって、何故か急に顔色を変えた。
特に普段から笑みを絶やさないアンジュが無表情になって、あたしは今起きていることが夢ではないことを実感した。
「……湯野、悪いけど俺達には何も見えない」
重々しく中谷が、言った。あたしは、涙がぽろん、と零れ落ちたのを頬で感じた。
恐る恐る画面を覗く。メッセージアプリはちゃんと桐島からのメッセージを表示している。
けれど、中谷たちは嘘なんかつかない。
ねえ、きりしま。
あんた、いったいどこに消えちゃったの?
始業のチャイムが鳴り始める。
それは何故か、何かの終わりを告げているような気がした。