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どうせなら嘘から始めましょう





「あのね、加那。きみを俺の家で預かることになったよ」



そう言った瞬間、湯野のただでさえ大きく丸い目はこれ以上ないほど大きく見開かれて、そのまま固まっていた。
わりと予想していた反応だったが、いざ実際見てみると面白くて、鳴海は思わず声を立てて笑いそうになる。
それをグッと堪えて、彼は続けた。



「きみのご両親にも、今住んでるお祖母様の家ももう話を通したから、きみの荷物は今週中には俺の家に届くと思うよ」



「いやいやいやいや!待って!こともなげに話続けないで怖えよ!」



がばりと飛び起きて、湯野は制止の意味を込めてか、鳴海に手を伸ばして叫ぶ。
その顔は混乱を極めていて、驚きすぎたのか、顔に色味も戻っていた。
鳴海はやっぱり堪えきれずに吹き出し、俯く。
確かにこれは鳴海の暴走に近い。けれど、止める気も彼女を手放す気もさらさらなかった。



「だって加那。きみ、今のお家で本当に幸せ?辛くない?」



「それはあなたに関係ないはずです。…ここまでしてもらって言うセリフじゃないですけど」




情に訴える作戦に出たが、ことも無く切り捨てられた。しかし恩は感じているらしく、少しいたたまれなさそうな顔をしている。
押し時であると判断した鳴海はのちに湯野が胡散臭い詐欺師の顔と評する100パーセントの笑顔を浮かべた。




「だから、俺は関係あるようにしたいんだって言ったじゃない」



「だとしても、木村さんにどうこうしてもらう問題でもないですよ。
………というかどうして決定事項なんですかわたしが半分死んでたのって多分3時間くらいでしょ怖すぎなんですけど」




焦りで口数が異様に増えている。やっぱり、面白い。
感情論でゴリ押しは難しいと判断した鳴海は先程の作り笑いとはうってかわり、少し冷たい顔を作った。
怒りはエネルギーだ。湯野の場合はとくに。ならば、それを利用しないテはない。




「それこそ、俺もたった3時間で話が済んで驚いてるよ」




湯野の表情が途端に曇る。父からの電話は、ひどくあっけないものだった。
市議会議員である父が湯野の祖母の家に人をやり、話を聞こうとしたらしい。
応対した彼女の叔母は一言、「うちには関係のない話だ」と言ったそうだ。
連れていくと言うなら勝手にすればいいし、こちらも厄介払いが出来るのでありがたいと笑ったという。
彼女の両親は両親で、義父の母は湯野が預け先でネグレクトされていると聞くと、顔を羞恥で真っ赤にして小さくなり、そちらのいいようにと蚊の鳴くような声で答えたとか。
両親はひどく面倒そうな顔をしていたそうだ、と父の報告を聞いた時は腸が煮えくり返る思いだった。
子供をなんだと思っているのだろう。大人なのに、どうしてそんな科白ばかり吐けるのだろう。
同じ人間のはずなのに、思考回路がまったく理解出来ない。したくもない。



「………何を言ったか、大体は予想がついています」



怒りで二の句も告げられずにいると、その沈黙を呆れととったのか湯野は冷たい顔をして、呟いた。
よっこいしょー、ともう一度横になりながら、湯野はやけっぱちに笑ってみせる。
その一連の仕草がひどく、悲しかった。何度も何度も、突き放されてきたからこその反応なのだと理解出来てしまったから。



「叔母さん達は早く出てってくれで、オカン達はどーせお好きにどうぞーでしょ? こっちも好きでいるんじゃないんですけど」



蓮っ葉な物言いに胸がつぶれるような気持ちになる。
この子はこうやって諦めて、受け入れてきたのだろう。大人からの仕打ちを、かえってこない愛情を。
唇を噛みそうになるのを堪えて、鳴海は目を伏せたまま、シーツに潜り込んだ湯野を見つめた。



「……特に説明は必要なさそうだね、」



「あんなんと産まれた時から付き合ってきてますからね」




乾いた笑い声がシーツの向こうから返ってくる。
その強がりを、俺などがどうして咎めることが出来ただろう。
物分りのいい振りをした大人の皮を被った子供の精一杯の強がりを。



「こちらできみの荷物の移動はするから、立ち会いしたくなければそれでいいよ。体調も悪いことだしね」



小さな背中にそう告げると、ますます居心地が悪そうに縮こまった。




「ごめんなさい、そうしてください」




点滴が終わる頃には湯野は随分調子を取り戻していた。
ふらつきかける足元を気にして、鳴海が手を差し伸べると彼女は不思議そうに鳴海の顔と手を交互に見つめる。
そんな些細な仕草でさえ、彼女が大人に頼ることが出来なかった証明のように思えて、鳴海は苦い気持ちになる。



「手。まだふらつくでしょ」



柔らかく笑って、湯野の目の前で右手をふらふら振ってみる。
湯野は少し困ったように眉をひそめて、しばらく迷ったのちに恐る恐るといったていで鳴海の差し出した手ではなく、鳴海の服の裾を弱々しく掴んだ。



「…ちっさい子じゃないです、」



掠れた声で俯いたまま、湯野が囁く。
そんな彼女の精一杯な抵抗にそれなりに女性経験もあるはずの鳴海は、一気に頬が熱くなるのを感じた。
咄嗟に顔を伏せて誤魔化す。表面上は何とか余裕ぶってみせることに成功したが、もし本当は必死に平静を装っているなんてバレたら恥辱死しかねない。




「……そうだね、ちっさい子じゃないね」



「笑いこらえて顔真っ赤ですよ、ちくしょう」




すっかり猫かぶりをやめた湯野が悪態をついてそっぽを向く。
どうにか思惑通りに捉えてくれたので、鳴海は胸を撫でおろし、裾を掴んだ湯野の手を掴んでにっこり笑ってみせた。




「でも恋人だからね、手繋ぎたいんだ」



「まっ…まだそんなこと」



「別にいいじゃん、ゲームなんだから」




ふらつきそうな湯野を支えて、立ち上がらせる。荷物をとりあげて看護師に声をかけてから薄暗くなった病院のエントランスへと向かう。
激しさを増した雨を避けて、タクシーを待っているとふと隣で押し黙っていた湯野のか細い声がこぼれた。




「…あの日と同じ雨ですね、」



「…え?」



「違いましたか?」




思わず惚けた声が出る。湯野を見おろすと不思議そうな色を映した大きな瞳とかちあった。




「あの時のお兄さんでしょう?」



「……覚えてたの?」



「小さい子供じゃあるまいし、そこまで貧弱な記憶力じゃないですよ」



ふう、と大人じみた溜息と共に湯野は言った。頬に落ちる髪をかきあげて、雨の向こうを見透かそうとするように目を眇める。



「初対面の時に気づいてましたけど、その…まあ変につっこまれたくないなと思いまして…木村さんも何も言わないし、私も言わないでおこうと思ったんです」



あのモデル代の500円のことを言っているのだと気づいて、鳴海はああ、と相槌を打つ。
確かに二度と会うことはないと思っての行動だと思えば、再会した時に言いづらいのも理解出来た。




「忘れてるのかと思ってたよ」



「まあこんなことになるなら、言っとこうかなって」



はは、と乾いた笑いをこぼす湯野はやけっぱちに見えて、それでもやっと年相応な態度にも思えた。
それが何故かほっとして、鳴海はそっと密やかに笑う。
遠くで車のライトが薄闇にぼんやりと浮かび、徐々に近づいてくるのが見えた。
あの日、解っていたのに手を差し伸べられなかった女の子を鳴海は手元に掴みとったが、これが正しいことなのかは解らない。
だけれども、こんな顔をさせてやることが少しでも出来れば、このどうしようもない罪悪感も少しは和らぐのではないかとぼんやりと考える。




「…帰ったら、写真あげるよ」


「えっ」


「えっ?」




そう言うと湯野はなんだか嫌そうに声をあげた。
わりと綺麗に撮れたと思っていた鳴海は予想外の反応に思わず同じ反応を返してしまう。




「………」



「………」




謎の気まずい沈黙が落ちたところでタクシーが目の前に停車する。
パカッと開いた後部座席のドアを掴んで乗り込みながら、鳴海は微妙な顔の湯野にもう一度同じ台詞を伝えた。




「帰ったら、写真あげるよ」



「それさっき聞きました」



「すみません、この住所に。…なんのえっなの?」




タクシーの運転手が行き先を聞く前にスマホで住所を見せながら、湯野に訊ねると彼女はしらーっとした顔で窓に叩きつけられる雨粒の数を数え始めた。
なんなんだ、いったい。




「加那?」



「いや、自分の写真もらって喜ぶのってナルシストみたいで」



「なにそれ、もっと喜んでよ」



思わず笑ってしまうと、湯野は無言であの日見せた心の距離が2キロくらい離れた顔した。



「お巡りさんこの人です」



「えっ?ちょ、あ、運転手さん違います違いますから」




湯野の発言に運転に集中していたはずの運転手がぎょっとした顔をする。
それを見止めて、鳴海は慌てて訂正するが、湯野は可笑しそうにくつくつと声を立てて笑っていた。
少しでもいい。このことが自分の罪悪感を和らげるためだったとしても。



どうかこの女の子が、笑ってくれますように。





「きみ何が食べられないの?」



「えっ、魚?」



「じゃあ夕ご飯魚尽くしにしようね」



「…うわあ、大人げない」




軽口を叩きながら、鳴海達を乗せたタクシーは雨の中をゆっくりと走っていく。



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どうせなら嘘から始めましょう




鳴海の穏やかな低い声は、柔らかな余韻を残して消えていった。
湯野はなんと言えばいいのか解らないのか、唇を噛んで黙り込む。
下から覗き込んでみると、からかわれて悔しがる子供のように今にもこぼれ落ちそうな大きな丸い瞳に涙をうっすらとためていて、鳴海は思わず小さく吹き出した。



「なんなんですか、もう!やっぱりからかってるんでしょう…?」



くつくつと声を立てて笑う鳴海に熱で赤い顔を更に真っ赤にして、湯野は怒る。
しかしさすがに辛くなってきたのか、声に覇気はなく、しりすぼみになって首をぐにゃりと力なく傾けた。



「…いや、そこは年相応なんだなって。まあとりあえず、今日は帰ろう。どうせもう夕勤の子が来るよ」



鳴海がどうにか笑いを治めてそう言うと、彼女は少し不服そうだったが、渋々といった体でこくりと頷く。
寒いのか、半袖から伸びる細い腕を何度もさすり、見かねた鳴海は自分のロッカーからパーカーを取り出して肩にかけてやった。



「リーダーに話してくるからここで待てるね?」



「…ちっさい子じゃありません」



「はいはい、いい子にしててね」



口先を尖らせて、拗ねたように反論する湯野をあしらって、鳴海はスタッフルームをあとにする。
厨房に戻るとちょうどシフトリーダーにかち合って、鳴海が話しかけようとすると彼女のほうから声をあげた。



「あ。おかえり、木村くん」



「冴木さん」



「今日さーすごい暇じゃない?雨なのに夜お客さん来んのかなー」



シルバーを綺麗に磨いて補充しながら、冴木はさもかったるげにため息をつく。
ちょこちょこシフト調整も任されることがあるらしく、人を多く組んだりすると注意されるらしい。
この間も店長に言われたんだよねー、と遠い目をする彼女はどこからどう見ても社畜であった。



「すみません、冴木さん。湯野さん体調悪いみたいで熱も高そうだし、俺送ってきてもいいです?」



足元フラフラで、と言い訳がましく付け足すと、冴木はびっくりした顔してそれから心配そうに眉をひそめた。




「えー熱高そう?あの子、あんまり面倒見てもらえてなさそうだけど大丈夫かな…全然大丈夫です。人は足りそうだから」



「そんなの解るもんです? じゃあタイムカード切っときますね」



「えー、解るでしょ。服装とか、全部サイズ合ってないじゃん」



サラッと言われたその台詞がひどく軽く聞こえて、鳴海は冴木に気づかれないように唇を噛む。
ありえた現実を先程から何度も突きつけられている気がする。
もしあの子が彼女と同じように、哀れみや同情の目を向けられていたら、あの子は今以上に誰も信じなかったかもしれない。
そこまで思い至った時、これはどちらに対する哀れみや、悔しさなのかが解らなくなって、鳴海は口元を手で覆った。
冴木が最後のシルバーを磨き終えて、カトラリーケースをひとまとめに積み上げながら、ふと鳴海の顔を見た。



「…木村くんさあ、湯野さんに手出したりしないよね?」



ぎょっとして思わず冴木を見返すと、彼女は何とも言えない複雑な表情を浮かべて、眉間に少し皺を寄せた。



「え…あの、なんで、ですか?」



「木村くん、基本的に人と関わるの嫌いでしょう」



特に女、そう言って冴木は禁煙パイポを口にくわえた。
ついさっき、恋人ごっこをしようと言いましたなんて、口が裂けても言えない鳴海は更に図星を刺されて、余計にどぎまぎした。



「モテるのに、女の子と絡んでる時目が死んでるよね。 でも湯野さんの面倒は率先して見てくれるし、ミスも見逃さない。
まあ上の立場としては助かるけど、そこに恋愛絡まると困るんだよね。
彼女、未成年だから」



がじ、と音を立ててパイポを遊ばせながら冴木は淡々とした口調で言いきった。
彼女は鳴海よりも年上で大人だった。だからこその言葉だということも鳴海には理解できた。
しかし、かといってもう伸ばした手を引っこめる理由には、多分足りなかった。



「…よく解んないんです。でも、恋愛ではないので、安心してください」



「………茶化して悪いけど茶化させて。ガチかよ、頼むわ」



冴木はたっぷり30秒黙ったあと、律儀に断ってから茶化した。
その反応で、鳴海は自分が冴木のことはそんなに嫌いじゃない理由を何となく理解した。
彼女はさもめんどくせえ、と言わんばかりにガジガジとパイポを齧り、んん〜と唸る。



「まあ…外野がとやかく言いたくないし、釘は刺したからもし手出しても少なくとも私以外にはバレないようによろしく」



ひらりと後ろ手を振って、冴木は立ち上がり、早退届を2枚鳴海に渡してくる。
それを受け取りながら、鳴海は察しのよすぎる上司を見返す。
彼女はガラ悪くパイポを吸いながら、鳴海のもの言いたげな顔を見つめ返した。



「……俺、ガチに見えます?」



「少なくとも、私にはね。おつおつー」




サラッと言い返されて、ますます鳴海は押し黙る羽目になった。
それ、次のシフト時に持ってきてねー、と軽い調子の冴木の声を背に鳴海は休憩室に早足で戻った。
先程からの雨は強くなってきていて、バイクは使えないなとぼんやり考えつつも、冴木に言われた言葉たちを反芻する。
特に未成年、というキーワードは楔のように鳴海の心へ深く突き刺さった。
解っているつもりだったのに、多分自分では理解出来ていないところもあるのかもしれなかった。
冴木が湯野が苦しんでいるのに気づいていても、何もしないことも。




「……俺に、」




唇をきつく噛み締める。自分に何が出来るのだろう、どうすればあの女の子を救ってやれるのだろう。
鳴海には何も思いつかなかった。けれど、どうしてもあの女の子を手元に置いておきたかった。
その為には、どんな手だろうとなんだって使ってやる。
歯痒い気持ちを抑えながら、滅多にかけない番号を呼び出してコールする。
数回のコール音の後に、あまり聞きたくない声が低く耳朶に落ちてきた。




「……もしもし、ーーー」




休憩室に戻ると、湯野は最早取り繕う体力もなく、机にぐったりと伸びていた。
既に外は土砂降りだし、タクシーは呼んでおいたが、これは歩けるのだろうか。




「湯野さん、起きれる? 車呼んだから、病院行って帰ろ?」



「……病院…行きたくない、」




最早、土気色を通り越して真っ白な顔色で呻くように湯野は応えたが、その要望は受け入れられない。
どう見ても、一晩くらい泊まった方がよさそうなくらいだった。



「…悪いけど、抱えるよ」



湯野のロッカーから着替えと鞄を取り出してまとめると、自分の荷物と一緒に背負い、そのまま湯野を抱きかかえる。
ちょうど来ていた夕勤の子達がぎょっとした顔をしていたが、それは無視してさっさと裏口へ向かう。
ふと視線を感じて目線を泳がすと、冴木がこちらを見ていた。
それはなんとも言えない呆れた顔で、鳴海はちょっとだけ肩を竦めてみせる。



すみません、冴木さん。やっぱり、恋かもしれません。




「すみません、中央病院まで」



休日診療をしている病院の名前を告げて、ぐったりと鳴海にもたれかかる湯野をそっと抱き寄せる。
身体は燃えるように熱く、けれど伝う汗はひどく冷たい。
どうしてだろう。こんなに小さな肩に、どうしてこうも何もかも乗せてしまえるのだろう。
鳴海は昼間見た、彼女の母親の下卑た笑みを思い出して目元を押さえる。
自分の為にしか子供に会いにこない。子供はずっと、待っているのに。



横殴りの雨がタクシーの窓を酷く叩いては流れていく。
心を鎮めたくて、鳴海は抱き寄せた湯野の頭を少しだけ強く、そっと抱きしめた。



病院に着くとやはり少しの抵抗は食らったが、無理やり抱えて診察室に放り込むと、過労と少しの栄養失調を指摘された。
解熱剤と点滴を投与され、その隙に会計を済ませた頃、ジーンズのポケットに押し込んだスマートフォンが着信を告げた。




「はい。………うん、そう。……解った、ありがとう。お父さん」




父の義務的な声がひどく耳障りだった。けれど頼れるものはなんだって今は使うしかない。
あの女の子を救ってやれるのは、きっと自分だけなのだ。
あとから思えば、驕りも甚だしいことを鳴海は本気で思っていた。
救われたいのは、誰だったのか。
のちに彼は何度もその問いを呟くことになる。




電話を切って、静かな処置室に戻ると、カーテンに区切られたベッドで湯野は小さな寝息を立てて眠っていた。
真っ白な顔色も相まって、まるで陶器人形のようにも見えた。
みすぼらしい外見のせいか、あまり目立たないが、顔の造りがとても整っていることに今気がついた。
指先でそおっと頬に触れる。点滴が効いてきたのか、熱も下がってきたように思えた。
薄暗い処置室で白熱灯の光が彼女の幼い顔立ちに影を作る。
その様がひどく綺麗で、鳴海はスマートフォンを取りだし、カメラを起動しようとしてーーーやめた。
それは彼女の瞼がかすかに震えたからでもあるし、さすがにここまでしてしまうとストーカー行為のように思えてしまったのもある。




「…起きた? お水あるよ、飲める?」



誤魔化すように柔らかい声でまだ少しぼんやりしている湯野に声をかける。
一瞬自分がどこにいるのか解らなかったのか、ふわふわと視線をさ迷わせたあと、ゆっくりと鳴海の顔へ視線を向けた。




「お金…あれ、保険証は、」



「財布、開いて出しちゃった。ごめんね」




そう言うとほっとした顔になる。実際に支払ったのは鳴海だったが、ひとまずは誤魔化しておきたかった。
点滴が落ち切るまであと少しあった。その間に鳴海はこの子供を説得しなければいけなかった。




「あのね、加那。きみを俺の家で預かることになったよ」





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嘘でよかった。嘘で、この子どもを救えると思った。
一人の人間を、どんな嘘であろうと真に救えるはずもなかったのに。



本当に救いたかったのは、どちらだったのか。



「……すみません、変なところを見せて」



年齢に不釣り合いなぎこちない笑みを浮かべて、彼女は言った。
元々青白い肌が土気色と、恥ずかしさからか頬は朱色で、疲れ果てた老婆のような表情だった。
きっとさっきのアレは、以前からあったのだろうと見てとれた鳴海は返答に詰まり、しかしそれを悟らせないように少し俯く。




「いや、全然。俺のタイミングが悪かったよ 」



鳴海が笑ってみせると、少し安堵したような表情を浮かべ、湯野は曖昧に笑みを返す。
手持ち無沙汰に皿に置いたサンドイッチをもう一度手に取り、しかし口に運びはせず、その口元はどこかいびつに歪んでいた。




「昔からああなんです。だからなんて言うか慣れっこなんで、ほんと。全然、木村さん悪くないですから」




湯野は言い慣れた科白でも言っているようだった。
昔から、慣れっこ、大丈夫。その羅列された言葉の端に見え隠れするのは、死んでも同情なんてされたくないという意志。
それを察した鳴海はそっと眉をひそめた。
ここに面接に来た時点で彼女は既にアルバイトを二つもこなしていた。
それでもここに来たということは、金銭が足りていないということだ。



……つまりは今目の前にいる湯野は、あの子の有り得た姿なのだと気づいて、鳴海はぞっとした。



「もう休憩終わりですよね、食べきれなかったなあ」



持って帰ってもいいですかね、と言いながら湯野は椅子から立ち上がる。
そのままスタッフルームから出ていこうとする彼女の手はひどく小さく見えてーー気づいた時には、引き止めていた。




「ねえ、湯野ちゃん。俺と付き合う?」



「…は、い? 」



ぐいっと引き戻されて、湯野が驚いた顔で固まる。掴んだ手首はか細く、枯れ木のように痩せていた。
出会った時も思ったが、きっと満足な食事は出来ていない。
親とは暮らしていないのは、先程の会話からも解る。それなら、どこで彼女が生活しようと大して気にしないはずだ。




「好きになった方が負け。おふざけの好きはセーフ」



よくある、嘘を見抜けってやつだよ。
そう言って、鳴海は湯野の乱れた前髪を払う。やたらと顔色が悪いと思っていたが、触れて気付いた。発熱している。
そんなことも気づかないのだ、母親なのに、あの女性は。
考えれば考えるほど、鳴海は泣きたくなった。けれどそんな感情はおくびも見せずにニヤッと笑ってみせた。



「急に何言ってるんですか…ほんと意味わかんな…」



「寂しいでしょう? 湯野ちゃん」



煙に巻こうと苦笑いをする彼女を遮り、鳴海は湯野が怒るであろう言葉を選んでにっこり笑う。
案の定、彼女の土気色の頬はみるみる赤くなり、掴んでいた手を振りほどかれる。



「気持ち悪いこと言わないでください!」



「だってそうでしょ? そんな言い訳がましいこといって、構われたかったんじゃない?」



「違う!そんなんじゃ!」



「じゃあそれ、証明しようよ」



振りほどかれた手をもう一度つかむ。嫌がって離れようとする湯野を引き寄せると、鳴海はにっこり笑ってみせる。
湯野はひどく動揺していた。何か言い返そうと口をぱくぱくさせる彼女を安心させる為にルールを説明する。
これはゲームだ。大した意味なんてない。



「好きになったら終わり。ゲームオーバー。お互い恋愛対象外でしょ? 歳違いすぎるもんね」



彼女は15歳。鳴海は20歳。大した年の差でもなかったけれど、明らかに子供である彼女をどうこうする気は端から無かった。
こうして予防線を引いておけば、彼女も安心や憧憬を恋愛感情と履き違えることもないと踏んでの発言だった。
のちにこの言葉が枷となるなんて思いもよらないで、鳴海は笑う。



「同情なんか…!」



「違うよ。そうじゃない」



同情なんかではない。どちらかといえば、怒りに近かった。
誰に対して? ーーーと聞かれていたら、答えられなかったけれど。
けれど、放っておくという選択肢は端からなかった。



「……俺の、自己満足かな」



「…はあ? 何言って…ひえっ」



湯野の足がふらつく。熱が徐々に上がっているらしく、鳴海は彼女を抱えあげると、椅子に無理やり座らせる。
小さな悲鳴は聞こえたが、唐突な出来事にさらに混乱したらしい湯野は文句は言わなかった。



「熱あるでしょ」



「別に関係ないじゃないですか…」



「俺は関係あるようにしたいんだよ、…加那ちゃん」



下の名前で呼ぶと、湯野はことさら困った顔になって眉をひそめる。
鳴海は彼女の額に手を当てて、にっこりと笑った。



「付き合うなら呼び捨ての方がいいかな?」



「木村さん…ほんとに何言ってるんですか…?」



困り顔が可愛く見えて、一瞬戸惑う。
彼女は、子供だ。どんなに大人びようとしていても、守られるべきこども。
鳴海は、許さない。どんな事情があろうとも、子供を犠牲にする大人を。
そしてそれを見過ごすしかない自分を、許せない。
解っている。これは贖罪だ。あの子に対して、まだ許されたいと思っている自分がいたことに驚く。



けれど、それでも目の前のこの子をどうしても一人には出来なかった。



「ねえ、加那。俺と付き合ってみようよ」




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大人はいつだってずるい、そして、無遠慮に子供の心へ傷をつける。




「湯野ちゃん、大丈夫?ゆっくり覚えていこうね」



鳴海はそう言って、メモを片手に分かりやすくテンパっている湯野を慰めた。
彼女が入ってから2週間が経った。いまだに湯野は鳴海に気づかず、鳴海も何となく言わずにいる。
湯野に言われたら渡そうと、撮った写真を焼き増しして持ち歩いているくせに何故かどうも名乗る気になれない。



「木村さん?」



ふと名前を呼ばれる。メモを書き終えたらしい湯野が不思議そうに鳴海を見上げており、鳴海は取り繕うように笑ってみせた。



「書けた? じゃあ今度はこっちの器具の説明するね」



「はい!」



あの時と同じで、弾けるように笑うさまは年相応で可愛らしい。
気がつくと、あの雨の日からは1ヶ月が経とうとしていて、急にあの出来ごとが本当は夢だったかのように思えてくる。
記憶とは酷く曖昧なものだ。場面場面の情景は思い出せても、その時何を話したのか、どんな声で笑っていたのか、あっという間に忘れてしまう。
だからかも知れない。
彼女は既に急に話しかけてきた変な大人のことなんて、覚えてないのかもしれない。
そう考えると、何となくもの寂しく、鳴海は複雑な気持ちになるのだった。



「木村くん。湯野さんどこ行ったかな?」



ふとシフトリーダーに話しかけられて、鳴海は厨房を振り返る。
10分ほど前にひと段落したので休憩に行くように指示したが、まだ作業中かと思えば、姿は見えない。




「さっき俺、休憩に行かせましたよ?」



「それがね、スタッフルームにもいないんだよねえ」



「ああ、それは困る…」



賄い出してあげようと思ったんだけど、と困った顔をするシフトリーダーに鳴海は曖昧に相槌を打ちながらふと窓の外を見た。
そこに見慣れつつある青みがかった黒髪が見えて、さらに首をひねった。
あそこは喫煙所の辺りだろうに、早速高校で煙草を覚えたのだろうか。



「リーダー、俺も1本行ってきてもいいです?」



「うん、いいよ〜」



ひらりと手を振って、彼は鳴海を快く送り出した。
鳴海もその手に応えて振り返すと、そそくさ煙草を握りしめ、喫煙所に向かう。
他の店員に見つかる前に辞めさせないと、バレたら首にされてしまう。
定時制に通っていると言っていたし、苦学生なのは見てとれた。
なんだか世話のやける妹でも出来たような気分だった。



店の外に出て、ため息をついた瞬間だった。



「いい加減にしてよ!」



鋭く震えた声が喫煙所から聞こえてきた。
電話でもしているのかと、首だけでこっそり覗き込んでみると、どうやら電話ではなく、人と話しているようだった。
しかし鳴海はその相手を認めて、一瞬だけ眉をひそめる。
湯野によく似た顔の女性だった。煙草を片手に半笑いで湯野に何やら言っている。
彼女は湯野にそっくりの声で、ごめんってばと笑った。



「パパがまた仕事休んじゃってお金足りないんだもん、ちょっとでいいのよ。おばあちゃんもうるさいし、加那しか頼れないのよ」



ね、と言って母親らしき女性は口から紫煙を吐き、湯野に笑いかける。
後ろ姿しか見えない湯野はどんな顔をしているのかは解らない。
けれども、その小さな背中からはどうしようもない虚しさや悲しさを察することはできた。
彼女の小さな手が、あの時見た可愛らしい小さな財布に伸びる。
その手が財布の口を開ける前に、気づけば鳴海は飛び出していた。



「湯野ちゃん!」



「…木村さん?」



鳴海の大声に湯野の背中がびくりと震え、驚いた顔で振り返る。
その背後で母親が気まずそうに目を伏せたのを鳴海は見逃さなかった。



「何してるの? リーダーが賄いどうぞって探してるよ」


「あ…はい、すぐ行きますね」



湯野は強ばった表情で笑みを作ると、一度止めた指先を使って財布を開き、万札を1枚抜くと母親の既に差し出された手のひらに押しつけた。
そうして何も言わずに鳴海に会釈すると、小走りで店の中へ戻っていく。
残された鳴海はそそくさ立ち去ろうとしていた母親に会釈し、煙草に火をつける。
母親の顔は嫌なところを見られたとありあり物語っていたが、湯野が押しつけた万札は既にしっかりとしまい込まれていた。



煙草以外の喉の苦さを覚えつつ、鳴海が一服して戻ると、湯野はスタッフルームで不味そうにサンドイッチを齧っていた。
顔色があまり良くない。何も聞くべきではないと思っていたけれど、気づけば勝手に口は動いていた。



「ーーーねえ、湯野ちゃん。今の人、親御さん?」



湯野の頬にカッと赤みがさす。顔色は土気色なのに、羞恥で頬は赤くなり、ますます体調が悪そうに見えた。
彼女は齧っていたサンドイッチを皿に置くと、伏し目になって鳴海から目線をそらす。
ぎこちなく笑ってはいるが、それは歳に不釣り合いなひどく大人びた仕草だった。



のちにあの時を振り返る度に鳴海は思った。
本当なら、あの時然るべき公的機関に通報するべきだったのだろう。
未成年から親が金銭を搾取する。まるでありきたりなドラマのようなシーンだった。
けれど、湯野が傷ついているのは現実で、本物だった。
鳴海のような、まだ大人の手を離れていない大人未満の子供が手を出したとて大した結果にもならなかったのに。



けれども、それでも。
彼は見つけてしまったのだ。あの寒い春の雨の日に。
いまだに救えずにいる子供と同じ瞳の彼女を。



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初めて彼女を見たのは、雨の降る早春の公園だった。




「今日からお世話になります。湯野です」



「……ああ、新しい日勤の子?初めまして、木村です。夕方にちょこちょこ入るから入れ替わりで会うかな」




鳴海がバイトの準備をしながら、ロッカールームでぼーっと過ごしていると、後ろから聞きなれない声に急に話しかけられた。
振り返ると、やけにカチンコチンな女の子が立っていて、鳴海はにっこり笑って受け答えする。
湯野と名乗った女の子は鳴海の反応にほっとした表情を浮かべ、そうですねと頷き、ぺこりと頭を下げた。



「他にもアルバイトしてるので、たくさんシフト入れないんですけどよろしくお願いします」



顔を上げた彼女がはにかんだ笑みで鳴海を見る。そんな彼女に鳴海は見覚えがあったけれど、何も言わずに笑い返した。



「俺でよければなんでも聞いてね、湯野ちゃん」



そう言えば、彼女はふにゃりと笑ってはい、と頷いた。
きっとこの子はこの時が初めて出会った日だと思っていると思う。
けれども、違うのだ。鳴海が彼女と出会ったのは、彼女を見つけてしまったのは、もっと寒い春の雨が降る公園だったのだから。




歌が、聴こえる。
大学の写真サークルの課題で桜を撮りに来ていた鳴海はふと顔を上げた。
カメラは水に弱い。雨宿りできるベンチがあってよかったと思っていたが、誰か気づかないうちにそばに来ていたのだろうか。
そう思って辺りを見回すが誰もおらず、しかしながら歌声は細く聴こえてくる。
手早くカメラ器具をまとめて、鳴海は声のする方へ近づいていった。




「……君を忘れない 曲がりくねった道をゆくーーー」



近づくと歌っているのは一昔前のポップスだと解った。
この公園内で1番大きな桜の木の下に小柄な影を見つけて、鳴海は1つ瞬きをする。
小柄で、何となくみすぼらしい格好の子供だった。
肩口まで伸びきった髪は青みがかっており、着ているのは中学の制服だろうが、ブレザーの裾のあちこちがほつれている。
胸元に祝卒業と書かれた花が刺さっており、そういえば今日は卒業式だったなあと思い出した。
一緒に暮らしている従弟に卒業式行こうか?と聞いたら、サボると思うからいいと断られたのも一緒に思い出し、鳴海はくすりと小さく笑う。



歌の主はまったく鳴海に気づくことなく、桜の木の下をうろうろしながら、ころころと歌う曲を変える。
肩口で傘を転がしては溜息をつき、しまいには賞状入れで地面に落書きまで始めて、その姿はどこか迷子じみて見えた。



「さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
ああ 僕のままで どこまで届くだろうーー」



歌う声は柔らかく、大して上手い訳でもないのに耳に心地よかった。
けれど、ひどく寂しげでもあり、だからかもしれない。



「ねえ」



気づけば、声をかけていた。



「なにしてるの? 待ち合わせ?」



「あ…や、違います。すみません」




女の子は一瞬、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、その次に少し不安そうな顔をして、足元に転がしていた自分の手荷物に手を伸ばした。
そのまま逃げ出しそうな彼女を鳴海は慌てて引き止める為に、胸元にぶら下げていたカメラを突き出す。
女子中学生に急に話しかける成人男性。確かに怪しい、彼女の判断は適切である。




「あっ違う怪しくないから!ただの近隣住民だから!カメラで写真撮ってただけ!ほら!」



「え…なに少女趣味の人ですか?」



「もっと違う!」



女の子がますます怪訝な眼差しを鳴海に注ぐ。鳴海は力いっぱい否定した。
一体そんな単語をどこで覚えるんだろう。俺もそうだっただろうか、と鳴海が悶々としていると、女の子がふっと小さく吹き出した。
仕草がひどく大人びて見える。そして、やたらにひどくくたびれていた。



「ふふ、おにーさん、面白い」



「……その感想は遺憾だよ」



「イカン? よくわかんないけど、なんですか?」



鳴海の返しに小首を傾げながら、女の子はくるりと傘を回した。
ピンクの花柄の傘は、その年頃の子が持つには少し野暮ったく見えた。
しかしその問いに最初の意図を思い出した鳴海はにっこり笑って、カメラを持ち上げてみせる。



「ああ、写真撮らせてくれないかな」



「……お巡りさんこの人です」



「だから違うし、人が聞いたら誤解するからやめて」



お願いを聞いた途端、心の距離を2キロくらい離した顔で呟かれて、鳴海の心はいたく傷ついた。
子供とはいえ、女の子にこんな反応はされたことがない。



「単純に嫌ですけどなんでですか?」



「え、うーん…」



まあ確かに。聞き返されて、鳴海は思わず唸る。
まずあまり人間を撮ること自体少ないのだ。何故、と聞かれると鳴海自身にもよく解らない。
撮りたくなったからとしか言いようがなかった。
なかなか上手い言葉が見つからない鳴海に対し、女の子はさして気にした風もなく、またくるんと傘を転がす。



「ま、いいや。顔写さないならいいです」



「え、ほんと?」



「500円ください」



鳴海の表情がぱっと輝く。それと同時にずいっと差し出された小さな掌に鳴海は思わず吹き出した。




「いいよ、なんならジュースもつけるよ」



その後の女の子はとても現金だった。
ジュースを嬉しそうに飲みながら、俺の差し出した500円を本当に大事そうに小さな財布にしまった。
身長差でどうしても見えてしまった財布の中身は、数百円もないようだった。



「で。あたしどーしたらいーんですか?」



にっこにこで訊ねてくる女の子を撮りたい気持ちを抑えつつ、鳴海はすん、と鼻をすする。
雨の匂いが濃くなった気がする。早めに撮らないと、土砂降りに変わりそうだった。



「さっきみたいにしてくれたらいいよ。何なら歌ってていいし」



「…普通に恥ずかしいです」



「そう? 上手だったよ?」



くすくす笑いながらおちょくると、彼女はむすっとそっぽを向いて、また賞状入れで地面に落書きを始めた。
顔を写さない為か、あまりこちらを向かなくなる。鳴海は無言でシャッターを押した。



しとしとと春の雨はひどく冷たく降った。
手は冷えきり、シャッターを押す指先はひどくかじかんで、痛みすら覚えたが、気にもならなかった。
女の子は落書きに飽きたらしく、賞状入れについた泥を適当に落とすと空っぽの学生鞄に突っ込む。
そうして中途半端に片っぽのロックだけしまった鞄を背負うとぴょん!とうさぎみたいに立ち上がった。
よくよく地面を見ると、けんけんぱの〇が描かれており、先程の落書きはこれを仕込んでいたのかと気づいて、鳴海は小さく笑った。



シャッターを何度も押す。こんなにも目が離せない被写体を鳴海は撮ったことがなかった。



けん、ぱ。けん、ぱ。けん、けん、ぱ。
最後のひとマスに飛び込んだ女の子がくるんと回って、鳴海を振り返る。
先程まであんなにくたびれた雰囲気をまとっていたのに、今は年相応の弾けるような笑顔を鳴海にくれた。
思わずシャッターを切る。同時にフィルムも最後の1枚らしかった。



「…あ、終わり?」



構えていたカメラを手放した鳴海に女の子は少し残念そうな顔をした。
同時にまたすっとくたびれた空気が彼女の周りにまとわりつく。



「うん、残念だけど」


「意外と楽しかったなあ」



ちぇ、と唇を尖らせて、女の子は肩からズレ落ちた鞄を背負い直す。
最後はノリノリだったらしい彼女にまた吹き出しそうになりながら、鳴海は握手を求めて、手を差し出した。



「ありがとう、すごくいい写真撮れたよ」



「どーいたしまして…っあー!時間、ヤバい!」



その手に答えようとして、鳴海の手を見た女の子は鳴海の手首に巻かれた電子時計を見て、唐突に叫んだ。
鳴海が引き止める間もなく、木の下に停めていた自転車に駆け寄ると鍵を解除して飛び乗る。



「待って、送る…っ」


「いい!じゃあ元気でね、変なお兄さん!」



振り向きざま、あの弾けるような笑顔で別れを言って、女の子は嵐のように遠ざかっていく。
鳴海はぽかん、と呆気にとられたまま、しばらくその場に突っ立っていた。
しばらく聞こえていなかった雨の音が帰ってくる。
ひどくかじかんだ指に雨が沁みて、びりびりと痺れた。
まるで、白昼夢のような女の子だった。



しかし帰宅して、フィルムを現像すると、確かに彼女は写真の中でキラキラと輝いており、実は気づかれる前に一枚撮っていた写真がひどく印象的だった。



気だるげな横顔。感情はひとつもその瞳に映らない。何もかも諦めたーーそう、この瞳を鳴海はよく見知っている。
身近に1人、同じ顔をする子供がいた。そうか、彼女もか、と思った。
椅子に腰かけて、煙草に火をつける。
ふわ、と紫煙が広がり、嗅ぎなれた匂いが鼻腔をくすぐった。



「大人はいつも勝手だよなあ…」



鳴海の小さな囁きは誰にも聞きとがめられることなく、暗室の闇に溶けて消えた。




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