『それじゃあ、唯くんまたねえ?』
アミを自宅近くまで送って、2人きりになった途端、本当に海里から表情の一切が消えた。
ケントメンソールを吸いながら、無言で車を走らせる。
海里の横顔を見ながら、俺はふと海里の車に乗ったのはこれが初めてなことに気づいた。
『…なあ、ほんとにどういうこと?そんなに俺を切りたいの?』
海里は本当に一切、俺に触らなかった。
半ばやけくそにアミを抱いていたけれど、時折、やってる最中に見せるような物足りなさげな顔はしていたが、本当に見るだけで何一つしようとしない。
アミがハナちゃんも一緒にしたい〜と言っても、ただ笑うだけだった。
海里は俺の問いに何も答えない。喋るのも面倒なのか、何となくふてくされた子供のように見えた。
『なあ、俺別にこんなこと頼んでない』
『わたし、妊娠したんだー』
『は?』
コントみたいな返答を俺がしたところで、海里はやっと今日初めて俺の顔をちゃんと見てくれた。
俺が初めてキスだけした日の、かわいい笑顔だった。
『嘘だよ。でも、それが答えでしょ?』
もう潮時なんだよ、と海里は言った。
そんなこと旦那と別れて俺と結婚すればとか、言おうとしてーーどうしても言えない俺が海里の言う答えだと思い知った。
『だって海里…』
『今日はやたらわたしの名前呼ぶじゃん、唯くん笑える』
普段一切呼ばないくせに、と煙草を灰皿に押しつけて、海里が乾いた笑いをあげる。
そうだよ、俺は海里の名前なんてひとつも呼んだことなんかない。
解ってる。解ってるよ、でも、でも俺は、海里。海里がいい。
俺の腕の中でひんひん鳴いて、蕩けた顔で俺がすきだとキスをする。
それが海里への好意でなく、ただの独占欲だと解っていても、どうしても海里がよかった。
『なんでだめなの』
『元々、1回寝れば満足すると思ってたんだよ』
元々、海里が積極的に会おうとすることは最初の気まぐれ以降、あまり無かった。
時々、甘えるように顔が見たいな、なんてメールを送ってきたかと思えば、次の日にはもうそろそろ会うの辞めない?なんて言ってきたりする。
つい先日もそろそろ彼女作りなよ、とやんわり拒否されたばかりだ。
海里の細い指先がハンドルを手遊びするようにぱたぱたと叩く。
彼女はすん、と小さく鼻をすすり、もう一本煙草に火をつけた。
『まあそんなわけないよね、でもさあ…やめられなかった』
彼女はふふ、と穏やかに声を立てる。その横顔はひどく疲れていてともすれば今にも消えてしまいそうにも思えた。
『だって、穴があるだけなのに求めてくれるんだもん』
『海里、』
『あたし、求められたかった。それだけでよかった、なのに唯くんのこと好きになっちゃって、馬鹿みたいに連絡待っちゃうの』
笑いなよ、馬鹿な女ってさあ。
まるで年老いた老婆のように掠れた声で海里は自嘲した。
深夜3時を過ぎた街はひどく静かで、車のエンジン音とオーディオから流れるボーカルの低い声がやけに耳障りだった。
ゆるゆると車が停車する。気がつけば、もう待ち合わせした駐車場だった。
既に店仕舞いしたコインランドリーの駐車場には俺の車しかない。
「着いたよ、降りて」
「まだ話は終わってないだろ」
「終わりだって。わたしはもう会わない、あのことよろしくやりなよ」
思わず身を乗り出した俺をあしらって、また海里は煙草を一口吸った。
もう俺の顔すらも見ようとしない。完全に拒否のポーズだった。
「……煙草消して」
「もう何も言うことなんかない」
「海里。消して」
強い語調で名前を呼び、ちょっと力を込めれば、折れてしまいそうな彼女の手首を握った。
海里は一度深く息を吸い込み、苛立ちをぶつけるように灰皿へ煙草を放り込む。
そして俺に向き直ると、唇をきゅっと強く噛んで、震える声で囁いた。
「わたしから、これ以上、何をもらいたいって言うの?」
その科白はひどく静かで、いっそう俺の弱いところに鋭く刺さった。
それを誤魔化すように頬をすべらせ、海里の唇を奪うとメンソールの甘苦い味がした。
「ちょ…嫌だ何考えてんのやめて…っ」
そのまま海里の胸元に手を伸ばすと、息継ぎの合間に海里が嫌がって抵抗する。
それを無理やり制して、ニットの裾から手を忍ばせてブラジャーをニットごと無理やり押しあげた。
まろびでた胸を手のひらで強く揉むと海里が痛そうに顔を歪める。
「海里、ダメだよ」
「やだやめて痛い唯くん!」
「海里、」
海里の弱いところを擽るように愛撫する。ヒッ…と小さく息を呑む音がして海里の抵抗する力が弱まった。
海里の前髪に隠れる顔をそっと覗き込む。彼女はひどく怯えた顔で俺を見ていた。
あの、初めて俺が手を出した時と同じ、顔。
どうして? と怯えた眼差しが一瞬だけ俺の目を見て、さらに怯えてゆらゆらと目線が彷徨う。
先ほど吐き出したはずの欲がむくむくと沸くのを感じた。体の中心に熱が集まって、海里をひどく犯したい衝動にかられる。
「なあ、俺から離れられんの?」
自分でも、驚くほどひどく冷たい声が出た。途端に俺の顔の上を彷徨っていた視線がぱっと逸らされる。
その仕草に図星なのだと思ったと思う。海里は俺に惚れていて、やっぱり無理だと泣いてほしかった。
……のちのち、海里にしたことを思い出して、俺はそう思った。
離れることが、海里からの最後の愛情だったのに。
俺の声の余韻が消える頃、ようやく海里が震える声で何かを言った。
聞き取れなくて、首を少し傾げる。今度は、はっきりと聞こえた。
「…さっさと済ませて…」
聞き取れた言葉に少しだけいらついた。海里をもう一度、よくよく見つめると彼女は泣きもせず、怯えてもいなかった。
感情ひとつ入らない、人形みたいな顔だった。
「…んむっ、ん、んーっ」
征服欲だったのか、それとも苛立ちだったのか、それは今も解らない。
顔を背け続ける海里の顎を捕らえて舌を差し込んだ。硬く閉ざそうとする唇を舌で無理やりこじ開けて、思うままに貪る。
互いの涎に塗れた唇を舐めて、そのまま首筋に頬を埋めた。
海里はもう抵抗しなかった。目を閉じて、声を出さないように手の甲や、自分の人差し指を噛んで俺のなすがままになっていた。
海里の胸先を舌で潰して弄ぶ。唾液を垂らして、舌先で転がすときゃう、と子犬のような嬌声がこぼれ落ちた。
そのまま胸元に舌を伸ばしつつ、片手で海里のスカートをたくし上げて下腹部をまさぐると、下着の上からでも解るほどにそこは湿り気を帯びていて、俺は隙間から指を差し込んだ。
「え、や…っ、ァん、んーっ…」
くぷりと俺の指を飲み込んだそこは熱くうねって、指先を少し曲げるとコリコリとした肉壁に当たった。
そこをほぐすように指の腹で押すと、海里はびくびくと震えてますます強く己の手の甲を噛んだ。
「海里、かわい」
強く噛みすぎて歯型のついた手を奪い、キスをする。少し潤んだ目が俺を見て、もっとと強請るように舌を伸ばす。
彼女の少しずつ理性のタガが外れるさまはいつもどうにも艶かしい。
つい口の端が緩む。伸ばされる舌に応えながら、もう下着の意味をなさなくなったそれを脱がせて、自分のベルトに手をかけた。
服を弛めて飛び出してきたいきり立つそれに海里の手を触れさせて、扱かせる。
ひりつくような快感に腰が意識なく動いた。
「海里、」
名前を囁く。それだけで海里はなめらかに動いた。
シートから身を乗り出して、俺の膝の間に顔をうずめる。喉奥まで俺の自身を飲み込んで、舌を使った。
海里の髪が動く度にさらさらと流れる。熱に浮かされたような顔で必死に俺を責める様はどこまでもエロかった。
「…ぁ、海里、きて上乗って」
ペロペロキャンディでも舐めるかのように、丹念にしゃぶりつく海里をしばらく楽しむと、そっと止めて腕を差しだす。
海里の顔にはもう快楽しかなく、それでも羞恥心は残っているようで、戸惑うように身じろいだ。
早く、と視線で促すと彼女はおずおずと俺の上に跨り、ゆっくりと腰を沈めた。
避妊具のことなんて頭にもなかった。早くこの女の中に入りたくてたまらなかった。
「あ…っ、や、や、今動いちゃ、あっ」
「は…気持ちいー…」
沈めきる前に腰が動く。ぬるつく中がひどく熱を持って、俺の自身を締めつけてくる。
反射的に逃げようとする海里の腰を押さえつけて、最奥部を責めた。
「だめ、や、やら…っゆいく…ヒッぁ」
突けば突くほど、嬌声がこぼれ、海里の潤んだ目尻から涙が零れた。
快楽に歪む顔が可愛くてたまらなく、動く度にぷるぷる揺れる乳房を舌先で虐める。
すると海里は子供がするように首をイヤイヤと横に振って、呂律の回らなくなった口でキャンキャンと鳴いた。
「や、らめ、一緒にしな…でっや、やだぁ…あァっ」
「きもちーの?ねえ」
耳元で囁くと、海里がこくこくと必死に頷く。伏し目がちに俺を見つめるその眼差しは熱っぽく潤んでいて、先ほどまでの冷たい態度が嘘のようだった。
質問に答えやすいようにゆるゆるとした動きに変える。
彼女はは…と小さく息を切らせて、猫のように俺の首筋へすり寄った。
「…きもち…、」
そこで言葉は途切れた。ぱた、と生温かいものが胸元に落ちる。
さらさらと流れる海里の髪の毛が少しずつ湿ってゆく。
ぽろぽろと声もなく、彼女が泣いた。
その事実に気づいて、さすがに行為を止める気になった。けれど。
「…っちょ、海里動くなって、ん、」
「あっ、そこ気持ちっん、ァあ」
俺の首に腕をまわして、海里がめちゃくちゃに動きはじめた。
耳元でこぼれる吐息と予測出来ない快感も相まって、急速に限界が近づいてきて、焦る。
「ゆいくん…すき…ゆいく…んっ、」
「海里だめだって、イきそうだから…ッ」
海里は既にびくびくと震えて、限界を超えているようだったが、時折俺の頬を包み込んでは触れるだけのキスをする。
もう限界だった。
「あ、いく、ッ」
ギリギリで引き抜いて吐精した。海里の太ももを白いものが汚す。
互いに息を乱したまま、どちらともなくキスをした。
啄むだけのキスを交わして、ふにゃふにゃになった海里を抱き締める。
行為後の海里はいつも甘いシャンプーの匂いと微かな汗の匂いがした。
口許が寂しくて、海里の首筋に口づける。
ふにゃふにゃな海里は何をしても無抵抗だった。
ティッシュで綺麗にしてやると、大人しくしていた。いつもなら嫌がって、うーうー唸るのに何も言わない。
解っていた。これが最後だ。
「……煙草吸ってい?」
「…いいよ、」
ポケットからごそごそとライターと煙草を取り出す。
カチリと火を点すと、甘苦い煙が車内に細くたなびいた。 海里が無言で窓を少しだけ開ける。
春先のまだしんと冷たい空気が滑り込んできて、火照りの治まらない肌を冷やした。
すでに周囲はほの白く、もう幾ばくもしないうちに朝を迎えようとしていた。
終わりの朝だな、と静かに思った。
海里のぼうっとした表情を横目で見ていると、ふと視線がかち合った。
簡単に身なりを整えた海里は緩慢なしぐさでひとつ、ゆっくりと瞬いた。
それを皮切りにひとつ、ふたつと滴は眦からこぼれ落ちていくのに、海里はゆるゆると微笑んでみせる。
泣いている自分にも気づけないのか、そんなにまで歪めてしまったのは、他であろう俺に違いなかった。
唇がこわばる。嘘でも、何かしら優しい言葉を与えたかった。
望む言葉は違うのかもしれなかったが、その涙を止めたかった。
けれども、俺には何も言えない。言う資格がない。中途半端に夢を見せられるほど、俺は極悪人にはなれない。
「…ねえ、」
ふと、海里が口を開いた。鈴の鳴るような、柔らかい声。
どうせまた海里の職場に行けば会うことになるのに、離れがたい。
「ん?」
「……わたしのこと、忘れてね…」
そう言って、薄闇の中で微笑んだ海里に、俺はなんと声をかければよかったろう。
いつもなら強請ってくる手繋ぎや頭を撫でてなんて台詞はなく、俺は強請られもしないのにどっちもやって、なんならおまけにハグをしてから車を降りた。
俺を振り返らずに去っていく海里がふと、頬をぬぐうのが見えた。
それが海里を見た最後だった。
「…なあ、あのチーフの人休みなの?」
3週間後、海里の働くカフェに寄ると、平日には必ずいるはずの姿がなかった。
いつも仲良さげだった店員をつかまえて訊ねると、彼女はとても残念そうに眉をひそめてみせた。
「それがー…まあお知り合いみたいだからいっか!チーフ、赤ちゃんが出来たんです。それでちょっと早めに事務職の方に移られたので、もう店舗には出られないんですよー」
あの人の接客、ほんとに神様みたいなんですけどねー、と店員は本当に寂しそうに言った。
注文したラテを袋に入れながら、彼女はしみじみと海里との思い出話を俺にしてくれる。
それはすべて俺の鼓膜を通り過ぎるだけでひとつも頭に残らない。
店を出て、いつも海里の車が停めてあった場所を見る。
毎日いすぎて、もはや景色の一部になりつつあったのにそこは空っぽで、ますます海里の不在を際立たせた。
ふと、時間を確認する。次の取引先へのアポは何時だったか、と考えた瞬間、ぱた、と俺の手の甲に生ぬるい水が落ちてきた。
あれ、と思う。首を傾げて空を見上げるが、雲ひとつない快晴だ。
不思議に思いながら、車に乗り込んでバックミラーを覗いてーーーー自嘲が溢れた。
なあ、海里。ごめんな、俺どうしても、おまえがほしかった。
次のアポまでは時間があった。だから少しだけ。ほんの、少しだけ。
出来れば、ずっとつかず離れずでいてほしかった。
どうせ裏切られるのなら、俺のもんになんかならなくてよかった。
どうせ海里は俺を好きだから、なんだかんだそばにいてくれると思っていた。
別れたって、顔くらいは見れると馬鹿みたいに思い込んで。
何故だろう。海里は何度も俺に笑いかけてくれたはずなのに顔がもう思い出せない。
声すら、本当に合っているのか解らなくなってくる。
記憶なんて曖昧なものだ。あんなに抱いたはずなのに。
ただ最後のひとことだけが、合っているのかすら解らない声でずっと聴こえてくる。
……ねえ、わたしのこと、忘れてね……。
まるで、魔女の呪いみたいだった。
海里がいなくなって2ヶ月過ぎた頃、1度だけメッセージが来た。
『ごめんね、あいたいよ』……あの薄闇の中から届いた声のように感じた。
『俺も会いたいよ』とは返したが、すぐに『また送っちゃうから、拒否登録してね』と返ってきて、それきり。
嘘ではなかった。会いたかった。俺はまた一体何を間違えた?
いつ会える、とも言わなかった。SNSでは子供のエコー写真をあげて、つわりがどうとかお腹が痛いとか嘆いているのだけを知っていた。
もうそれ以上、海里を追えなかった。
次第に膨らんでいく腹を写した写真やエコー写真を何度も眺めた。
時折映り込む、少しふっくらとした頬の海里を見つけると安堵感すら感じた。
臨月の近づいた冬だった。ふと、俺は海里の腹の子は『どちらの子だったのか』という疑問を抱いた。
何故、俺はまだ海里のSNSを見ることが出来るのだろう。
海里は、どうして俺を拒否登録しないんだろう。ふと、まるで懇願にも似たひとつの可能性を思いついて、自分に吐き気がした。
海里が身ごもったのはどちらの子だったんだろうか。
まるで逃げるように消えた海里。本当は俺の子を妊娠していたのではと薄々思っていた。
なぁ、海里。頼むよ、お前は忘れてと言ったけれど、俺は忘れてほしくないんだ。
確かめようと思うのに、指先はひとつも動かない。
俺は改めて、海里の言葉の意味を思い知る羽目になった。
ごめんな、ごめん。海理。でも、俺どうしてもほしかったんだ。