「いらっしゃいませー」
昼下がりのコンビニであたしはバイトしながら、何となく嫌な予感がしていた。
鼻水がひどい、喉が痛い。何故か頭もぼんやりする。
………下手こいた、これ確実に風邪引いてる。
昨日、なるちゃんに『顔色悪いから風邪薬飲む?』と聞かれた時に素直に飲んでおけばよかったと後悔するが、今さら遅い。
ちらりと壁に掛けられた時計を見れば、午後二時半すぎ。
あと二時間半頑張れば、家に帰ることができる。
今日が土曜日で心底良かったと思った。
「いらっしゃいませー」
ぼんやりした頭で品出しをしていたら、自動ドアのチャイムが鳴った。
振り向くのも億劫で申し訳程度に挨拶をし、ちらりとレジに視線を向けた次の瞬間、あたしは思いっきり顔をしかめていた。
その原因となったお客さんは、いつも難癖つけてくるおばあちゃんで、面倒くさいことこの上ない。
そしてこんな時に限って、パートのおばちゃんは他の常連さんと立ち話中。
あたしは心の中でパートのおばちゃんに仕事しろや!と絶叫しながら、ふらつく足取りでレジに走った。
「いらっしゃ…」
「遅い。あんた、怠けて客待たせてふざけとるんか」
挨拶もそこそこにチクリとやられて、あたしの口元は思わず引きつった。
たった今、レジに辿り着いたおばあちゃんはヤニ臭い息を吐きながら、いらいらと杖を鳴らす。
ここはささっと帰ってもらおうと、いつもの銘柄の煙草を手に取ると、彼女はますます苛ついた顔になった。
「あんた、わしがそればーっかし買うと思って、馬鹿にしよるんか!」
「あ、違いましたか?」
「もたもたしよーらんと、早くレジせえ!」
買うんかい…なら文句言うなよ…。
やけに響く酒枯れした声に耳を塞ぎたい衝動を堪えながら、あたしは煙草をレジに通す。
その間もおばあちゃんはぶつぶつ文句を呟いている。
理不尽!と叫びたい気持ちを抑えながら、煙草を袋に入れて会計を告げた。
「お会計、920円です」
「この馬鹿娘が!」
「はいっ?」
突然の罵声に目をぱちくりさせると、彼女はカウンターを手に持った杖でガンガン殴りながら馬鹿娘、ふざけるなと喚き散らしはじめた。
全く意味が解らなくて、呆然としているあたしに構わず、おばあちゃんは差し出したままだった袋をぐいと引っ張った。
その力の強さに袋が千切れ、煙草が床に落ちる。
「何じゃこの店員は!お前は床に落ちたもんを客に買わせるんか!!!」
「えっ、すみません、すぐお取り替え」
「わしみたいな弱いばあさんいじめて楽しいんか!?あ?!」
取り付く島もないほど激高したおばあちゃんにどうすることも出来ず、あたしはパートのおばちゃんにヘルプの意味を込めて視線を向ける。
すると立ち話に夢中だったおばちゃんはそそくさと事務所に引っ込んでしまい、あたしは心底おばちゃんに対して、役立たずと叫びたい衝動に駆られた。
杖を振り回しながらぎゃんぎゃん喚くおばあちゃんはどんどん激しさを増して、その声にただでさえ痛かった頭がさらに痛い。
どう宥めたらよいか、途方に暮れた時だった。
「ばあちゃん、杖危ないよ」
「やかましい、何じゃお前は!」
穏やかな声におばあちゃんの罵声が飛んだ。
声がした方向を見れば、見覚えのある爽やかーな笑顔が見えた。
「何じゃって客」
「関係ないじゃろうが、黙れ!」
爽やか笑顔の―――真澄さんはにこにこしたまま、おばあちゃんの振り回す杖を掴むと、ポンと軽く彼女の肩を叩いた。
あたしはこの数分間を一生、忘れないと思う。
「やーばあちゃんてさー、すぐそこの角のいえのばーちゃんでしょ?嫁いびりがすげえって評判の!」
その一言におばあちゃんの顔色が変わった。
肩に置かれた真澄さんの手を振り払うが、杖は握られたままで逃げられずに、表情へ困惑の色が浮かぶ。
真澄さんは相変わらず、にこやかに、明るい口調で滑舌もなめらかに続ける。
「あれだよね!あんまりにもいびりまくるから、嫁と息子が家でていっちゃって、今度は旦那にも愛想尽かされて出て行かれそうなんだよね!
ほんで社会人になった孫に泣きついたけど、孫もオカンいじめてきたばあちゃんに何にもしてあげたくないって面と向かって言われたんだよね!
ご近所さんも図々しいのに文句ばっか言うから嫌われちゃって、さみしーんだよねえ?
…で?ここに来ちゃー憂さ晴らしに若い子いじめてストレス発散してたって訳かな?ん?」
いつもと同じ、にこにこの笑顔なのにものすごく、怖い。
おばあちゃんの顔色が可哀想なくらい真っ青になって、唇をわななかせているが、言葉は何も出てこず、まるで金魚みたいだった。
彼はそっと杖を離すと、おばあちゃんの落とした煙草を拾い上げ、カウンターにそっと置く。
そうして財布から千円取り出すと、あたしに会計するように目線で示した。
キチンと新しい袋に入れ直した煙草を受け取ると、真澄さんはいまだに金魚状態のおばあちゃんの鞄にそれを丁寧に入れた。
ちらりと見えた鞄の中には古びてぼろぼろになった家族写真があって、あたしはなんとなく気まずい気持ちになった。
「今日は俺のおごりな。ばあちゃん、年寄りなんだからあんまり興奮しちゃだめだよ、帰ったら謝りなよ」
最後にぽつりと囁かれた言葉におばあちゃんはハッとして、それから気まずそうに黙り込んだ。
そうして杖を握り直し、無言のまま店を出ていく。心なしか背中がひどく、寂しそうに見えた。
「………どうもありがとうございます。またお越しください」
「待て待て待て、お前客を無理やり帰すなよ」
ふと我に返って、何故か今度は険しい顔の真澄さんにペコリと頭を下げる。
けれど、返ってきたのはいつものふざけた調子の軽口ではなく、少し固い声だった。
「じゃー何の用ですか、煙草は売りませんよ」
「何でだよ、ちゃんと成人してるよってそーじゃねえ」
いつものにこにこの笑顔が消えて、どこか不機嫌そうな真澄さんは、唐突にぐいとあたしのおでこに手をやる。
真澄さんの大きな掌はひんやりとしていて、あたしはその心地よさに少し、目を伏せた。
「やっぱり熱あんじゃん!通りがかりに湯野が見えて、何か顔色わりーから慌てて入ってきたらばーさんに絡まれてるし、なんなの!ほんとなんなの!」
「ちょ、いきなり怒鳴らなくても」
「怒鳴るわ!お前、今自分がどんな顔色か解ってんのかよ!」
マシンガントークに驚いて、口を挟むと更に怒鳴られた。
ものすごく心配そうな顔で彼はレジから離れると、日用雑貨の棚から冷えぴたの箱を取ってきて、ベリッと勢い良く封を開ける。
突然の暴挙に呆気にとられるあたしをよそに、真澄さんは手早く、そして思いきりよく、冷えぴたをあたしのおでこにべしぃっと貼り付けた。
「痛あ!!?冷たあっ?!!」
「やかましい。ほれ金!バイト何時に終わんの」
勢い良く突き出された千円札であたしは冷えぴたの会計をすましながら、あと二時間半と小さく答える。
その答えにますます、真澄さんは不機嫌な顔になった。
「……早退はしないよな、お前の性格じゃ」
「ええ。生活かかってます」
食い気味に答えると、真澄さんは不機嫌に溜息をひとつ漏らして、あたしの頭をガシッと掴み、目線を合わせる。
間近でガン飛ばされて、あたしは心底ビビった。
なんなのこのひと、こわい。
「外で待ってっから、なるだけ無理せずに大人しく仕事しろ。家まで送るから」
「いや」
「先輩命令だから」
「………はい」
返事するまでの顔が本当に怖かった。
真澄さんの正体は、実はヤンキーとかでもあたしは驚かない。
あたしの返事に真澄さんはうむ、とやけに重々しく頷き、店を出て行った。
何だか頭が追いつかない。呆然としていると、今さらパートのおばちゃんがレジに戻ってきた。
この役立たず!と今なら全力で叫んでも許されるかもしれない。
「あらっ体調悪いの?休憩する?」
「そーですね…ちょっと事務所にいます」
「今の学校の先輩なの?イケメンねえ」
ワクワク顔のおばちゃんは何だか違う方向の妄想をしているようで、あたしは思わず乾いた笑みを浮かべた。
「キュウケイハイリマース………」
とりあえず、少しだけ座ろう。
そして、どうにか真澄さんを振り切る方法を考えよう。
あたしは煮え切った頭を抱えて、事務所に向かった。