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『もしもし?千冬?聞いてるの?』



 母の声に呆然とした8歳の僕の姿が掻き消える。僕は曖昧に返事をして、母に続きを促した。
 彼女は鼻を啜りながら、もう一度、繰り返す。



『雪ちゃんね、薬をたくさん飲んで…ショック死で…とりあえず、早く帰ってきてちょうだい。明後日お葬式だから…』



「ああ、うん。解ったよ…気をしっかりね。明日の昼には行くから。うん…おやすみ」



 宥めるように優しく囁いて、通話を切る。僕は気忙しく、カウンターに残した同僚の元に戻った。



「お、おかえりー。どうした?」


「悪い。身内の不幸でしばらく仕事を休むことになった…明日、また改めて社で。今日は帰るよ」



 彼は一瞬、困ったように眉をひそめ、かける言葉を探しているようだった。
 気のいい同僚にそんな顔をさせるのが申し訳なくて、僕は取り繕うようにそっと苦笑した。



「気にしないでくれよ。とりあえず今日は帰るな。また埋め合わせはするから」



「いや、まあ…大丈夫か?」



「ん、大丈夫だよ」



 同僚の心配そうな眼差しに僕は笑って、飲み代を財布から取り出す。
 それを彼に差し出すと同僚は受け取りながら、困ったような声を出した。



「ちげーよ。お前、いつにもまして、人形みたいな顔してるから」



 少しだけ、迷って笑った。



「ひでーこというなあ。じゃあ、また」




 足早に店を出て、冬の夜の繁華街を歩き出す。
 いまにも雪が振り出しそうなほど冷えた空気のなか、僕はまた姉のことを思い返していた。



 8歳の夏から、5年後の冬だった。
 13歳の僕は多感な年頃の中学生になり、雪子は相変わらず美しいまま、大学一年の冬を迎えていた。
 雪子は何らかの折り合いがついたのか、中学生の頃など夢だったかのように母に笑いかけ、一緒に料理や買い物に勤しむようになった。
 ずっと三人家族のようだった生活に現れた、否、戻ってきた彼女に初めは両親も戸惑っていた。
 けれど、戸惑いよりも認められた喜びのほうが大きかったのだろう。
 気が付けば、雪子は家庭の風景にすっかり溶け込んでしまっていた。



 だが、僕はそうではなかった。



 あの、夏の早朝。
 頬の熱い痺れと、雪子の歪んだ表情がずっと心に残っていた。
 姉ではないのだ、といっそ優しく語った声が鼓膜にこびりついたままだった。



 テレビを見ながら和やかに両親と笑い合う雪子は、五年前のことなんてすっかり忘れてしまったようで、時折、遠巻きにしている僕を手招いた。
 その度に僕は慌てて、勉強や遊びを理由に場を逃れていたけれど、たぶん、きっと。
 彼女も長くは誤魔化されてはくれなかったのだろう。



 両親が旅行に発った日の深夜だった。
 土砂降りの雨が降っていたことを覚えている。
 あの夜の僕はひどく夢見が悪く、キッチンに水を飲みにいった。
 水道水を両の手のひらですくって啜り、勢いで脂汗の垂れる顔を洗う。
 どんな夢を見ていたのかは定かではなく、ただ気持ちの悪い感情がくすぶっていた。
 やっと人心地ついた瞬間だった。



「ねえ、ちい」



 ふと、女の声が僕の愛称を呼んだ。
 家族だけが、呼ぶ僕の名前。



「……雪子、ねえさん」




 振り返ると、白いシャツを着た雪子がタオルを持って、暗闇の中に立っていた。
 普段、彼女と僕が会話することはなかった。
 互いに互いを知らぬふりで過ごしてきたのに、今日に限ってなんだと言うのだろう。
 戸惑い、声が震える。ねえさん、と唇に馴染みのない単語が落ち着かない。




「タオル。床に水が垂れるわ」 




 極めて冷静に彼女は囁いた。
 差し出された洗い立てのタオルを恐々受けとり、僕は無言のまま、濡れた顔を拭いた。
 僕の不躾な態度に雪子は何も言わず、ただそっと綺麗な笑顔を見せる。
 口許だけ、綻んだ、歪なのに美しい微笑。




「大丈夫?嫌な夢でも見たのかしら、魘されていたわよ」




 そっと肩に彼女の白い指先が触れた。
 疲弊していた身体が電流でも流れたかのようにびくついた。
 雪子はそれでも一瞬の躊躇もなく、僕に触れた。




「ちい、どうしたの。そんなに怯えて」



 優しい声音にあわせて、綺麗な眉が心配そうに歪む。
 けれど目は変わらず、何も映り込まない。
 あんな眼差しを、いったいなんと形容すればよいのか、僕は大人になった今でもよく解らない。



「触らないで」



 ついて出た言葉はたった一言だった。
 得体の知れぬ気味悪さを少しでも和らげたくて、僕は必死に自分の両肩を掻き抱いた。



「ちい、どうしたの?」


「あなたが…あなたが言ったんだ。あなたは僕の姉じゃない。僕はあなたの家族じゃない…っ」



 ひどく寒かった。外は雪だったのだろうか、耳が痛いほど静かで。
 けれど僕の脳裏には、真夏の夜の明けきらぬ早朝、鼓膜にこびりついた哭き喚く蝉の声、白いワンピース。
 そして、まだ人の色をしていた、強い眼差し。



 これは、あの美しい少女ではない。



 強く脳が叫んだ。ただ、それだけだった。
 雪子は、不意にそっと嗤った。
 思わず後ずさるけれど、僕の背後にはシンクがあるだけだった。



「…そうね。千冬とわたしは家族じゃないわね」



 弓張り月のように、大きな切れ長の双眸が歪んだ。雪子は大きく一歩踏み出して、僕の頬に赤い唇を掠めた。



「おいで、千冬。わたしが女を教えてあげる」



 雪子の手がパジャマの中にするりと滑り込む。
 ただ、ひたすらに怖かった。
 僕はその夜、女の身体を知った。



 どうしようもなく、暴力的に。




 
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