「げっほげほっ」
激しい咳が止むことはなく、重い体を引きずるようにやっとやっと歩を進める。たどり着いたロビーのソファに崩れ落ちてからも、タオルで口元を覆って咳を繰り返す。
圭斗先輩に言わせればこれはこの時期の風物詩なのだそうだ。向島の気候が体に合わないのか、菜月先輩はこの時期になると夏風邪を患われるようになった、と。
菜月先輩は辛そうにしている姿を他人に見られたくないはずだと思いつつ、辛そうにしているのを放っておくわけにもいかず。何かが起こらないとも限らないし一応付き添うことにした。
激しい咳が一段落すると、今度はひゅうひゅうと大きく息を繰り返す。これが激しさを増すと危険に近付く。今はまだ大丈夫そうだけど、いつ過呼吸の発作に変わるかはわからない。ギリギリの状態だ。
「菜月先輩、家に戻りますか?」
反応はない。反応が出来ないのか、帰らないという意思表示なのかは俺にはわからない。ただ、咳や呼吸が激しいことから眠ってはいないはずで、俺の声は届いているといいのだけど。
「何か、欲しい物はありますか? スッとする飲み物など。……ああ、飲めそうですか。下の自販で何か買って来てもらえるようお願いしますね」
俺自身は、脚に菜月先輩の頭があって動けない。まだ自由の利く左手で圭斗先輩にメールを打ち、炭酸系の飲み物を買ってきてもらえるようお願いした。
右手は、菜月先輩に取られている。先輩の胸の辺りで弱々しく握られて、咳や呼吸が激しくなるとわずかに力が入るのも感じる。左手は、時折彼女の背中をさするのに使っている。
タオルで覆った口元は、酸素を取り込もうとひゅう、ひゅうと喘ぐ。その呼吸に合わせるよう、彼女の背中で左手を打つ。拒まれていないのか、拒めないのか。
「野坂、これで良かったかい?」
「あ…! 圭斗先輩ありがとうございます…!」
「しかし、酷そうだね」
「今は落ち着いていますが、いつまた激しくなるか。過呼吸にはギリギリのところでなっていないのが救いですね」
「ん、それはよかった」
激しい咳が過呼吸に変わると一番恐ろしいというのは圭斗先輩も同じ認識だったようだ。俺の右手を取る力は、波が消えたように思う。この分だとしばらくは大丈夫そうか?
「菜月先輩、圭斗先輩が飲み物を買って来て下さいましたよ。飲めそうですか?」
「ん、反応がないね」
「もしかすると、眠ってしまわれたようですね」
「しかし、菜月さんがこの状態で明日の収録は大丈夫そうかい?」
「いえ、菜月先輩のお体には代えられません。先輩がやると仰っても俺は止めます」
「それがいい」
眠ってしまったことで体の方も落ち着いたのか、菜月先輩は穏やかな呼吸を繰り返している。最近は咳が酷くて夜もあまり眠れていないということは聞いていた。
菜月に覇気がないとサークルが締まらないからね、と圭斗先輩がポツリ。そんな圭斗先輩が菜月先輩に落とす視線も心持ちいつもよりも穏やかに見えた。
「ところで野坂」
「はい」
「もしこのまま解散の時間になったとして、菜月さんがお前の膝で眠り続けていた場合はどうするつもりだい?」
「はっ」
「心を鬼にして起こすか、目先の体力回復を最優先に起こさないよう抱いて部屋に戻してあげるか」
それは全く考えていなかった。しかし俺にも家があるワケで、だけど菜月先輩のお体も心配だ。最近は眠れていないという話は聞いていただけに、起こすのは心が痛む!
「飲み会の時のパターンから言っても、お前がいなくなるとそれに気付きそうだからね」
「……寝ずに看病をしろと?」
「僕が頼んだと言おう。何より、お前なら“何もしない”と信じられるからね」
「ナ、ナ……」
「しーっ」
「スミマセン」
とりあえず、それはサークル解散の時間になっても菜月先輩が目を覚まさなかった場合の話。どっちに転んでも不安で仕方ないけど、最良のパターンは菜月先輩の許可をいただいた上での看病だ。
end.
++++
ノサカ、やはりこの状態の菜月さんをひとりの状態にはしておきたくないらしい。心配ナンダネー
この時期の風物詩、夏風邪の菜月さん。ノサカの膝枕もすっかりお馴染みである。
あ、圭斗さんは菜月さんの心配もしてるけど、完全に面白がってますよねwww 確信犯ですよ愛の伝道師サマは