その手を掴んで言ってみたい、どうかもう少し此処にいてと。
けれども心は声にならない。
この思考は、影踏み。
「こんばんは、」
夕方から夜に変わる時間の、いつもの場所で。
今日もやっぱり、いつもの声がいつもの挨拶を、口にした。
「…こんばんは、ヒカリ」
俺もそれに答えて、視線を声のしたほうへ向ける。
眼差しが追いつくより些か早く、彼女が隣に来た。
「今日はきっと星が綺麗ですよね、いいお天気でしたから」
「…うん、」
「あ、もしかして一番星じゃないですか?あれ、」
真っ直ぐに伸ばされた指を辿って、空を見上げる。彼女の人差し指の先に、小さな光が灯っていた。
今夜は星が多いだろうねと答えれば、それだけで彼女はとても楽しそうに笑ってくれるから。
だから、俺は引き延ばしたくて仕方なくなる。この時間を。
会話のひとつを名残惜しいと思うような感覚が自分にもあったのだと、そう知ったのは紛れもなく最近の話だ。
ヒカリと話をするようになってから。ヒカリが、当たり前に毎日声をかけてくれるようになってから。
そうしてそれを、単純に嬉しいと思えることに気づいて、から。
「二番、三番…あ、もう分からないですね」
「…え?」
「もう数えきれないです」
唐突な彼女の声に、意識を引き戻されて。
見上げた視界の端から端までを埋め尽くす数の星に、夕方の時間は速いなと思いながらそうだねと笑った。
けれど。
「それじゃあ、もう明日の準備をしないといけないので」
「…うん、」
「そろそろ帰りますね」
いつもの時間、いつもの言葉。変わらないのは嬉しいことばかりじゃない。
聞こえてきたあまりにシンプルなおしまいの挨拶に、何事もなかったように気をつけてと返すのも慣れたものだ。
「おやすみなさい」
「…おやすみ」
ずっと、ずっと続けばいいのに。
暗闇でも茜でもないこの空が、ずっとずっと消えなければ。
そんなことを思いながら、それでも口にした四文字で彼女はすぐに遠くなる。
(追記に続きます→)
2009-6-29 03:34
!ネタバレ・シリアス注意
要らないのもう何も。貴方にこの手が届くなら、私の存在証明だって投げ捨ててでも愛したいだけ。
「…正気か、お前は」
緋色の目が信じられないというように見開かれて、そしてその唇が何とも意味のない確認を紡いだ。
「もちろんです」
私に迷いはない。迷っているのは彼のほうだ。私はもう一歩ゆっくりと彼に近づいて、懇願する。
「わたしの名前を、貴方以外のすべての人の記憶から消してください」
貴方にはそれが出来るのだろうから。どうか、願いを叶えてほしい。そう言えば彼は困った、というにはあまりに複雑な顔で私を見るから、私はもう一度、微笑った。
「お願いです―――イグニス。貴方の名前を私だけが呼べるの、それと同じ幸せを貴方にならあげたいから」
要らないのもう何も。貴方にこの手が届くなら、私の存在証明だって投げ捨ててでも愛したい。
この瞬きのような命に、貴方のいつか訪れる永い孤独をすべて埋め尽くせるくらいの愛を添えて。
生きていたいだけ。
ああ、戀とはなんて難しいのだろう。
――――――――……
「おや、こんにちは牧場主さん」
「こんにちは」
「今日も早いねぇ。いつもどこへ行くんだい?」
「ふふ、秘密です」
気をつけて行くんだよと手を振った雑貨屋の店主に礼を言って、ヒカリは足早にその店を後にした。
今日は林檎が沢山採れたのだ。あの人は喜んでくれるだろうか。
「アラ、牧場主サンじゃない。おはよう」
「おはようございます」
すれ違うアクセサリー屋の人と挨拶をして、鉱山を目指す。
この街は相変わらず穏やかだ。こうして顔を合わせる人が皆、呼び止めて挨拶をしてくれる。
この街の人は優しい。
「おはようございます、イグニスさん」
「…早いな」
「ふふ、早く会いたくて」
「…ふん」
だから、気づかない。当たり前に生きる私が、どれほどおかしな存在なのか。
あの日望み通り名前を失った私は、牧場主と呼ばれている。彼はそれを謝ったけれど、私はそこに確かな幸福がないわけじゃないことを知っている。
ただ少し、私たちのそれは破裂しているだけで。
「…ヒカリ、」
「はい」
要らないのもう何も。此処には何もないのだろうか。
否、それは違う。だって。
盲目
(此処には今も変わらない私と貴方がいるのだもの、)
2009-6-24 03:13
ガラスの靴なんて差し出されたら、私はきっとそれを踏みつける。
リボンをなくした。
それに気づいたのは三時のおやつの後で、どこに落としてきたのかは分からない。
ただ、気付いた時にはなかった。
「……」
ぐ、とスカートの裾を握りしめて、ルーミは小さなため息をつく。
ない。ここにもない。一体どこで落ちてしまったのだろう。
ヘッドドレスじゃない。固く結んだツインテールのゴムに重ねて結んだリボン。
小さい頃から人と違うおしゃれがしたくて仕方なかった私に、お姉ちゃんがくれた二本のリボン。こうすればもっとお姫様みたいよ、と。
私の大好きなピンク、の、リボン。
「…今日はこの辺りしか歩いてないのに」
もうどれくらい探しただろう。海の向こうに沈みかかる夕陽を横目に、ルーミはもう一度足元へと目をやる。
それから振り返って、また視線を落とした。
「…痛、」
ちり、と微かな痛みが足に起こる。
靴擦れか。夏のサンダルでうろつくんじゃなかった。
それもこれも見つからないリボンが悪い、けど、見つけたいのだから仕方ない。
だがしかし、さすがにもう時間が経ちすぎた。
「……」
諦めて帰ろうか。そんならしくない思考が頭を過る。
もうすぐ夜だ。
きっと心配症な姉は夕飯を作りながら窓の外を気にしていて、だからまたおかずを焦がして、それで、帰ってきた片側のリボンがない自分に笑っておかえりなさい、とか言うのだ。
だから。
「…おい」
「!」
どんな顔をして帰ろう、と迷子のような気持ちになった時、声が聞こえた。
振り返って、ギル、と名を呼べば相変わらず無愛想な眼差しが視線を合わせて、ああ、とだけ言う。
「こんにちは…こんばんは、かしら。何か用?」
「少しな。…君は何をしているんだ?」
「…探し物よ」
まさかただのリボンだなんて言えずに、そうとだけ答えた。そうか、という声にそれじゃあね、と言おうとしたのを、同じく何かを言おうとしたギルを見て後に回す。
そういえば、少し、だなんて何の用なのだろう。
黙って続きを待てば躊躇いがちに差し出された手が、ゆっくりと開かれて。
「探し物は、これだろうか?」
「…え、」
そこにあった見慣れたピンク色に、私は思わず声を上げた。
(追記に続きます→)
2009-6-22 05:11
大切なものは、なんて問いかけに答えられるほど大人じゃない。
「チハヤさーん、」
がちゃ、とノックもなく開いたドア。見慣れたシルエット。
朝の光がまだ残る時間にいつもやって来る彼女は、今朝も相変わらずの弾むような声で僕を呼ぶ。
「おはよう、ヒカリ。君、何度言ったらノックしてくれるの」
「あ!」
「まぁもう諦めてるからさ、ほら気にせず座ったら」
呼ばれた僕は今朝も変わらず、昨日と同じ台詞で彼女を迎える。
ノックくらい、と思っているのは嘘じゃない。ただ、毎回忘れる彼女にいつしか折れて、先に鍵を開けておくようになったというのもまた、嘘じゃないけれど。
「はい、チハヤさん」
「ん」
椅子に荷物を広げたヒカリから、いくつかの野菜と果物を受け取る。
僕は冷蔵庫にハーブティーがあるからとだけ言って、預かったそれを持ってキッチンに向かった。
これが、彼女が午前中にここへ寄る理由だ。
料理が苦手で外食ばかりな食費のかかるヒカリと、料理の練習はしたくても材料費が馬鹿にならない僕と。
いつかの昼に彼女が出荷を忘れたという野菜をひとつ持ってきて始まった関係は、未だに崩すことのできない日課として僕たちの中にある。
「ヒカリ、」
「はい?」
「何かお皿出してくれない?」
「あ、今行きますー」
振り返ると、ちょうど彼女はテーブルを拭いたところだった。二つ用意して余ったハーブティーをしまい、ばたん、と冷蔵庫の扉を閉める音。
喉が渇いたなと頭の片隅に思いながら、白い皿を受け取って二人分の昼食を盛りつける。
「…ふふ」
「何」
いつにも増して満面の笑みで手元を見つめてくるヒカリに、僕は思わず眉を寄せた。
そんなにお腹でも空いたの、と訊けばそれもあるけど違いますと答える素直な彼女に、思わず少し笑って。
けれども。
「楽しいなぁって思ってたんですよ」
「は?」
「チハヤさんのお料理は、手品みたいです」
ふわふわ、まるで空気のように当たり前に与えられた言葉に、僕は一瞬、息すら忘れて。
そうしてそれから我に返って、何言ってるのと、笑った。
大切なものは、なんて問いかけに答えられるほど大人じゃない。
けれど、変わらないで欲しいものはと訊かれたら、それは。
トワ・エ・モア
(僕らだから意味を成す、)
2009-6-18 04:14
伝わる熱が毒だと言われたら、私はきっとそうだと思える。だって。
「先生、」
青いくらい白いカーテンを開けてそう声をかけると、無表情にカルテを見つめていた横顔がふと、気付いたようにこちらを向く。私へ向けられるその眼差しが、瞬間が、とても好きだ。
「君か。今日も元気そうで何よりだ」
「先生もお仕事お疲れさまです」
毎日変化のない挨拶の言葉は、私たちにとっておはようと変わりない。
仕事が一段落する午後に、此処を訪れるのは日課だ。いつからの日課かは覚えていないけれど、そうしてインヤさんと作ったハーブティーを飲む。二人で。
それだけの、私が一番大切に思う時間だ。
「先生、」
「?」
「…やっぱり何でもないです」
何かを言いたくて、けれども話があったわけではなくて。
カップをひとつ渡しながら、笑ってごまかした。
憧れじゃないと言ったら嘘になる。でも恋じゃないと言っても、多分嘘。
そんなことをぼんやりと思いながら、自分のカップに手を伸ばしてぬるいハーブティーを一口飲んだ。今日のは出来がいい。
「…ん?」
「?」
カップを置いた時、再びカルテに何か書いていたウォン先生がふと、こちらを見た。
何だろう、と思いながら視線を追って、手元を見て。
そうして私も、何かに気付いた。
目の前に、カップが二個、ある。
「…へ…?」
「…君、それは…」
沈黙が、流れた。
手元にはたっぷりとハーブティーの残ったカップがひとつ。
反対の手の先に、今飲んだカップがひとつ。
「そっちは、わた」
「きゃああああ!!」
私の、という言葉を悲鳴で遮って、同時にすべてを理解する。
そんな、とりあえず時間よ戻れ。
だって、これでは。
「ご、ごめんなさい…!」
「いや…それほど謝ることでは」
「……」
「……」
無意味な謝罪の言葉を口にしながら、頬が焼けるように熱くなるのを感じていた。
だってこれでは、いわゆる。
(追記に続きます→)
2009-6-13 05:48