この胸は空白をたくさん抱えていた。だから君が降ってきた。
「占い屋さん、こっち向いて!」
カシャ、と柔らかな真昼の空気を裂くような音が聞こえて、冬の太陽に慣れきった目に閃光が走った。反射的に下ろした瞼は、きつく閉じすぎて少し痛い。のろのろと持ち上げてみれば、視界に数回緑色とも桃色とも言えない光が泳いで、そうして悪戯に成功した子供のような笑顔が映る。
「……何、アカリ……今の」
「へへ、撮っちゃった」
見れば手には、彼女がいつも辺りの景色を撮り歩いているカメラ。薄々察してはいたが写真を撮られたらしい、という事実が、今さらながらに我が身の出来事として認識できてきて。やられた、と思って数秒、ああこれでは本当に悪戯に引っかかった大人だと気づいて、思わずため息をつく。そんな俺の様子を見て、彼女はカメラを両手に持ったまま笑った。
「そんな顔しなくたっていいじゃない。魂なんか抜かないよ?」
「……そんな、迷信にため息ついたわけじゃない」
「うん、そうだよね。……だめだった?」
「……うん、いや……はあ」
「占い屋さん?」
駄目かと訊くのに、その顔は駄目だと言ったらすぐにでも涙を堪えるような笑みに変わりそうに眉が下がっていて、言いかけた言葉を一旦引っ込める。ただでさえ言葉を連ねることが苦手な俺は、そうすることで余計に言葉と言葉の間が空いた。そうすると今度は彼女が、どうかしたのかとでも言うように俯きかけた目を覗き込んでくるものだから思わず背ける。そんな不思議そうな顔をしないでほしい。君にかける言葉を必死に探して繋げてはばらしているんだ、とは、それさえも言えないままに。
「……その。写真……現像、するの?」
「え、できればしたい」
「……どうして」
「どうしてって、そうだなぁ」
結局、真に伝えたいことの核心からはかなり遠い場所にある質問を選んで、そう訊いてみた。今度は彼女が言葉に詰まったことに、少なからず驚く。はきはきとして快活で、あまりそういう場面を見たことがなかったからかもしれないが、彼女が会話の中で何かを慎重に考えているという光景はどこか新鮮だった。藤色の光を注したような眸が、白い日溜まりに透けているのをぼんやりと見つめてそれを待つ。
「占い屋さんの、真正面からじゃない顔が、結構好きだから」
「……え?」
「呼ぶと、返事はゆっくりだけどすぐに振り返ってくれるの。周りが静かでもそうじゃなくても、いつも呼んだら聞こえるのが当たり前みたいに」
「……それ、は」
「あ、もちろん、こうやって向き合って話すのも好きだけどね?」
それは、君の俺を呼ぶ声が、一際明るいから。そう反論しようとして、柄にもなく照れたように笑ってみせた彼女に呼吸を持っていかれた。ね、と言われてわけも分からず、雰囲気に押されるようにこくりと頷く。すると彼女はそれを見て、ぱっと表情を輝かせた。
「ね、だからこの写真、現像しちゃだめかな?」
その胸の前で大切そうに抱えられたカメラと彼女の視線とを交互に見比べて、俺はしばし考える。良いとも悪いとも、どちらとも即答はできなかった。
彼女は呼ぶとすぐに振り返る俺を好きだと言ったが、それを言うなら元はと言えば逆なのだ。俺は、周りに人がいてもいなくても、そこが広くても狭くても、明るくても暗くても、どんなときでも変わらず俺を見つけて真っ先に呼んでくれる、彼女が好きだ。その目に見つけてもらえることが、とても。だから彼女の願うことなら、ましてやこんな対価の何もかからないような些細な願いなら、できる限り叶えてあげたいしそうして笑っていてほしい。けれど。
「……分かった」
「え?」
「……いいよ?でも、二つだけ約束」
けれど悲しいかな、彼女の選んだ願い事は俺にとって、どんな豪華な贈り物よりも頭を悩ませざるを得ない。俺は、魔法使いだ。彼女が本当に願うなら奇跡の花だって最上の紅茶だって、絵本の中の星だって取ってあげられる。対価は何が必要になるか分からないけれど、全部全部、その目につかないところで繕ってあげよう。もっともそれは、彼女がそんなことを望まないと分かっているからこその想いであるのだけれど。けれど望むのなら本当に、綺麗なものだけ見せてあげるし汚れる前に次をあげる。
「約束?」
「……そう。一つは、現像したら……データは消して?手元には、現像した写真だけ、残して」
「……分かった」
「……うん、ありがとう。もう一つは」
ああ本当に、それくらいにまで思った彼女が望むものは、どうしてそんなものなのだろう。九十九の贈り物をしたとしてもきっと、決して贈ることのないもの。俺は、魔法使いだ。彼女の手の中で写真はいつか古びて埃を被り、色褪せて―――けれどもいつか彼女がそれを気まぐれにふき取って眺めたとき、そこにはきっとそれを掴む皴の刻まれた自分の手と、つい先刻に行き会ったのとまるで変わらない俺の姿が映ることになるだろう。
「……何回だって、撮っていいから。季節が変わるたびに、必ず、捨てて」
そのとき彼女はその硝子玉のような目を瞬かせて、何を思うのだろうか。知っていたことだと何も思わないのか、相変わらずだと笑うのか、或いは。形になど残らなくても、月日の流れが違うことはいずれ目に見えてくる。けれども形に残ることで、それがより著しく輪郭を持って未来の彼女と俺の間に立ち塞がることが、俺は寂しい。
「どうして?」
「……どうしても」
そしてそれを口に出して言うことができないのは、偏に臆病だからだ。はっとされることが恐ろしい。彼女に、俺達は別物であると改めて認識されることが。秘密を作って遊ぶようなふりをしてそう微笑めば、彼女は唇を尖らせてごまかされてくれた。何度だって撮るからいいもん、と横を向いた華奢な肩を、抱きしめて何もかも話してしまいたい衝動に駆られ、緩く組むように両腕を拘束させあう。ふいに瞼の裏を刺した真っ白な光に、思考の栓が抜けたように胸が熱くなって、俯いて目を瞑った。ああどうして、こんなにも愛おしくなってしまったのだろう。
この胸は空白をたくさん抱えていた。だから君が降ってきたし、それを受け入れることができてしまった。積もり積もった君はやがて、胸の奥の一番高いところまで達して。ほんの少しの星屑だけが届くことのできた、小さな夜空の琴線を細い指先でなぞった。
「……アカリ」
「ん?」
「……ほら、君だって」
呼びかければ、カメラをいじっていた手を止めて。ぱっと向けられた視線に、笑いたいのになぜだか上手く微笑いたくない。違和感に気づいてほしくて、見過ごしてほしくて、けれどもそんな葛藤の末に勝つのはいつだって後者なのだ。くすりと笑って、何でもないことのように言った。
「……何をしていても、振り返ってくれる」
ああどうか、どうか。それだけで俺は、幸せだ。
heartstrings
(この愛に捕らわれないで)