夏の夜にさらさらと光る、浅い川面の色が好きだ。背高の草、蛍の光、様々なものが映って見える。夜の影が昼間よりそれらの輪郭を曖昧にするから、川面は緑や黄色が滲み合って、全体が一枚の帯となって光り輝く。
 特に、こんな月の明るい夜などは。
「天の川が落ちてるのかと思ったね」
 はた、と声をかけられて、顔を上げる。土手の上の草原に、よく知った人が立っていた。
「ナナミ、さん」
 よく知った人――なのだけれど、一瞬、知らない人に見えて。名前を呼ぶ声が上ずってしまった。彼女が、その肌も、金の髪も、月明かりに照らされて、あんまりに明るく輝いていたものだから。
「あなたも遠いところから落ちてきたのか、と思いましたよ」
「え、なあに?」
「いいえ、何でも。こんばんは、こんな夜更けにどうしたんです?」
 土手を下りてくるその姿が、一歩ずつ近くなるにつれて、ようやく目の前にいる人の名前に確信が持てた思いがした。真正面に立つと、彼女の姿は僕の影を被って、光っているのは淡い金色の旋毛だけになる。
 思わず手を伸ばした。彼女は慌てて、先回りするように自分でそこを押さえた。おや、と手を引っ込めると、焦ったような顔で口を開く。
「ど、どこ?」
「何がです?」
「何って、寝癖がついてたんじゃないの?」
 寝癖。思いがけない言葉に、僕が鸚鵡返しすると、彼女は違うと気づいたのかそろそろと手を離した。言われてみれば確かに、三つ編みが少し緩んでいる。指摘すると、気まずそうに苦笑した。
「夕方、そこで寝転がって、三毛猫と遊んでてね。そのまま私だけ寝ちゃったみたいで……」
「一人で、ですか?」
「うん、そう。草むらにいたから、誰も気づかなかったんだろうね。さっき起きたら、月が出てて」
 気持ちは、分からないとは言えないが。予想を少し上回った発言に、はあ、としか言葉が出てこなかった。夏の日暮れは心地いい。特に水辺は、得も言われぬ涼しさで満たされる。昼の蒸し暑さを川面が吸い込んで、底石の中で濾過して、冷たく透明にして吐き出したような、そんな風が吹く。
 僕も昔、ほんの少しと横になったら転寝をして、祖母に揺り起こされて目を覚ましたことがあった。あのときはずいぶん、心配をかけた。倒れていたのではないかと。
(なるほど、こんな気持ちだったのか)
 僕は今、祖母の気持ちが少し理解できたような気がした。もっとも、彼女がそう簡単に倒れるとは思っていないから、心配の種類は別物だろうけれど。子供でもない女性が、無防備に草むらで眠っているなど。
 でもそれを、だめですよ、と言うには、僕も昔同じことを楽しんだ身だから。
「……あのね、ユヅキ」
「何ですか?」
「さっき、目が覚めたら、川べりをユヅキが歩いてるのが見えてね」
 僕の表情が、柔らかくなってきたのに気づいたのだろう。彼女は様子を窺うように、視線を上げて、口を開いた。そういえば先ほどから、何か言いたげにしていたような気がする。
 ええ、と促すと、小さな手が僕の影をくぐり出て、月明かりに白く輝きながら、そろ、と指先で頬に触れた。思わずまばたきをした僕を見て、彼女はどこか、安堵したように笑う。
「私、まだ夢の中にいるのかな、って思った」
「ナナミさん……」
「ユヅキ。月が、似合うね」
 ああ、そうか。瞼の裏に、互いの見たものが交換されたように、僕は先刻、彼女が見たであろう景色を思った。
 土手の上で光り輝く彼女を見つけた僕は、川べりに立っていて。遮るもののない月明かりに頭の先から爪の先まで照らし出されて、川面の揺らめきが、蛍の光が、この肌や服の上に映り込んでいたのだろう。
 もしかしたら、彼女は少し、躊躇ったのだろうか。だから、ユヅキ、と呼びかけるのではなく、天の川だね、なんて言葉を切り出しにして。僕が、振り返るかどうか、試してみたのだろうか。
 同じようなことを、考えている。ふ、と笑いを漏らしたら、彼女は小さく首を傾げた。
「初めて言われましたよ、そんなこと」
「そう?」
「ええ。でも――僕から見れば、あなたのほうが」
 あなたのほうが、よほど。言葉の最後は、虫の声に紛れて消えていく。伸ばされたままの手に手を重ねて、輪郭を確かめあうように頬を寄せれば、彼女の指先がぴくりと緊張したのを感じて、なんだかおかしくなった。
「ナナミさん」
「は、はい」
「今度、あそこで転寝をするときは、僕を呼んでくださいね」
 すぐ近くにいるんですから、と。乞うように言えば、月の光を残したままの頬をかすかに染めて、彼女は頷いた。
 地上の天の川は、音もなくしんしんと輝いている。送りますよ、とその背を促して、僕たちは光の帯に沿って、交差点への道をゆっくりと歩いた。



[月を召しませ]