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氷夏 ※チハヒカ


触れるより先に溶けるために、作り出されたもののよう。


アイスクリーム、と。最初に呟いたのは彼女で、作る、とその言葉を借りて繋ぐように提案したのは僕だった。風も吹かない窓を開けて、回らない室温の上昇に任せて気怠さを持て余すだけの昼下がり。いい天気だ、と挨拶代わりに交わすことさえ億劫になりそうな青すぎる空から視線を外して、二人、目を合わせた。
いいんですか。驚きと期待を両方含んで、急に瑞々しくなった彼女の眼差しに、僕も半ば寝転がるように座っていたソファから体を起こして料理雑誌を閉じた。あのときなぜ、そんな気まぐれを起こせたのかよく分からない。ただ、きっと彼女だけでなく、僕もこの呼吸さえ浅く感じるような気温に、何かいつもと違ったことをしたかったのだろう。緩やかながら、まともでなかった、とも言う。
君が、手伝ってくれるならね。答えの分かりきったそんな返事で頷けば、彼女は苺色の双眸を輝かせてはいと立ち上がった。

そんな、何とも真新しいような、それでいてどこか思い出めいたやりとりをしたのが、数時間前の話。

「……やっぱり、暑いものは暑いね」
「そうですね」

崩れたようにソファに座って、オレンジのアイスクリームを一口掬ってから、僕は正直な心境を口にした。喉を通るオレンジの酸味と甘味はややすっきりとさせてあって程よく、それらは幻のような冷たさに結ばれて爽やかに溶けていく。出来栄えは上々だ。だが、それとこれとは別の問題であったらしい。
至極当たり前と言えば当たり前の一言に尽きるのだが、何というべきか、いい出来だと思う気持ちと、味がどれほど良かろうとアイスクリームの一口や二口で体感温度は変わらない。それについてのそれはそうだ、という妙な納得に似た気持ちが混ざり合って、僕は丁度いい言葉を見つけることができなかった。並んで腰かけた彼女も、どこかいつもより力が抜けて見える。誰も見ていなくても自然と伸びていることの多い背中が、水草のようにぴたりと、背もたれの柔らかさに溺れていた。

「でも、美味しいですよ」

ゆら、り。体温のような空気が揺れる。気休めのように吹き込んだ久しぶりの風は、微かに頬を撫でたけれど髪を揺らすこともなく。僕を通り越して、彼女を通り越して、水気の残るキッチンへ吸い込まれていった。音もなければ色もない、そんな瞬間だ。窓のむこう、じっと見ているとゆっくりと伸びていきそうな、そんな錯覚を覚えるほどの緑に目を凝らして言った。

「当たり前でしょ。誰が作ったと」
「それは、チハヤさんと」
「……」
「……ほぼ、チハヤさんが」
「……」
「あ、いたっ」

ごつ、とアイスを片手に無言でその頭を小突く。反射的に目を瞑った彼女は、確認するように自分の手のひらを頭へ当てて、それからむくれ、何が可笑しいのかくすくすと笑った。何、一人で笑ってんの。いいえ、何でも。苺のアイスクリームを掬う横顔がわざとらしい黙秘に似合わなくて、ああそうと答える声に、少しだけ吐息が混じった。
まあ、いいけど。考えるともなしにちらと思ったそんな言葉が、頭の中で妙にはっきりと自分らしく響いて、開けてもいない口を噤む。そうしてちらと隣を見れば、予想外に視線が重なり合って、彼女がはっとしたように瞬きをした。

「何?」
「あ、いえ、ええと……」
「ん?……ああ」

問いかければ、躊躇いがちにふらふらと動いた視線が、僕の目の少し下で止まる。追うように下を見れば、鮮やかなオレンジ色がそこにあって、なんだそんなことかと合点がいった。溶けかかったアイスクリームを、一匙、大きめに掬う。そのまま腕を伸ばして、彼女の眼前に差し出した。

「食べる?オレンジ」
「あ、いいんですか?」
「いいよ別に。君こそ、変に遠慮しないで言ってくれたらいいのに」

正直なくせに、こういうところで時々引っ込み思案になるのだから、彼女は本当に素直なのか大人しいのか、よく分からない。多分そのどちらも、なのだろうけれど。暑さでそこまで気が回っていなかったが、僕がアイスクリームの完成を確かめていたとき、そういえば彼女は味見をしていなかったのだ。僕に代わって、アイスティーの準備をしてくれていた。気になるのは当然だろう。
恥ずかしがるようなことでもないでしょ、と言えば、だって、と照れ隠しのように苦笑しながらもスプーンを口に入れた。膝の上に載せられたガラスの容器の外側に、点々と並んだ水滴が、大切そうに持つ彼女の指の先を濡らしている。視界の端で光ったそれを何の気なしに見つめて、差し伸べていた手を引いた。

「わあ、美味しい」
「そう?良かった」
「ありがとうございます」

子供のような感想だ。だが、日頃具体的な評価ばかり受けているせいか、僕にとっては彼女の単純すぎるほど純粋な言葉が、妙に貴重に聞こえるのである。慣れとは恐ろしいなんて心の中で毒づいて、どういたしまして、と口に出た声は我ながら随分とらしくない。けれど、それもそれで悪くはないかと思えてきてしまった。最近では。

ふとそんなことを思いながらオレンジを一掬い飲み込んで、視界の端で彼女が苺のアイスクリームを掬うのをぼんやりと眺めたときだった。細い指に支えられた、銀色のスプーンがちかりと光る。その光を目にした瞬間、はたと、思考の中で何かが詰まったのだ。ゆっくりと、場面が巻き戻るように目の前の彼女がぼやける。そうしてそこに、自分の手を思い描いたとき、僕は一瞬、心臓に熱が昇りすぎて冷たくさえ感じた。

(……あれ)

どくん、と、心臓が疑問を持つように傾く。あまりにも無意識なことで、気がつきもしなかったが。先の一瞬、僕は何かを間違えなかっただろうか。そう、まるで、日頃であったら見向きもしない恋人同士のような。

「……」

一つ目に、気がついたことを後悔し、二つ目に隣を窺ってしまったことを後悔した。彼女は、黙々とアイスクリームを口に運んでいた。俯きがちになった顔には髪が影を作っていて、表情は見えない。だが、その代わりに、真っ赤に染まった耳元が晒されていた。


触れるより先に溶けるために、作り出されたもののよう。この沈黙に、この決して空っぽではない空白に。睫毛の先から、溶けていってしまいそうだ。言葉になれない呼吸が、室温と同化して、どうかして。

「……あの、チハヤさん」
「……何?」
「こっち、……食べてみますか?」
「いい、……僕、味見したし」

ささやかな声が、余計に空気を震わせる。溶けたオレンジを引っ掻いて、ガラスを突く音が嫌に大きく聞こえた。
じわりと、思考を蝕む暑さに呑まれていく。アイスクリームはもう温く、甘いばかりの橙色に僕をそこから掬い上げるだけのものは、とても見出せなかった。



氷夏

(それでもいいか、とあやふやに溶けた)

▼追記

Jの戴冠 ※サトキリ


その目にさえ見えない栄光を探している、存在が約束されたものでもないが。


剥き出しの土を照らす日射しが、直視できない午後だった。空気が密度を増していくように気温の上がっていく季節は、そろそろ頂に届く頃。青々と育った牧草を刈り取って馬小屋の傍へ置き、俺は太陽のない方角の空を見上げた。板を貼ったように平らな水色が、瞼の奥を濁す。

「キリク?」

重い光の名残に思わず閉じかけた目を開けさせたのは、背中から聞こえてきた呼び声だった。サト、と脳内で声にならない声が最初に答え、次いでやっと俺が振り返る。麦色の髪がちらちらと日を受けて眩しい。だが同時にそれを見てこそ彼女だと確信することもできるのだから、俺もずいぶんと、彼女という存在が記憶に染み込んだものである。

「よう、どうしたんだよ。仕事は終わったか?」
「うん。キリクこそ」
「ん?」
「遠くから見たらぼうっとしてるように見えたけど、どうしたの。珍しいね」

挨拶もそこそこに、昨日ぶりの彼女を日陰へ来るよう手招く。柵を開けてやろうとしたのだが、それより早く身軽な仕草で乗り越えられてしまった。自分の牧場ではいつもそうしているのだろう、こちら側に降りてから開けようとしていた俺に気づいてはっとしたように苦くはにかむ彼女を、何と言うのか、らしいなと思う。やり場のなくなった手を笑って差し出し、平らに均された土の上を三歩ほど、今更ながら気取りあい連れ立ってみた。

「元気だなあ、お前」
「そんなに笑わないでよ。別にいつもああしてるわけじゃないんだけど、つい」
「分かってるって。暑いんだから怒るなよ、な」
「まだ笑ってるじゃない……」

温い、浅瀬の水のような温度の手だ。そこ彼処にある空気よりずっと冷たい気がして、そんなことはないか、と思い直したけれど離しがたかった。するりと、自然に解れた指が、手のひらに引っかかっている。素知らぬ顔で小屋の壁に背を預け、その指先がゆっくりと離れていくのを無性に長く感じていた。

「お前だって」
「ふふ、ああうんやっぱり、忘れて」
「何が、だ?」
「さっきの。ちょっと逞しすぎたかなって」

くすくす、つられたように笑っていた彼女が、ふいにこちらを覗く。陰るプラムの中心にどこからか弾かれた光が一つずつ入り込んで、そこだけ子供のようにきらきらと輝いていた。ああ、とそれとなく視線を逸らす。ほんの一瞬の沈黙に、風の音さえ止んだ気がした。

「別に、考えなくてもいいんじゃないか。俺は悪くないと思うぜ」
「キリクなら、そう言ってくれるのも分かってるんだけどね。でも、やっぱり忘れてほしいかな」
「そういうもんか」
「うん。だってさ」

空気が、息を潜めて聞き耳を立てている。そんな錯覚に陥るくらい、静かな瞬間だった。人の声も水の音も、いつもは溢れているものが一斉に遮断されたように何一つ聞こえてこない。そんな中で、それに気づいたようにいつもより少し抑えた彼女の声だけが、掻き消されようもなく耳に届いた。

「私、キリクにはずっと頼りないままに思っててほしいの。私を一番女扱いしてくれるのは、貴方だから」

ね、と。ほんの一瞬こちらを向いて困ったような顔で付け加えた彼女は、それからすぐに日射しの下へ出て行ってしまった。凛とした後ろ姿を、足が勝手に追う。柵までの短い距離を歩く間で、彼女に何を言おうか、どれほど広い場所にも並べ立てきれないほどのことを考えていた。そうして、できるだけいつもの調子で、笑った。

「じゃあ、今度から」
「?」
「お前が柵に上りそうになったら、俺が抱き上げて、越えさせたことにしようか」

かたり、柵を止めていた鍵を外して開ける。出て行く瞬間、彼女が驚いたように振り返ったので、俺も先の彼女に倣って、な、と付け加えておいた。ふわりと、瞬いたプラムが綻ぶ。それがあまりにも柔らかく微笑むから、つられて笑うことさえできなかったほど。

「また明日」

ありがとう、と。微かに聞こえた気がしたのは、気がした、ということに留めておくべきなのか。俺はいつもの通りにそう言って出て行った彼女が街角で見えなくなるまで見送り、仕事に戻ろうと足を踏み出して。そうして一人になってからひどく脈を打った心臓と、渦を巻いて散る思考と感情の奔流に襲われて、瞼を覆って笑った。


その目にさえ見えない栄光を探している、存在が約束されたものではないが。与えられるのは彼女だけで、他の誰でも創り出せない。そんなものを、探している。恋であるようだと気づいた日から、もうずっと。

「……やっと、一番、か」

ただ一人に選ばれる、そんな栄光を。
俺は高い空を見上げてそう呟き、悪くないなと思った。その一番が切り離されて唯一になる日を想像すれば、騎士なんて柄ではないが、結構優しくなれそうだ。



Jの戴冠

(欲しいのは君を独占する権利)
▼追記

カムパネルラよ永遠に


世界は、理不尽だ。


「チハヤ!」

広々とした草原に佇む一本の樹に凭れて、あやふやに晴れた青空を見ていた。空がそこにあったから、なんて、そんな誰かのような大きすぎて掴めない理由でもないけれど。雲がいくつ、見えない風に流れていっただろう。待ち人のやってくるまでというのは、どんな景色も上の空で、そのくせどこか昇華してゆく思い出のように初めから美しい。

「遅い」
「ごめん、これでも走ってきたんだけど」
「ぜえぜえ言っててよく分からないんだけど」
「それがっ、何よりの、証拠でしょうが」

とはいえ、それらはすべて期待と気の逸り、それこそ脳裏に浮かぶ思い出の中の待ち人の姿であるとか。そんな脆い感情と記憶の混ざり合いが作り出す、まやかしに過ぎないと言ってもいいものであるわけで。その美しさ、もとい絶妙なバランスを保って続いている儚さが、その後も継続されるかどうかは待ち人次第である。僕も本来そういった感傷に興味の薄い性質ではあるけれど、息を切らして駆けてきた彼女とたった一言二言話しただけで、そんな柔な憂鬱はどこかへ散ってしまった。
華奢な肩を大袈裟に揺らして呼吸を整えている彼女を、僕は呆れ半分、納得半分といった思いで見つめた。想像を裏切らないというか、なんというか。待ち合わせの時間に来なかったから大方走ってくるだろうと思っていたが、こんな日までそのテンプレートを貫く辺りが何とも彼女らしい。

「ごめんね……」
「いいよ、急ぎの用でもないし。仕事でしょ?」
「うん。でも、チハヤから呼び出されるの珍しいから、ああもう絶対遅れたくなかったのに!」
「分かったから。あと、前髪すごいことになってる」

悔しさのやり場が見当たらないとでも言うような彼女に自分の額を指して指摘すれば、途端にはっとした顔になって両手でそれを隠した。これは違う、走ったから、決して寝癖じゃないとようやく整った呼吸がまた侭ならなくなりそうな勢いで弁解されて、分かってるよ、そうだと思ってるから、と仕方なしに宥めに回った。
まったく、彼女といると本当に休まる暇がない。思考も言葉も行動も、気づけばすべてが引っ張られていて。そうこうしている間にも今度は恐る恐る手を退かして直ったかと聞くので、その滅多にない汐らしさが何だか可笑しくなってしまって、余計に酷くなったと笑って僕の手で直すふりをした。

「ありがと……」
「別に。これくらい、今更だし」

素直に礼を言われたことが少し後ろめたくなって、見上げてくる硝子のような眸からそれとなく視線を外した。本当は、そこまで可笑しなところなんてどこにもないのだけれど。ふとしたときに触れられる理由をつけられそうなところを、無意識に探しているだけだ。馬鹿がつくほど正直な彼女には、きっと一生かかっても分からない。

顔を合わせてからずっと交わしていた視線を外したことで、彼女の着ている服がとても綺麗だということに気づいた。装飾的だとか繊細だとかデザインの話ではなく、洗い立てのような、という意味だが。一見、普段とさほど変わらない動きやすそうな格好だが、汚れがない。彼女に関しては、それこそが意味を語ることくらい、僕にもとっくに分かっていた。

(……そういうこと)

気がついてしまった事実に、思わず笑みが漏れそうになるのを抑える。仕事で遅くなったと言っていたが、それは大きく捉えれば嘘ではないが。彼女は、牧場主だ。仕事柄、どうしたって身につけているものが汚れるのは避けられない。町で会うとそれなりに綺麗な格好はしているが、仕事中に行き会うときは、いつも後ろ姿に砂がついていた。
つまり、だ。頭の中に、時計を横目に見ながらクローゼットを引っかき回している目の前の人の姿が思い浮かぶ。彼女は時間のぎりぎりまで仕事に没頭したあとで、必死になって綺麗な服を探したのだろう。そうしてようやく見つけたのが、今まさに着ているこの服だと。

「……」
「へ!?え、ひはや。はに」

僕に、呼び出されたから。会うためだけに。気づいてしまったが最後、それは徐々に心臓に火をつけて、けれど彼女が隠したことを思えばなかなか口には出せずに。言いたいことや言えないことが有り余って溢れて、僕は思わず無言でその頬を軽く引っ張った。どんな用なのか、何の話なのかも知らないで。特別なデートなんて用意したこともないのに、気にしなければ気づけない程度に密かに身支度を整えて。そのくせ、間に合わなかったと髪をくしゃくしゃにして走ってくる。ああ、本当に。

「君ってほんと、馬鹿だよ。僕が何のために今日、呼び出したと思ってる?」
「え?」
「デートじゃないよ。一言だけ、言いたいことが見つかったんだ。本当は結構、長いこと躊躇ったんだけど」

どこまで、そうして真っ直ぐに向かってくるつもりなのだろう。捻れた僕は衝突のたびに痛くて、それと同時に期待をする。彼女ならば、僕が同じように真っ直ぐに向かい合っても、受け入れてくれるのではないかと。いつものように笑って、調子のいい言葉で。何でもないことのように、握り返すこの手に捕まってくれるのではないかと。


「結婚しない?僕はこの先もずっと、君と一緒に暮らしたい」


口に出した言葉は当たり前のように声になって、先の話を窺うように微かに緊張していた眸が、驚きに丸く見開かれた。言ってしまった、と今更ながらに拒絶への不安と後悔とで脳ばかりが冷静に押し黙る。同時に、やっと伝えられたという安堵にも似た解放感で知らず微笑めば、ずっと声もなく固まっていた彼女の頬が色を塗られたように紅くなった。


世界は、理不尽だ。綺麗なものほど壊されて、偽物ばかりが輝いて。運命も因果も業も、本当は何一つ約束がない。いつだって奪ったり与えたり、優しい人ほど報われなかったり。
そうかと思えばよりによって、彼女みたいな人が僕を好きだと言ったり、する。

「泣かれると、喜んでいいのか嫌がられたのか分からないんだけど」
「なんで。分かってよ」
「やだね。いつもみたいに、はっきり言ってくれなきゃ」

滅多なことでは泣かない彼女の泣き顔に揺すられて、からかうみたいに笑ったつもりが、何だか僕まで泣き笑いのような声になった。
道理なんて、あってないようなもので。僕はそれが、きっとずっと大嫌いで、これからも嫌いなままで、ああでも。

「大好きだよ!」

それでもキスのひとつで満ちるこの世界を、そろそろ愛したっていいかなと思う。彼女を愛するという、類稀なる人生をもらった。その代わりに。



カムパネルラよ永遠に

(そして満たされる僕を、抱き締めてくれる人がいる代わりに)

▼追記

靴底の春 ※センリオ


過ぎた季節を引き摺っている。知らず花を踏む少年のように。


「センゴクさん、起きてる?」

部屋の端に積み上げた厚薄様々の本の山を、日夜崩している。正確には本棚に入りきらないあらゆる種類の本を、手にしては横へやって頭に浮かんだ本を探している。そうしてようやく目的の本を見つけ出しては、片手に持っていた読みかけの本を新たな山の上へ積み、また埋もれさせては探し出して、その繰り返しだ。
そうして今日も、起き抜けに思い立った本をようやく見つけて表紙を確認したときだった。戸の向こうから、よく知った声が張り上げられたのは。

「はいはい、起きてるよ。ちょっと待って」

本当は、まだ少し頭が回っていないけれど。そんな余計な一言を心中に押し留めつつ、しゃがみこんでいた体を起こして玄関へ向かった。声の主は予想がついている。こんな時間に早いな、と思ったのだが、時計を見れば存外昼の手前とでもいうくらいの時刻だった。自分の朝が遅かっただけか、と今更ながらにそんなことを知りながら、見つけ出した本を通りすがりの机に載せて戸を開ける。日頃なら入ってよ、と適当に招くのだが、簡易なものとはいえ眠るときは鍵をかけているので、起きて一番となるとそうもいかないのだ。

「や、おはようリオちゃん。悪いね、開いてなかっただろ」
「おはようございます。寝てるのかと思って大声出しちゃったけど……」

予想を裏切らない姿に、内心で今日も変わりないなと曖昧なことを思いながら待たせたことを暗に詫びれば、彼女は挨拶をした後で俺のことを頭から爪先まで眺めた。何だどうしたと思ったが、起きてたんですね、と続けられた言葉に納得する。彼女とは外で会うことがほとんどであるが、この家を訪れることも最近では珍しくない。何度か寝過ごした朝に当たって、後から今朝は寝坊していたでしょうと図星をつかれたこともある。

「ひどいな、おっちゃんだって普段はちゃんと起きてるんだよ。外に出なかっただけで」
「また本を探してたんですか?」
「違う、本を読んでたの。あくまで、読むためにちょっと探すんだよ。まあいいや、上がるかい?」

物言いは若く悪戯っぽいが、律儀なところのある子だ。仕事の邪魔にならなければ、といつものように答えた彼女を、別に仕事中じゃあないと中へ招く。この家の引き戸を、慣れた手つきで彼女が閉めるからからという音が好きだ。風情とはまた明らかに違ったものだが、どう言い表すべきか、悪くないものだと思う。

「それにしても、リオちゃん」
「はい?」
「おっちゃんが、本当に寝ていたらどうしてくれるんだい。あんな大声で呼ばれたら、さすがに目が覚めると思うんだけど」

彼女を迎えるとき、わずかに見えた外の空気は眩しかった。足元に入り込んだ日差しは戸を閉められて細くなり、遮られたが、それでも部屋の中に溶けて残っているような、そんな気がする。金の粉を散らすような、眩しさを密集させた光だ。季節の変化はいつの間にか過ぎているものというが、本当にそうだと思う。

「それならそれでいいと思って。というか、いっそ起こすつもりで呼びました」
「はは、ひどいなぁ。おっちゃんは昨夜、遅くまで眠れなかったのに」
「昨夜に限らず、センゴクさんはいつものことじゃない。最近、どんどん外で見かける時間遅くなってるんだもの。それに、クローゼさんにも頼まれてるし」
「は?」

思わぬところで知人の名が出て、それと同時に彼のしかめ面と独特の、よく言えば個性的な物言いと真面目な横顔が浮かび、我ながら間の抜けた声が出た。眠りの余韻の抜けきっていない頭に、あの薬草のようなつんとした様子を思い浮かべることはなかなかの衝撃だ。本人に言ったら、そもそもこんな時間にまだ薄ら寝ぼけていることが愚かしいと言われそうだが。

「クローゼが、リオに何をって?」
「センゴクさんのこと。放っておくと生活を乱すから、たまに様子を見てやれって」
「なんで君に頼んでいるんだ、あいつは……」
「さあ?多分、私がよくこの家に上がりこむからじゃない?」

おそらく、少し違うだろう。適当な椅子に腰かけながら言った彼女には頷きながら、内心でクローゼにしてやられた心地になった。そこまで深い付き合いではないが、この町に来てから何かと接している相手だ。皮肉屋だが心配性で、意外と勘がいい。有耶無耶なところをそれとなく突いてくるというのか、彼には俺が、彼女の声が聞こえてしまったら無視はできないというこの心理をどことなく見透かされている気がしてならない。

「ま、お手柔らかに頼むよ」

向かい合うように腰かけ、そう頼めば、彼女もそうねと言って笑った。金の髪が流れて、頬についた手を隠す。可愛らしいというよりは綺麗だと称されそうな顔立ちの彼女だが、目を閉じて笑う顔は子供のようで、俺は自分でも気づかないような思考の深い場所で、そう感じられることにそっと安堵していた。

時々、不完全な感覚に陥ることがある。何が足りないと感じるのか、或いは持て余しているのかはっきりとしないが。彼女とはクローゼと同じか、近頃はそれ以上に言葉を交わすことが多くなって、俺はその感覚を頻繁に覚えるようになった。乾いた砂の罅割れるような、見えそうで見えない微かなもどかしさ。
懐かしさすら覚える気のする感覚だが、きっと別物だ。久方ぶりに若い女の子に懐かれて、扱いを思い出そうと少し模索しているだけだろう。そうでなくては困る。

「私、早いけど帰りますね。実はまだ、用事が色々終わってなくて」
「おや、そうだったのかい。それは頑張って」
「はい、また後で」
「あ、そういえば」

さして話らしい話もしないうちに、彼女は立ち上がった。だが、珍しいことではないので気にはしない。一人であの広い牧場を管理しているのだ。彼女は外で会ってもどこで会っても、慌ただしいときはある。

「何か、用事があったんじゃなかったのか?」

だからそれについては、別段構わないのだが。しかし訪ねてきたということは何かしら用があったのではないかと思い、引き止めると、彼女はその空色の目を瞬かせて。そうしてそれから、くすりと微笑って言った。

「それなら、とっくに済みましたよ。会いにきてみただけだから」

何かが、罅を裂いて流れ出した。なんだ、それなら、いいんだけどさ。思考が薄い膜に阻まれ、声がその向こう側で、勝手に当たり障りのない会話をする。内側の氾濫が煩くて、自分の声がよく聞こえない。だが、どうやら顔だけはいつもの調子で笑っていたらしい。彼女は俺の様子を気に留めることはなく、ええそれじゃあ、と残して髪を翻し、玄関を出ていった。

残された部屋で、俺はしばしその後ろ姿が消えていった戸を見つめ、やがて椅子から滑り落ちるようにずるずると脱力し、天井を仰いだ。声にならない笑いが漏れる。思わず目を瞑って片手を瞼に押し当てたが、何も変わらない。それどころか一層、最後に見た彼女の、幼いと思っていた彼女の、綺麗な笑顔が色濃く甦った。


過ぎた季節を引き摺っている。知らず花を踏む少年のように。空が冴えて蝉が鳴いて、それでも移ろいきれずに。

「……参ったね」

春を、引き摺っている。
ゆるりと開けた目の中に映る天井を見つめたままで、思わず呟けば。言葉とは裏腹にそれは柔らかな声となって、一人きりの部屋で溶け、己を辱めた。



靴底の春

(一瞬の隙が踏みつけてしまったもの)
▼追記

鍵の海 ※チハヒカ


その指を掴んで、言いたいことがたくさんあった。明かしたくないことが、たくさんあった。


「チハヤさん」

ばたばたと、雨の音が隙間なく聴覚を埋め尽くす。青い空も白い坂も同じ灰色に見える、天地が溶けるような昼下がりだった。酒場を出てちょうど仕立て屋の角を曲がって橋を目指そうとしていたところ、聞きなれた声に呼び止められた気がして傘を持ち上げ、振り返る。

「こんにちは」
「やあ、ヒカリか」

頭の中に浮かんだ手書きのような輪郭が、そこに立っていた想像通りの顔にぴたりと重なった。藤色の傘を肩に凭れさせて、小さな水溜りを避けながら傍へやってくる彼女を、何ということもなしに僕もその場で待つ。

「天気予報、当たりましたね」
「本当、面倒な天気だよね。ああ、君にはそうでもないんだっけ?」
「ええ、私は雨も嫌いじゃないです」
「違うよ、君の好みじゃなくて、牧場。ああいうのは、晴れだけでも良くないんでしょ」
「あ、それもそうですね」

聴覚が、彼女の声に隙間を開ける。どちらからともなく並んで歩き出した、その右側だけ、雨音が音量を下げた気がした。相変わらずだね。的外れなような、今となっては慣れたような彼女の返答にそう返せば、当の本人は何のことだかすぐには思い当たらないらしい。首を傾げられたから、何でもないよと笑って空を見上げた。透明な傘を通して見えるそれは、やはり灰色で。視線の真上、その透明を真っ直ぐに落ちてきた滴が叩いた。

「透明な傘もいいですね」
「そう?」
「今のも気に入ってますけれど、そうやって雨が降ってくるのが見えるのも楽しそう」

ふと話しかけられて隣を見れば、こちらの傘から見える景色を覗くようにしていた、苺色の眸と重なった。存外近い距離にその瞬きがいつになくゆっくりと見えて、わずかに身を離す。雨音が、その存在を忘れかけていた右耳に戻ってきた。

「そういえばさ」
「はい?」
「君、どこ行くの?帰り?」

雨に波立つ川面を視界の端に映しながら、それとなく話を変える。この道は彼女の牧場へ、さらに先へ行けば僕の家へも繋がっている。どこへ行っていたのかは知らないが、出かけるところというよりは戻るところだろうなと思った。額の裏に、彼女の牧場が浮かぶ。絵画のように鮮やかながらぼんやりとしたそれは、晴れの記憶だった。

「はい、雑貨屋さんの帰りなんです。チハヤさんは?そういえば、こんな時間に町で会うのは珍しいですよね」
「ハーパーさんに用があったから酒場に行ってたんだ。僕も帰り……、あ」
「……雨、強くなりましたね」
「そうだね」

ざあっと、急に勢いを増した雨に遮られて、声が届きにくくなる。雨粒が傘を伝って、もう一度降るように地面へ向かっていった。大きな滴が、間で弾ける。橋を渡る足が二つ、一つずつ、会話に気を取られて浅い水溜りを踏んだ。

「この坂、雨だと滑るんですよね」
「転ばないでよ」
「平気ですよ。……あの、チハヤさん」
「何?」
「もし、良かったら」

打ちつけるような雨の音に消されないよう、短い言葉で会話を結ぶ。細い坂道が近づいてくるのを横目に隣を歩く人を見れば、彼女はほんの一瞬、息を止めたように見えて。それからこちらを向いて、何事もなかったかのように言った。


「雨宿り、していきませんか」


真っ直ぐな眼差しに、声が雹のように固まり、言葉を成さなくなる。ああ、と思考さえ何だか纏まりにくい頭でただ思って、灰色の雨の一枚向こうの双眸を見つめた。

君は、知らないかもしれないが。僕にはいつだってその指を掴んで、言いたいことがたくさんあった。明かしたくないことが、たくさんあった。ぞんざいにあしらっているようで、本当は一度だって、君を拒絶したことはないこと。傍にいると、世界の半分が君で埋まること。それを、本当は少し、心のどこかで望んでいること。
言葉にすればこればかりは裏腹にするわけにもいかなくて、僕は彼女と話すたび、秘密が増えていく。渡せなかった鍵ばかりが、僕の裏側を圧迫する。

「……雨が、止まなかったらね」

いっそ言葉を介すこともなく、この胸を切り開いて。未だ曖昧な感情をすべて、勝手に名づけて解き明かしてもらえたらいいのに。なんて、ささやかな願いを抱えてみては、もうとっくに自分に呆れているのだ。
ここへ来て、どこで、などという質問もない。口に出した条件は馬鹿馬鹿しいほど意味を持たなくて、僕は徐々に見えてきた牧場を見つめながら、どくりと一度高鳴った心臓を一人、持て余した。



鍵の海

(好きだよ、嘘で言えないほど)

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