過ぎた季節を引き摺っている。知らず花を踏む少年のように。
「センゴクさん、起きてる?」
部屋の端に積み上げた厚薄様々の本の山を、日夜崩している。正確には本棚に入りきらないあらゆる種類の本を、手にしては横へやって頭に浮かんだ本を探している。そうしてようやく目的の本を見つけ出しては、片手に持っていた読みかけの本を新たな山の上へ積み、また埋もれさせては探し出して、その繰り返しだ。
そうして今日も、起き抜けに思い立った本をようやく見つけて表紙を確認したときだった。戸の向こうから、よく知った声が張り上げられたのは。
「はいはい、起きてるよ。ちょっと待って」
本当は、まだ少し頭が回っていないけれど。そんな余計な一言を心中に押し留めつつ、しゃがみこんでいた体を起こして玄関へ向かった。声の主は予想がついている。こんな時間に早いな、と思ったのだが、時計を見れば存外昼の手前とでもいうくらいの時刻だった。自分の朝が遅かっただけか、と今更ながらにそんなことを知りながら、見つけ出した本を通りすがりの机に載せて戸を開ける。日頃なら入ってよ、と適当に招くのだが、簡易なものとはいえ眠るときは鍵をかけているので、起きて一番となるとそうもいかないのだ。
「や、おはようリオちゃん。悪いね、開いてなかっただろ」
「おはようございます。寝てるのかと思って大声出しちゃったけど……」
予想を裏切らない姿に、内心で今日も変わりないなと曖昧なことを思いながら待たせたことを暗に詫びれば、彼女は挨拶をした後で俺のことを頭から爪先まで眺めた。何だどうしたと思ったが、起きてたんですね、と続けられた言葉に納得する。彼女とは外で会うことがほとんどであるが、この家を訪れることも最近では珍しくない。何度か寝過ごした朝に当たって、後から今朝は寝坊していたでしょうと図星をつかれたこともある。
「ひどいな、おっちゃんだって普段はちゃんと起きてるんだよ。外に出なかっただけで」
「また本を探してたんですか?」
「違う、本を読んでたの。あくまで、読むためにちょっと探すんだよ。まあいいや、上がるかい?」
物言いは若く悪戯っぽいが、律儀なところのある子だ。仕事の邪魔にならなければ、といつものように答えた彼女を、別に仕事中じゃあないと中へ招く。この家の引き戸を、慣れた手つきで彼女が閉めるからからという音が好きだ。風情とはまた明らかに違ったものだが、どう言い表すべきか、悪くないものだと思う。
「それにしても、リオちゃん」
「はい?」
「おっちゃんが、本当に寝ていたらどうしてくれるんだい。あんな大声で呼ばれたら、さすがに目が覚めると思うんだけど」
彼女を迎えるとき、わずかに見えた外の空気は眩しかった。足元に入り込んだ日差しは戸を閉められて細くなり、遮られたが、それでも部屋の中に溶けて残っているような、そんな気がする。金の粉を散らすような、眩しさを密集させた光だ。季節の変化はいつの間にか過ぎているものというが、本当にそうだと思う。
「それならそれでいいと思って。というか、いっそ起こすつもりで呼びました」
「はは、ひどいなぁ。おっちゃんは昨夜、遅くまで眠れなかったのに」
「昨夜に限らず、センゴクさんはいつものことじゃない。最近、どんどん外で見かける時間遅くなってるんだもの。それに、クローゼさんにも頼まれてるし」
「は?」
思わぬところで知人の名が出て、それと同時に彼のしかめ面と独特の、よく言えば個性的な物言いと真面目な横顔が浮かび、我ながら間の抜けた声が出た。眠りの余韻の抜けきっていない頭に、あの薬草のようなつんとした様子を思い浮かべることはなかなかの衝撃だ。本人に言ったら、そもそもこんな時間にまだ薄ら寝ぼけていることが愚かしいと言われそうだが。
「クローゼが、リオに何をって?」
「センゴクさんのこと。放っておくと生活を乱すから、たまに様子を見てやれって」
「なんで君に頼んでいるんだ、あいつは……」
「さあ?多分、私がよくこの家に上がりこむからじゃない?」
おそらく、少し違うだろう。適当な椅子に腰かけながら言った彼女には頷きながら、内心でクローゼにしてやられた心地になった。そこまで深い付き合いではないが、この町に来てから何かと接している相手だ。皮肉屋だが心配性で、意外と勘がいい。有耶無耶なところをそれとなく突いてくるというのか、彼には俺が、彼女の声が聞こえてしまったら無視はできないというこの心理をどことなく見透かされている気がしてならない。
「ま、お手柔らかに頼むよ」
向かい合うように腰かけ、そう頼めば、彼女もそうねと言って笑った。金の髪が流れて、頬についた手を隠す。可愛らしいというよりは綺麗だと称されそうな顔立ちの彼女だが、目を閉じて笑う顔は子供のようで、俺は自分でも気づかないような思考の深い場所で、そう感じられることにそっと安堵していた。
時々、不完全な感覚に陥ることがある。何が足りないと感じるのか、或いは持て余しているのかはっきりとしないが。彼女とはクローゼと同じか、近頃はそれ以上に言葉を交わすことが多くなって、俺はその感覚を頻繁に覚えるようになった。乾いた砂の罅割れるような、見えそうで見えない微かなもどかしさ。
懐かしさすら覚える気のする感覚だが、きっと別物だ。久方ぶりに若い女の子に懐かれて、扱いを思い出そうと少し模索しているだけだろう。そうでなくては困る。
「私、早いけど帰りますね。実はまだ、用事が色々終わってなくて」
「おや、そうだったのかい。それは頑張って」
「はい、また後で」
「あ、そういえば」
さして話らしい話もしないうちに、彼女は立ち上がった。だが、珍しいことではないので気にはしない。一人であの広い牧場を管理しているのだ。彼女は外で会ってもどこで会っても、慌ただしいときはある。
「何か、用事があったんじゃなかったのか?」
だからそれについては、別段構わないのだが。しかし訪ねてきたということは何かしら用があったのではないかと思い、引き止めると、彼女はその空色の目を瞬かせて。そうしてそれから、くすりと微笑って言った。
「それなら、とっくに済みましたよ。会いにきてみただけだから」
何かが、罅を裂いて流れ出した。なんだ、それなら、いいんだけどさ。思考が薄い膜に阻まれ、声がその向こう側で、勝手に当たり障りのない会話をする。内側の氾濫が煩くて、自分の声がよく聞こえない。だが、どうやら顔だけはいつもの調子で笑っていたらしい。彼女は俺の様子を気に留めることはなく、ええそれじゃあ、と残して髪を翻し、玄関を出ていった。
残された部屋で、俺はしばしその後ろ姿が消えていった戸を見つめ、やがて椅子から滑り落ちるようにずるずると脱力し、天井を仰いだ。声にならない笑いが漏れる。思わず目を瞑って片手を瞼に押し当てたが、何も変わらない。それどころか一層、最後に見た彼女の、幼いと思っていた彼女の、綺麗な笑顔が色濃く甦った。
過ぎた季節を引き摺っている。知らず花を踏む少年のように。空が冴えて蝉が鳴いて、それでも移ろいきれずに。
「……参ったね」
春を、引き摺っている。
ゆるりと開けた目の中に映る天井を見つめたままで、思わず呟けば。言葉とは裏腹にそれは柔らかな声となって、一人きりの部屋で溶け、己を辱めた。
靴底の春
(一瞬の隙が踏みつけてしまったもの)