遠い思い出の話をしよう。微睡みの中に浮かんだ水泡のような。

「初めまして、神さまですか?」
 久方ぶりの長い、長い眠りだった。瞼が開いたとき、ここがどこで、今が一体どれくらいの時間の経った世界なのか、察するまでに時間を要したほどの。
 そして我(わたし)の眼前には、一人の少女が立っていた。みどりから黒へ変わるわずかの間の、無花果のような髪の色。嬰児から玄冬へ。そのわずかを象徴する、朱夏のごとき赤い眸。
 小首を傾げて訊ねた少女に、人を問うときはまず己を名乗れと言いかけたが、声にするよりも早く、少女の唇から「ヒカリといいます」と挨拶がこぼれた。
 そうか、と言った。名は答えなかったが、少女もそれを訊ねはしなかった。後の話はすべて、女神が間を持った。少女は、神の座の端に立って雲海を眺めていた。ゆらゆらとそよぐ草のように背中を揺らして、自分のすべきことは終わったとでもいうようにぼんやりと。
 鐘が、鳴り響いた。

 それからというもの、少女は頻繁に神の座へやってくるようになった。雲と岩以外なにもない場所だ。何が気に入ったのか、散歩の道のりを決めている猫のように何かといえば立ち寄り、何もなくても登ってきては、雲より高い階段で足を滑らせたりする。
 そのたび、二度と来なくなるだろうと思うのにまたやってくる。これは何だろうか、と何度となしに考えて、嗚呼そうかと思い出した。そういえば、古来より、人間とは神に逢おうとするただ一つの生き物であったな、と。
「神さま」
「うむ、息災か」
「はい。おかげさまで」
 気づいてしまえば何ということはない。我は少女の存在に疑問を持たなくなった。息災か。その質問は、昨日の今頃にもしたのと同じだ。まばたきほどの時間のあいだに、何が変わることもないだろう、と思う。でも、そのまばたきほどの時間を、人間の言葉では一日といい、少女にとって昨日と今日はまったく別の様相をした時間である。
「神さま、お腹すいてませんか?」
「我は空腹を感じたことはないが」
「わあ、そうなんですね。どうりで、ここにはお食事のテーブルも椅子もないと思ってたんです」
「それは、祭壇のことか?」
「ああ、そうかもしれません。あの、パンを焼いてきたんですよ。林檎のジャムと、サラダもどうかなと思って」
 空腹は別に感じていないと、たった今告げた気がするのだが。そうは思ったものの、我はそれもすぐに答えを見つけた。嗚呼そうか、供物か、と。
 ここしばらくは我の姿を見る人間など現れなかったので、何かを持ってこられることもなくなっていたが。昔は珍しいことでもなかった。人間が食物を差し出して、にこにこと満足そうにしているのは。
 断る理由も別段ない。空腹という感覚もないが、食べたらいけないということもなかった。バスケットからパンを取り出し、琥珀色のジャムを載せて「はい」と差し伸べた少女を見て、ふと思う。
 この人間の名は、何だったか。
 固有の名前を最初に名乗っていた気がするのに、忘れてしまった。もう来ることもないと思っていた――というか、それすら考えていなかった――ために。自分の中で把握できていないことがある事実に気づくと、それは狭くて暗い穴のように、胸の奥に空白を作った。風が吹き抜けてくる。少女の名前が、その穴を埋められる。
 欲しいな、と思った。
「訊ねたいことがある」
「はい」
「名は何といった?」
 少女はぽかん、とした。多分、我の初めて見る人間の顔だった。あれは悲しみだったのかもしれない。あるいは、怒り、の生まれる前の一瞬。
「ヒカリです」
「そうか」
 しかし、名はすぐに差し出された。そのことに、我も疑問を持たなかった。少女の名を把握し、少女の持ってきたものをいくらか食べ――少女の徒然と語る下界の話で、永遠のなかの刹那の暇を潰した。
 そういう日が、やがて日常と名を変えた。いつしか少女の名を迷うことはなくなり、ヒカリは毎日のように神の座を訪れるようになり、毎日のように供物を並べ、時には共食を交わした。

 そんな日々の中で、喉元を砂が過ぎるような小さな違和感を何度か繰り返して、あるときふと、分からなくなった。下界の平穏はとっくに約束してやった。ならば今、ヒカリは何を求めてここにいるのかと。
「貴様、何を望んでいる?」
 前触れも、一つ二つの挨拶もなしに。いつものように訪ねてきたヒカリを見据えて訊ねると、驚いたように目を瞬かせる。
「言ってみるがいい。何を求めて、我にこうして時を捧げている? 一人の人間としては、もう十分すぎるほど貴様は祈った。叶えられるものならば、望みを聞いてやろう」
 朱夏、と思ったその眸に、今は本当の夏の光が鋭く射し込んで、芯まで焼き尽くさんとしている。季節がいくつも巡っていた。その間、ほとんど毎日といっていい頻度で、ヒカリはやって来ている。
 もう、その祈りは果たされるべきだろう。
 そう思ったとき、じゃあ、と小さな声が零れて、震える唇が一思いに開かれた。
「私と、結婚してくれませんか?」
 多分、相当に唖然としただろうと思う。頬を赤らめて、バスケットを両腕で抱えて、今にも泣き出しそうな顔で言い放ったヒカリを見て――我はこのとき、初めて知ったのだ。
 恋をだとか、愛をだとか、そんな後々に芽生えるものをではない。
 祈りも供物も言葉も、捧げられるばかりだった我が人間から「与える」ことを求められた、初めての瞬間だった。
 まさしくこのときを境に、息をするようにこれまでのヒカリの行動に込められた意味が分かるようになった。水門が開かれたように、滞っていた理解が胸に叩きつける。愛していると、幾重にも折り重なっていた声なき声が、ようやくこの身の内側を駆け抜け、耳に届いた。
「あなたが、好きなんです」
 求められるままに。
 手を伸ばして応えたら、どんな顔をするのだろうと知りたくなった。他にも、例えばもっと、何か言葉を返したら、その肩を引き寄せたら。
 与えることを知った世界には、未知の空白が溢れていた。ひとまずその一つを埋めようと手を伸ばした――その指先から永遠が芽吹くなど、まだ露ほども思わずに。

 遠い思い出の話をしよう。微睡みの中に浮かんだ水泡のような。



褪せない朱夏を抱いている

(彼女が我に求めたのは、後にも先にもその一度きり)