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ヒライテ ※マリミノ

 貴女は知らないだろうけれど、私は、本当は虫なのだ。


 ギルドの奥に備えられた診療所で、回転イスをキィキィ回しながら、今日も今日とてカルテを眺めて、薬の発注を決める。
 アンジェラが昼の休みを取りに席を外すこの時間帯、白いカーテンで仕切られた室内は一層静かになるようだ。透明な薬の瓶、その底に沈んでしまったみたいに、張り詰めた静寂が自然と息を潜めさせる。コチコチと進む秒針の音、長針が一回りするまでにはあと三十分くらい。
 ふう、と凝った肩を回して、水でも飲もうかしらと立ち上がったとき、カーテンの向こうからノックの音が聞こえた。

「ベロニカ?」

 町長かと思って、そう声をかける。しかし、返ってきた声は別のものだった。

「すみません、ミノリです。今、入ってもいいですか?」
「ああ、貴女ね。いいわよ、どうしたの」
「お邪魔します……」

 カーテンの奥から現れたのは、自分で名乗った通り、紅茶色の髪を後ろで束ねた少女だった。仕事柄この診療所にも時々顔を覗かせるけれど、基本的には元気でいい子。若さに任せた無茶もしない、珍しいお客さんの登場に思わず手招きをする。
 すみませんアンジェラさんのいないときに、と言いながら、歩いてきて、彼女はうっと顔を顰めた。

「どうしたの、どこか痛い?」
「あの、実は背中が」
「背中?」
「さっき、怪我をしたみたいで」
「……ええ?」

 呆気に取られた声が出てしまい、自分の口を塞ぐ。後ろに回ってみると、ワンピースの生地が少し、擦り切れたようになっていた。

「背中って、何をしたのよ」
「動物小屋の前の、柵を直そうとしていたんですけれど、ずっとしゃがんでいて、立ち上がったときにその角で引っかいてしまって」
「あらあ……」
「そんなに大きな傷じゃないけど、自分では治療ができない場所なんです。それで、ここに」

 ばつが悪そうに、彼女は眉を下げて説明した。牧場の仕事に怪我は付き物だ。もっとも、こういううっかりが原因の怪我は、彼女にしては珍しいけれど。

「いいのよ、それで。こういうときは躊躇わず、あたしのところに来なさい。そのための医者なんだから」
「マリアンさん……」
「ほら、泣きそうな顔しないの。相変わらず、血見るとダメねえ?」
「すみません、情けないです」
「とりあえず、傷を診るから。上緩めて、そこにうつぶせになってちょうだい」

 へ、と彼女は首を傾げた。そこ、とさした私の指の先にある、アンジェラが几帳面に整えている真っ白なベッドを見つめて、不思議そうな顔をする。
 その反応に、思わずふっと素の苦笑が出た。指先でとんと、彼女の鎖骨の間にある小さな窪みをつつく。

「あたしは構わないけどね? 年頃の乙女が、なんの壁もなく肌を晒すのは抵抗があるかしらと思って、これでも気を遣ったんだけど」
「っ、!」

 途端、きょとんとしたかと思いきや、頬に広がる紅色。意味するところが伝わったようで何より、と笑ってしまう。
 医療に必要な一通りの道具は揃っているけれど、あくまでギルドの奥の部屋を改造した、狭い診療所だ。私に背中を向けるとなれば、入り口に、前を向けないとならない。誰かが入ってきても可哀想だし、それに、問題は何よりも。

「ね、寝ました」
「はいはい、診るわよ」

 うっかり振り向かれたりしたら、案外私が一番、どうにかなりそうだったりして、なんて。
 冗談めかして考えてみても、洒落というには現実味の見え隠れする想像だ。視線を向けたベッドに横たわる、白い背中。悪意がないから、この肌に傷をつけることが許されたのだと思うと、杭だか柵だか知らないが木の一切れにふつりと胸が揺らぐ。

「髪、どかすわね」

 断って、緩やかに束ねられた髪をよける。室内が少し寒いのか、剥き出しの肩から腕にかけて薄く鳥肌が立っていた。花茎のようにすうっと筋を引いた、しなやかな背骨。その上部、肩甲骨の間に、痛々しい傷が走っている。
 幸い、自分でも言っていた通り、そんなに大きな傷ではない。
 ガーゼと消毒、と棚から一通りのものを持ってきて、ひたりと当てると、静かだった彼女が小さく身を跳ねさせた。

「っと……! 動いたら危ないわよ、すぐ終わるから」
「す、すみません」
「ごめんなさいね、最初だけ沁みるわよね。でも、もう終わり」
「本当ですか……」
「本当よォ、あたしが貴女を騙したことなんてあるかしら? ないでしょ? だから、安心して」

 傷口をガーゼで覆いながら、無意識に吐き出した言葉に、おやと自嘲する。ずいぶんとまた、綺麗に隠したものだ。
 赤々と口を開けそうになっている、醜い本心を。彼女に見えそうで見えない、この心を。隠して、潜めることに慣れてきて、もうずいぶん経つ。
 はい、と頷く声に滲む、かすかな甘え。見た目よりしっかりしていて、大抵のことは自分でこなすこの少女が、私と交わす声に幼さを覗かせるようになるまで、結構な時間がかかった。
 ほらもう大丈夫よ、と治療の終わった傷口に、ガーゼの上から手を当てて。消毒の匂いがついちゃうかしら、と思いながら、肩に服を上げてやる。自分で着ます、と慌てたように起き上がりながらも、彼女は抵抗しない。甘やかされるがままに、私に甘えて、眉を下げて笑う。
 ぞくりと、伸びかけた手を寸でのところで律した。

「……本当に、可愛いわねえ」
「え?」
「何でもないわよ。それより、難しいかもしれないけど、お風呂ではできるだけ濡らさないようにね。濡れちゃったら、また貼り直すから来てちょうだい。そのままにはしないこと」
「はい」
「ああ、あと」

 ワンピースをきっちりと着込んだ彼女が、椅子に腰かける。カルテをつけて、ふと時計を見やり、私はつけ加えた。

「最近、お昼の前後は結構混んでてね。もし来るなら、また今日と同じくらいの時間にきてもらえると、ちょうど空いてると思うわ」

 ああ、秒針がコチリと、密やかに鳴っている。

 貴女は知らないだろうけれど、私は、本当は虫なのだ。貴女と同じ、花のふりをした、花を貪る虫。
 雨に風に、傷つきやすいその身を労わる顔をして、甘やかして、委ねさせて、いつか綻ぶときを待っている。安堵に、貴女が溶けていくのを見守っている。食べたいのは、真っ白な肌の下の、私に絆されたその心。
 さあ、そろそろ。



ヒライテ

(もう一息で、頃合いでしょう?)

梔子髑髏 ※魔法魔女・苦甘


私が灰になるとして、貴方は泣くだろうか、微笑むだろうか。
貴方が花を抱くとして、私は嘆くだろうか、羨むだろうか。


「ねえ、」
「……何」
「……手。引いてほしい」

その低く、それでいて冷たさでなく温さを感じさせる手のひらの力が。想像よりも強いと思い知るとき、私は揺籃にあやされたように大人しくなれる。ヒステリイを、起こす理由が奪われるからだ。つまるところ、貴方の手が私の手を引いて、重力に倒れ込むこの身体を渋々受け入れる。その一連の尊いような面倒くさいような証明に、私の心は満たされるのだ。

「……どういう、風の吹き回し」
「何か問題あるの?」
「……それは……ないかな」
「じゃあ、いいじゃない」

少し、黙って。先の願いよりずっと躊躇いなどなく口にできるそれを、敢えて口には出さずに伝えるのが好きだ。目や、手や、呼吸に心音。私たちは声を失ったとしても、まだ有り余るほど色々なものを持っていると思う。今はその中から、腕と、体温を。ベッドに腰かけた彼の背にぎゅっと両腕を回し、胸の辺りに耳を押しつけた。淡々と、鼓動の音がする。今更取れない珈琲の香りが、五感を囲んだ気がした。

「……」
「……」

彼は、私より若い。
見かけには逆と言ってもいいと思うし、実質私たちにとっては大した差でもなく思えるのだが、事実は事実だ。心臓の音を直接確かめるときだけ、それを思い出す。何故かは分からない。心音に、さしたる違いもない。ただ、強いて言うならば私のほうが、少しだけ先に朽ちるだろう。そんな予感を、送り込まれるというのか。

―――愛を、かけがえのない、だなんて人は言うけれど。
それは愛が、その精神が、肉体の消滅に著しく追いつけないからだ。心の時がその命の期間に対してあまりにゆっくりと進むから、人は愛を美しく語ったり、愚かだと馬鹿にしていたつもりでも真実の愛とやらに出会ったりできるのだと思う。愛が変質を遂げる前に、その肉体が死んで、意識が消えて。二人がいなくなった後には、彼らの遺した家族や痕跡が、今となっては汚れようのない愛の遺産となって残る。ああ、本当に。

「ねえ、貴方は」
「……ん?」
「アタシが先にいなくなったら、なんて言う?」

羨ましい。残酷なほどに、綺麗で羨ましい。ぎ、といつの間にか彼の心臓の真上を掴むように服を握っていた手が、硬く震えた。有り余る時間は時として、ようやく実ったものを腐らせる。出会い、長い時間をかけて知り合い、友になり。貴方が恋人になったとき、私は人にしてもう何度目の生涯を終える頃か分からなかったけれど、ようやくこの世に実体を降ろしたような気持ちになった。
それこそが、愛だったのだ。それだけで良かったのに。
震える手で尚も服を掴み続ける私に、彼は少し考えてから、静かな声で言った。

「―――良かった。……そう言うよ」
「……」
「……君が、先に眠ってくれたら。独りにしないで済む」

穏やかで、迷いのない答えだった。まるで心のどこかで、元々そう語ることを決めていたような。涙が、溢れると思わせて流れない。私もどこかで、この返事を分かっていた。

「そう。……じゃあ、お願い」
「何?」
「もし、万が一。あんたが私より先に終わりそうだと思ったら―――」

春の、日差しのような。祝福の果実のような。天上の音楽のような。愛が、ボコボコと音を立てて変質する。幸福な愛情の、その先へ。恋が愛に変わったのとちょうど同じくらいの時間を経て、傷むときがやってきたのだ。この先にある感情を、私はなんと呼んだらいい。人間ばかりが生きるこの世界には、その名前を教えてくれる本はない。


「そのときは、精々優しくしてね」


囁きながら、褐色の手を首へかけて、願った。

私が灰になるとして、貴方は泣くだろうか、微笑むだろうか。
貴方が花を抱くとして、私は嘆くだろうか、羨むだろうか。
未開の時を生きている私たちには、それさえも憶測がつかない。愛の成れの果てを抱えて、ただひたすらに、その瞬間までを模索するほかにないのだ。



梔子髑髏

(焦がれ爛れて声もなし)

▼追記

朧に満ちる ※アレユリ


温い水の中に引き込まれていくようだ。両足を浸して動けずにいる。



「で、どういうのがご希望だ?」

使い慣れた銀の鋏を、手のひらでくるりと回す。鏡に映った俺はそうして、同じく鏡に映った目の前の女の赤髪を見つめながら訊ねた。体温の馴染んだ鋏は金属だというのにどこか柔らかく、握っていると今なら何だってしてやれるという気分になる。だが、そんな俺をいっそ不思議なものでも見るような目で見つめて、大きな椅子に座らされた小柄な女は数秒あってから口を開いた。

「……どうって、言われても……」
「ん?何だ、俺様の腕を疑ってるのか?」
「違う。……そうじゃなくて」
「じゃあ何だ?」
「……そもそも、考えつかない。……突然連れてこられても」

ああとかうんとか時折言葉を探すようにしながら答えた彼女に、俺はそういうことかと納得する。それと同時に、芯から力が抜けるような呆れも感じた。確かに、彼女を引っ張ってきたのは俺だ。道端でぼうっと突っ立っているところを見つけて、暇そうに見えたのでちょっと美容院に来いと声をかけた。黙っていたので肯定と取って連れてきたのだが、この女、どうやら思考を言葉にするのが少し鈍いらしい。
おかげで連れてきて椅子に座らせ、ユーリだったな、と名前を確認したところで初めて実はあまり乗り気でなかったと知った。だが、ここまで来たものは来たのだ。座ったのだから大人しくしろと早口に宥めて、今に至る。それに。

「そうは言うけどな。俺様は元々、お前のその切っただけみたいな髪形が気になって気になって仕方なかったんだ。せめてもう少し毛先を整えたほうがいい。自分でやったのか?」
「……あ、これは、前にいた街で。……誰にやってもらったかな?」
「……覚えてねえのかよ。ま、いい」
「?」
「どのみち一度俺様の手にかかれば、他の美容師なんて行く気もなくなるだろうからな」

かすかに首を傾げた彼女に頭を動かすんじゃないと忠告したら、存外に驚かせたのか傾いたまま動かなくなったので、それとなく真っ直ぐに戻す。そうして触れただけでも荒いカットで済まされているのが分かって、何だか静かになったままの彼女に、そんなだから雑にされるんじゃないのかとこちらが無性に苛立って困った。これはさすがに勝手な腹の立て方だと、冷静になろうと袖を巻くって気持ちを切り替える。鏡の中を見つめたら、ワインを零したような色の眸と間接的に目が合った。

「……」
「……何?」
「……え?あ、ああ、眼鏡外せよお前。切りにくいだろ」
「あ、はい……本当に切るんだ」
「当たり前だ。俺様は有言実行の男なんだよ」

かしゃんと、観念したように外された眼鏡の置かれる音が鋏を開く音と被って響いた。どうすると訊いても特に希望は思いつかないと返されたのがつい先ほどのこと、こんな女のことだ、きっと今もう一度訊いても何も考えついてなどいないだろうと判断して、勝手に切り始めることにした。さして長くもない髪だ。伸びた部分を切り過ぎないように、細かく鋏を動かしていくと白い床に赤い髪がはらはらと落ちる。

「……なあ、お前さ」
「……」
「なんでもっと髪に手をかけようと思わないんだ」
「……美容院、……髪の毛触られるの、あんまり得意じゃないし」
「……それを言うのが遅いんだよ」

言われてみれば確かに、ここに座ったときからやけに縮こまっているとは思っていたが。先に言われたらどうにか変わったのかと言われるときっと何も変わらなかった気もするが、それにしたってそういうことは最初に言えばよかったことで、今になって言わないでくれると有り難いことだ。とは言え、そんな話を聞いたからといってそうですかと中途半端に店から出すのは俺としてはあり得ない。妙な靄を吹っ切るようにため息をついて、居心地悪そうに落ち着かないままの彼女の、細い首に纏わりついている髪を掬っては揃えた。

「……」
「……」

何を考えているのか、つくづく読めない女だ。野良猫が様子を窺いでもするかのように緊張しているかと思えば、カットが本格的になってみると、鏡越しにその様子をじっと見つめていた。手元をそれほど見つめられることなどそうそうないもので、何となく調子が狂う。そんなに見て楽しいか。そんな一言さえ話しかけるのを躊躇って、ふと瞬きをしたら鏡の中、またふいに視線がかち合ってどうしてということもないのにこちらが先に逸らした。

「……楽しいの?」
「は?」
「……仕事、休みの日にまで、同じことしてるから。……趣味?」
「さあな。俺様だって、何でこんなことしてるのか分かんねえよ」
「……ふうん」

ふいをつくような問いかけに、何だか曖昧な返事を返す。それが自分で気に食わない。趣味かと言われたらどうなのかとは思うが、好きなことは好きだ。仕事として誇れるレベルだと自覚しているが、同時に髪に触れると遊びのような期待が高鳴る。答えははっきりしていたはずだ。イエスでもノーでも嘘ではなかった。それなのに、一体何が分からなくて分からないなどと。

(……どうかしてる)

彼女と話していると、まるで温い水の中に引き込まれていくようだ。手を握られているわけでも深い場所に進まされているわけでもないのに、両足を浸して動けずにいる。先に向かいたいのか、後に戻りたいのか、そのどちらでもないのか。それが分からないことが、俺の中で彼女に対する喜怒哀楽の邪魔をして、ひどく思考を浸水している。ああ、何だか。


「変なひと」


ぎしりと椅子を軋ませて背中を反らし、彼女は言った。ワインレッドが零れそうだ。ぐるりと覗き込んできた逆さまの眸に、世界が反転するような錯覚を起こして手を止める。感情の隙間を縫っていた温い水が、唐突に熱を持って、胸の奥を襲った。




朧に満ちる

(刻一刻と溺れるまでの呼吸)
▼追記

あいのうた ※神女

この想いに必要なのは、理解でもなければ譲歩でもない。ただそこに在ること、それだけなのだ。



「―――」

くらくらと光を反射して、薄い水面が揺れている。子供の足で歩いて渡れる深さの水に囲まれたようなその樹は、今日も変わらず蛍のような灯火を浮かべていた。

そっと、両手を組んで胸の前へ置く。互い違いに組まれた指の、年月を経た根のような形が好きだ。万物はどこかで繋がっていて、女神と名のついた私であっても作る指の形は人のそれと同じ。すべてが、大きな輪の中で存在を許されているのだと改めて思う。私も、その一部に過ぎないのだと。そして。

「……」

その私を遥かに凌ぐとされた力を持つ彼もまた、このあまりに大きく目に映らない理の中で生きているものの、ひとつなのだと。青空に向かって高く聳えた神の座を見上げ、思う。いつからどうしてなどということはまるで分からないが、私は私がこうして日に一回樹へ祈りを捧げる間、彼もまた太陽ではなく、この一本の樹に両手を組んでいることを知っていた。
なぜ知っているのか、と訊かれてもそれは分からない。知っているものは知っているのだ。人間の赤ん坊が生まれながらに泣き声を上げるように、その空気の取り込み方を知っているように、そしていつしか笑うということもし始めるように。私もまた、いつからともなく彼がそこにいることを知り、私の力は彼を補佐するためにあるのだということを悟り、悟ったことにさえ気がつかず自我を持って。そうしてその流れのひとつとして、彼が私と同じ時間、同じ祈りを同じ樹へと向けていることも知った。知っている、という事実に気づいたのは、ほんの数十年前のことだ。

「―――」

それくらい自然に、私は彼を知っている。そして彼もまた、私の多くを知っていることをまた、私は知っている。地上に立つ私と遥か高みで空を見上げている彼とでは、到底普通の方法で声を交し合うことなどないというのに。見ている景色はきっと別の世界のように違うし聴いている音も私のほうが何倍も多く、彼のほうが何倍も儚く。人の声、水車の音、鳥の声、風の音。すべてが違うはずなのに、私たちはまるでそれぞれの感覚を共有でもしているかのように、互いが何を感じているのかを意識するまでもなく知っている。
数ヶ月前、この樹の復活のために彼がここへ降り立ったとき。私はふと、その姿を見たのが初めてだと気づいた。だが、私は彼が赤い髪を編んでいることも白い衣を纏っていることも、金の腕輪をしていることもすべて知っていた。彼も、ちらと私を見た。紅い、あかい眸だった。それだけは私がいつからともなく知っていた彼よりも数段、神秘的であったけれども。

「……風が、心地よいですね」

特に大きな声を出すわけでもなく、呟く。意思の疎通と呼ぶことさえ躊躇われるような、純粋にこの五感のすべてが通じ合っているような感覚。私の膚の一片一片から、まるで樹が根を張るように見えない光の糸が伸びている。それは地面を流れ、彼方の海を辿り、大気の隙間を縫って。そうして彼へと続いている。そんな感覚だ。二つの身体はそうして繋がりを保っていて、私の言葉は時として私のものではない。私の中へ流れ込んだ、彼の意識によるものだ。そう、こんな澄んだ風を、私は知っているはずがない。

「―――」

ふ、とかすかな笑みが零れる。答えの返らなかった言葉は、宙にほどけてしっとりと暑い夏の風に漂った。光が、くらくらと金の髪飾りの上で跳ねている。それを映す水面には、ここから見ると今日も私の頭上に神の座が映る。
瞼を深く閉じたのが、どちらの意思なのかは分からなかった。ただ、今日はもう一度。この美しい世界に祈りを捧げたかった。それは、私も同じ。別々の場所にある身体の中から溶け出したこころが、大気中の水分を吸って、少しだけ感傷的にひたりと重なる。無のようですべてのような、この瞬間を愛おしいと思った。それが何に対する愛なのかと、問うのはあまりにおこがましいだろう。なぜなら私は、これが果たして私のこころであるのか、それを確かめる術を持たない。


この想いに必要なのは、理解でもなければ譲歩でもない。ただそこに在ること、それだけなのだ。存在しているという、それ以上でも以下でもない事実。それだけで、私はこの満たされた器を貴方と共有することもできるのだから。
息を吸って、瞼を開く。目に映るものは色を変えたわけでもないのに、涙を被った眸はすべてを瑞々しく映して、ささやかな私たちの祈りを祝福した。澄んだ風が、通り抜けていく。

「―――」

おもむろに一羽の鳥が、遠くの枝を揺らすのが見えた。貴方が大地に目を瞑る朝も、私が空に飽きてうずくまる夜も、貴方だけが私と共にあり、私だけが貴方の傍にある。




あいのうた

(触れない指に接吻けを)

▼追記

スフィアノート ※アカリ独白


だからこれは呼吸なのだ。誰のものかは分からない。



「……」

時計の針が静かに回るこの部屋で、こうして机に座るのはもう何度目だろうか。かちり、かちり。耳に流れ込むのは秒針の音と、窓の外を行く虫の声。それから水車の回る音。今夜はわりと風があるようだ。きっと外に出たら、波の音も聞こえる。

「……」

きしりと小さな椅子を引いて姿勢を正し、私は手元の日記帳を広げた。真新しい頁を探して、ぐるぐる回るような文字の渦を目でなぞっていく。決して特別に綺麗とは言えない癖のある文字だけれど、見慣れた自分のそれは捲っていけば使い始めの頃よりずいぶんと変化していた。柔らかくなったと言うべきか。くすりと無意識に込み上げた笑いを、ペンを持つ手にのせて白紙の頁に走らせる。

頭の底からわあっと、溢れ出すものがあった。嵐の夜と幸せな一日の夜、季節の変わった日。その晩。晴れた日の夜と雨の日の夜、月の満ちていた夜。それから今日のような、心静かな夜。たくさんの夜を、たくさんの日々を思い出しながら、この日記帳へ書き残して過ごした。この町へ来てから、毎晩ずっと。


小さな家の庭に種を植えたこと。それが芽を出したこと。やがて実になったこと。そんなことから始まって、動物を飼ったこと。それが成長して卵を生んだり、牛乳を出したりしたこと。見たことのない場所へ行ったこと。海と山が見えること。不思議な夢を見たこと。妖精に会ったこと。

「……」

楽しい毎日を、送っていること。友人ができたこと。特別かもしれない人に出会ったこと。町の人に評価されてきたこと。この町が好きになったこと。そして、もう一度妖精に会いに行ったこと。彼らの手伝いを引き受けようと、決めたこと。

不思議な呪文で一緒に手を上げて、虹をかけたこと。


「……」

さらさらと文字を並べながら、私はそんなたくさんのことを記した夜のことを思い出していた。外に持ち出したことはないのに、この日記帳はいつの頃からか土の匂いがする。私の牧場の匂いだ。日溜まりと蔓草を足して割って、海を混ぜた匂い。私の大切なこの町に愛される、幸せな牧場の匂い。


だからこれは呼吸なのだ。誰のものかは分からない。私のものかもしれないし、この町のものかもしれない。記された日々は私のものであって私だけのものでなく、けれども確かに私の大切なものなのだから。何とも難しいものだ。

「……さて、と」

ゆるやかな文字でまた一枚白紙を埋めて、私は日記帳を閉じた。そのままペンを机に放り出し、大きく腕を伸ばす。
今夜は月が細い。窓の外では相変わらず、水車が回っているようだ。明日もきっと、忙しい一日になることだろう。




スフィアノート

(愛すべき私の小さな世界)
▼追記
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