たぶん僕は待ちわびている。気づかないふりをしているだけで。

 オレンジジュースにバニラアイスを浮かべて、結露をなぞりながら十秒も待つと、ジュースに浸かったアイスのふちがうっすらと溶けてくる。重さに従って下へと落ち、ドレープのように幕を落とす。
 甘さも強いが酸味も強い、果汁百パーセントのオレンジ色が、ぼんやりととぼけた色になるころが。飲み頃だ、と彼女は言う。黒いストローに、化粧っ気のないとぼけた色の唇をつけて。
「おいっ、しーい……!」
 噛みしめるような声と共に、ざくざくと氷をかき混ぜる音が聞こえた。ストローで溶けたアイスを広げているのだろう。
 ああそう。無視するには大きすぎる独り言に、僕はふっくらと満月型に焼きあがったキッシュを切り分けながら、つれなく答えた。途端、ねえ、と不満そうな声が訴えかける。
「そんなに冷たくしなくてもいいじゃん、人恋しくて誰かと喋りたいときもあるんだってば」
「君はいつもでしょ。っていうか、ここに来なくても話し相手くらいいるでしょ、いっぱい」
「えー? せっかくお客さんしに来たんだよ。ちょっとくらいノってくれたって……」
「なに、お客さんするって。ままごとじゃないんだからさあ」
 第一ね、と。ナイフを横に返して一切れごとに取り分けながら、僕は片手を伸ばして、バットを引き寄せる。ショーケースにさらしても恥ずかしくない切り口に、チーズとトマト、カボチャが層を成している。
 牧場直送野菜のキッシュ――そう書かれた札を立てて、厨房に入ってきたキャシーに手渡した。
「酒場に来ておいて、オレンジジュースにアイスのせたいってわがまま言うようなのは、お客さんじゃなくて迷子っていうんだよ」
「むっぐ」
「まったく、話しかけるから角が一カ所欠けたじゃないか。これ、あげるからさ。静かに食べててくれない?」
 くだらないことばかり言う口に、振り返って、キッシュを一口押し込む。フォークごと咥えさせられたアカリは琥珀色の目を見開いたあとに、慌てて残りののった皿を受け取った。
 もぐもぐ、と動物みたいに急いで口を動かして、ごくんと飲み込む。
「あっぶないなあ! 落としたらどうすんのよ?」
「怒るのそっちなわけ?」
「当たり前でしょー? チハヤの料理が無駄になるのは絶対にやだ! ……あっコレ美味しい! 美味しいね?」
「……どうも。光栄だけど、材料作ったのは全部君なんだけど」
 膨れていた顔はどこへやら、目を輝かせて頬張りはじめた変わり身の早さに呆れて言えば、彼女はキッシュを見つめたまま「それとこれとは別なの」と答えた。そういうもんなの。なんとなく聞き返せば、そういうもんですと同じ答えが返ってくる。
 僕は「そう」と頷いた。それ以上は訊かなかった。
「自分で作るのと、誰かの作ってくれたごはん食べるのは違うんだって」
「別に料理できなくもないくせに」
「あー、うん。そうだチハヤ、今度なにかシーフードのレシピ教えてほしいなあ」
「シーフードって、海老とか貝でいいの? 魚?」
「海老がいい。……うーん、そうだよねえ。なんでかな、作らないわけじゃないんだけど」
 銀のフォークの先にキッシュをのせて、彼女は一瞬、考えるように間をあけた。沈黙にぱたりと、洗ったナイフの先から水が落ちる。
 シンクに、はぜるのを見下ろす僕の顔が映った。
「なんかねー、元気でる」
「は?」
「言ったじゃん。人恋しくなるときもあるんだって」
 細かくなった水滴のあいだで、藤色の眸が大きく瞬きをする。なにそれ。こぼれるように問えば、アカリは空になった皿をカウンターに返して、わけもなさげに笑った。
 カラン、と溶けた氷が回る。とぼけた色のオレンジジュースを、三日月形の唇が一思いに飲み干して、グラスを置く。
「――内緒」
 振り返った瞬間、かすかにバニラが香った。

 たぶん僕は待ちわびている。気づかないふりをしているだけで。
「……あっそ。振り向いて損した」
 胸の奥が、溶けたバニラに浸食されるのを。研ぎ澄まされていた色が曖昧になって、今より甘く、柔くなるのを。
(君に、汚されるのを)
 言葉と裏腹に思い浮かんだそんな心に笑えば、彼女は琥珀色の目を唖然とさせて、戸惑ったように瞬きをした。またね。空になったグラスを下げて、僕は背中を向ける。
 シンクに映った顔は、そこはかとなく楽しげで、子供っぽかった。