透明な箱に時間を閉じ込めて、くるり揺らめく日々の中に浮かべた。
「魔法使いさん」
ぱらぱらとページを捲る音、時折窓から入り込む風の匂い。
その中でかたりと椅子を引いた彼女は、読みかけの本を片手にこちらへ足を進める。
「何を探してるんですか」
「…この間、ヒカリと見たやつ」
「ああ、あれなら確か…」
本棚の前で縦にも横にも積み上げられた本を前に考え込んでいた俺の傍まで来ると、彼女は思い出したように頷いて左の端を探し始めた。
中途半端なページを押さえるヒカリに適当な栞を一枚渡して、俺も彼女の視線が追う辺りを探してみる。
「あ、これ」
ふいに弾んだ声を上げて、ヒカリは一冊の背表紙に手をかけた。はい、と渡されたそれは確かに探していた通りのもので、礼を言って受け取る。
近頃、こんなことが増えた。
「…よく覚えてるね」
「ふふ、これだけ毎日見ていれば」
「…ありがとう、助かる…」
「そんな、私こそ、いつも好きに読ませてもらっちゃって…」
くすり、此処にある本はどれも素敵ですねと。はにかむように笑って言った彼女とまたテーブルに戻りながら、二杯目のコーヒーと昨日の本の話をする。
この本棚から椅子までの短い距離にあるいつもの会話と、床を切る光。
今日も、変わらないそれらすべて。
くらりと窓を突き抜けた日射しも、古びたテーブルに並ぶマグカップも、向かい合った彼女の美味しいですねと言って揺れた髪も。
すべて、空気のようにいつの間にか此処に生まれた、時間。
「あ、魔法使いさん」
「?」
「今度また、私の好きな本も持ってきますね」
「…楽しみに、してる」
「はい」
たった一人に彩られていく、静かな流れの中で。
出会って過ごして話して、想って、呼吸を知った。
「…ヒカリの好きな本って?」
「まだ秘密です〜」
でもきっと気に入ってもらえると思うんですよ、と。楽しそうに笑った彼女の指の先で、銀のスプーンに積まれた角砂糖がふたつ、カップの中に落ちていく。
溶けて見えなくなる。
ああ、まるで。
透明な箱に時間を閉じ込めて、くるり揺らめく日々の中に浮かべた。
そうして揺られながら、いつの間にか手を取るのだ。当たり前のように。
CUBE
(意味などない不可視の安定に溶けて、微睡む)
2009-9-26 05:53
そう、例えば聳える塔の一番上に貴方がいるとして、ならば私はどこにいたのだろう。
「……」
かつかつと靴底が坂道を叩く。職場から家までの長い道は、まだ半ばにも差し掛からない。
すっかり暗くなった足元にそれでもぼんやりと伸びる影を見下ろして、ジュリは一人ため息ともつかない息を零すと、町の灯りに歩調を速めた。夕食がまだだったことを思い出して、自然と酒場に目が行く。
どうしようか、考えているうちにも曲がり角へ来てしまい、結局酒場への道を曲がった。微かに漏れる誰かの声が、どこか明るい。と。
「!」
通りすがりの窓の向こうで、蒼が揺れた。思わず振り返れば編みかけの毛糸を片手に固まってこちらを見つめる、深い色の双眸と目が合って。
数秒の沈黙の後、こつんと窓を叩いて手を振れば、硝子越しのコトミは焦ったように窓を開けた。
鍵の開く音に思わず立ち止まって、どうしたのよと平静を装う。
「ジュリ、ちゃん」
「久しぶりネ。…元気にしてる?」
「あ、えっと……うん」
「……」
「……」
咄嗟に呼び止めたらしい彼女は、けれどもいつもと変わらず言葉少なだった。少しだけ何か用があると言われることを期待していた自分に気づかないふりをして、くすり、笑ってみせる。
沈黙のナイフには、もう慣れているから。
「…無理に開けなくてもよかったのヨ?」
「え…っ、違」
「アタシ、アルモニカに行くところだから。それじゃあ、ね」
「あ…」
「?」
立ち止まれば押し黙り、背を向けようとすれば呼び止めて。そうしてまたそれを、無視できずに。
出しかけた足を引き戻すように窓の前から帰れないでいると、物言いたげに呼び止めた張本人はまたもやおずおずと目だけを合わせた。
いつだってそうだ。優柔不断で小心者で臆病な彼女は、怯えた顔をしながら優しい言葉を選ぶから、苦しい。
変わらないわね、なんて。
懐かしさすら感じるのだから重症だなと思っていれば、やがて小さな声があれ、と。顔を上げれば首を傾げた彼女が目に入る。
長く編まれた蒼が、窓枠を越えてこちら側に落ちた。
「アルモニカって…ジュリちゃん…お酒、好きだった?」
「ああ、夕飯ヨ」
「え?まだなの?」
「たった今までお店にいたんだもの、まだヨ」
「そう…」
頷けば、彼女は何かを考えるように数秒沈黙して。けれどそこに今、息苦しさは感じない。
(追記へ続きます→)
2009-9-24 00:33
君を好きだと思う理由は、例えば足元に地面があることや空が青いことと同じもの。
「今日は星が多いですね」
いつもと同じ教会の前の、二つ並んだベンチの右側。少し錆びた背凭れに体を預ける俺の肩に凭れるようにして、靴を脱いだ彼女はベンチの上に足をふらふらさせながら空を見上げた。
「…うん、天気も良かったから…かな」
「ふふ、きっとそうですよ。昼間は暖かかったですし」
おかげで昨日の雨も乾いたと、笑い混じりに片手でベンチをなぞりながら、もう片方の手を伸ばしてヒカリは星を数えるように空を指す。
肩をくすぐる無花果色の髪は、彼女がそうして上を向く度、少し崩れてくしゃりと膨らんだ。
「数えきれませんね」
撫でるように手を伸ばせば振り返った彼女は、はにかむように肩を竦めて。
どうしたんですか、なんて聞くから少し考えてみたけれど、結局答えのない行動。正直に何でもないと答えれば、彼女は彼女で微笑うだけの、そんなこと。
ふわり、何となく目を合わせていられなくて、空を見上げた。
「ねえ魔法使いさん、」
「?」
「今夜は星も綺麗ですけど、月も綺麗ですね」
彼女の数えきれなかった星が、ばらばらと散る夜空。ふいに呟かれた言葉に同じく銀色の三日月を見て、俺もそうだねと答えた。今夜の空は絵本のようだ。
「魔法使いさん」
「…何?」
「お願いがあるんですけど、」
「?」
絵本のような、魔法は効かない零時の空。帰らなくてはならない彼女は、相変わらず靴も置き去りでふわふわと。
三日月を映していた眸を少しだけ悪戯っぽくこちらに向けて、言葉を続けた。
「今日は、夜更かしがしたいんです」
このまま月が眠るまで、星が消えるまで。
期待と遠慮を少しずつ滲ませた眼差しでそう言って、彼女はまた、答えを待つように目を背けた。俺は少し考えるようなふりをしてから、ベンチの端で冷えている手に、片手を重ねて。
(追記に続きます→)
2009-9-20 05:10
万華鏡の真ん中に立つ人のように、流れ落ちる時間へとただ目を凝らしている。
「…さて、それでは改めて」
ゆったりとした音楽とハーブの匂い、白を使い尽くしたような部屋で。
ウォンはようやく一段落した仕事を机の端にやり、口を開いた。
「なぜ君がここにいるのかね?」
にこやかだが僅かに苦笑とも取れる表情を浮かべて、ヒカリ、と。顔を上げた先にいる苺色の眼差しに、はっきりと聞いた。だが。
「インヤさんのお手伝いです!」
「それは先ほども聞いたよ。なぜインヤの手伝いをと聞いているんだ」
「ええと…私のお仕事は終わったので」
「……」
埒が明かない、とはこのことだろうか。ふわふわと微笑んでまたクリニックの掃除に取りかかった妻を目で追って、ウォンは密かにため息をついた。
夕方のクリニックに突然訪れた彼女が、白衣と箒を片手に先生、と久しい呼び方をした時は一体何事かと。
よくよく聞けば先のような理由だそうだが、アクティブにも程がある。それも今さらな意見ではあるが。
「先生〜」
「?」
「これはどうします?」
置きっぱなしのものたちを手早く片づけながら、そんなこちらの心境など気づきもせず彼女は首を傾げる。
「そのままでいいよ、それより君はもう帰りなさい」
「えっ」
「…そんなに驚かれると、悪者のような気分になるんだがね」
言葉をそのままに受けとる彼女は、やはりと言えばやはり、ショックを受けたような顔をした。お邪魔でしたかと言いかけた彼女に、そういうわけではないと、それだけははっきり言っておく。
じゃあどうしてと言いたげな目に、数秒戦って押し負けた。ああ、これだから本当に。
「…君はもう少し、言葉の裏を理解してくれないと困る」
「ご、ごめんなさい」
「全くだ…もっとも、困るのは私じゃないだろうが…」
「え?」
ぱたり、瞬く苺色。苦笑が漏れる。
困るのはどちらかと言えば、目の前の。
「君が鈍いと、私はこうして人目も憚らず行動を起こさなくてはならない」
ね、と。引き寄せた彼女の目にはきっと、私の背後の窓が映っているだろう。驚いたような声を上げた彼女に、今度こそ忠告する。
「ここを手伝ってくれるのは非常に助かるがね、やはり君は家に帰りなさい」
「どうして、ですか」
「おや、さすがに分かっているだろう?」
(追記に続きます→)
2009-9-19 03:35
何度向き合っても見つめても、あたしはジョーカーばかりを捲っている。
「こんにちは」
昼下がりに決まって響くノックは二回、変わらない声は今日も優しげにドアの向こうから挨拶をする。
「開いてるわよ」
あたしが返すのは今日も変わらず、不機嫌な声と相反する言葉。ありがとう、と声は言って、ようやくドアを開ける。
「やあ」
「何しに来たのよ」
「休憩しに」
にこりと柔和な笑みを浮かべながら改めて挨拶をしたタケルは、ろくに返事もせず聞いたあたしにいつもの調子で答えた。人の家を何だと思ってるのよ、と言えば、彼は決まって言い返さずにごめんねと笑う。
そうして鞄から甘いお菓子を出して言うのだ。
「まぁまぁ、一緒に食べない?」
「…いらない」
「そんなこと言わないで、休ませてもらってるお礼なんだから」
仕方ないわね、と。そこまで言うなら、とあたしは彼が切り分けたケーキにフォークを伸ばす。
馬鹿みたいだ、本当に。彼は優しいのだ。
森の奥まで休憩に来る人間なんて、聞いたこともない。
「どう?」
「…普通よ!」
「そう。紅茶ありがとう、美味しい」
「……っ」
くすり、笑われた気配がしたから何か言ってやろうと顔を上げて、けれどもあたしはすぐにまた視線を手元に戻した。貴方は時々、何もかもを見透かしたように微笑うから、嫌い。
大嫌い。
「…ねぇタケル」
「何?」
「アンタ、ケーキ作るの下手ね」
からり、クリームの残骸を引っ掻いてフォークが滑る。
「…嫌いよ、全然美味しくないわ」
「……」
「だから、」
白い皿が、震えていた。違う、震えているのはあたしの指で、フォークが笑うみたいにカタカタと。
「だから、もう来ないでちょうだい。あたしの邪魔しないで」
ああ、笑うみたいに。馬鹿ね、本当に馬鹿みたい。
震える指に気づかれたくなくて、わざと乱暴に皿を置いた。
ガチャンと跳ねたフォーク。もう鳴らない。
「…ごめんね」
「!」
彼は言うだけだった。何も言い返さずにごめんねと。
それはお決まりの会話のように優しい声で、いつもみたいに。
「アンタ、話分かって―――」
あまりにもいつも通りすぎて、思わず顔を上げる。
けれどもその瞬間、視界に伸びた手が髪を通り越して、椅子についた。
(追記へ続きます→)
2009-9-14 03:34