合わせた手の中の世界が、引っくり返るのを待っている。
出会いを、すれ違いで表す物語が。この世に一体どれほど存在するだろうか。風の吹き抜けるように柔らかなすれ違い、はたまた真っ直ぐに伸ばしたはずの腕が空を切る、そんな思い通りにならないすれ違い。二つは大きく違えども、どちらにも共通しているのは恋愛の物語にありがちな始まりである、ということで。
ならば、そんな瞬間を一度も経ずに育った恋の、生まれたときを特定することはできないのだろうか。
「タオさん?」
「あ、はい。何でしょう」
なんて、実際はそれほど細かに緻密に、思考を突き詰めていたわけではないのだけれど。ただ、言葉にするなら恐らくそんなふうになる、少しだけ硬く渇いたことを考えていた。
ふいに鼓膜へ飛び込んできた自分の名にはっと我に返って、こちらを覗き込む双眸に捉まり、ああいけないなと意識を水から引き上げる。柄にもないことをふと考え込んだせいで、どうやら二度三度、その視線に気づかなかったらしい。無花果色の髪の間から覗く眸が、今にもどうしたのかと聞きそうに瞬きをするので、先に苦笑いをした。
「すみません、話を聞き逃した気がします」
「そうみたいですね。ふふ、だって今、何も話していませんでしたから」
「え」
「珍しいですね。何か、大事なことでも?」
私の浅い先回りは、悪戯っぽく笑った彼女によっていとも簡単に捉えられ、言葉の足は行き場をなくした。首を傾げて訊ねられ、そうですね、と呟いて空を見上げる。麦藁帽子の隙間から、太陽の光がほろほろと崩れて頬へ注いだ。
「大事でないとは、言えないですが。悩みというにも少し違った、何とも説明のしづらい考え事です」
「そんなことが、あるんですか」
「ええ。最近、わりとよく。今も、あるんですよ」
くす、と。原因は自分が一番よく分かっているものだから、余計に答えを濁してしまって、私は仕方なく隣に座ってこちらを見ている彼女に微笑んだ。曖昧な、謎かけにすらならない返事だと我ながら思う。
「いつ頃からですか」
「それが、どうにも分からないので考えてしまうのだと思います」
そういうものですか、ええ。交わした会話の中に、具体的な言葉をろくに伝えることができなかった。だが、彼女はしばらく考え込むような横顔を見せたあと、納得したようにそうですかと頷いて笑い、傾いた釣竿を握り直した。
沈黙が訪れそうだ、と思いながら、私も釣竿を持ち直して思う。彼女はいつだって、何かを察するように私の口に出し切れない部分を許容する。それこそが、この有耶無耶な疑問の原点であり、私が彼女を意識するに至った最大の理由だと思うのだけれど。
「怒らないんですね」
「だって、怒ることじゃありませんから。悩みに見えても困っていないのなら、今すぐに聞けなくてもいいんです」
「そういうものですか」
「はい。……本当は、ちょっと気になりますけれど」
少しばつが悪そうに、小声で付け足す。それが控えめな表現であるということは十分に伝わってしまったので、私は心なしかそっぽを向いた彼女の優しい意地に、すみませんと礼を言うような声で謝るしかなかった。それを聞いた彼女は躊躇いなく首を横に振る。そして、やや言葉を探すように間を置いて、でも、と切り出した。
「気になっているけど、いいんです。私もずっと、考えていることがあるから」
「え?」
「今も、さっきも。いつから考えているのかも、よく分からなくて―――」
ゆら、り。微睡むような速度で刻まれた瞬きの、もの言いたげな、それでいて迷っているような視線に。ほんのわずか、息が詰まった。
「……もうずっと。悩んではいないけれど、気がつくとそればかり、考えているんです」
合わせた手の中の世界が、引っくり返るのを待っている。初めから対岸で出会った私達はすれ違うこともなく見つめあい、通り過ぎることも振り返って掴むこともできないままに、眸の奥を深くしていった。瞼の裏にはとても近くて一度も触れたことのない彼女が、幾重にも幾重にも折り重なっている。もうすぐ眸は、その思い出でいっぱいになって正しく彼女を見ることができなくなるだろう。だから、その前に。
二人の間に漂う川の、溢れるほどの雨を望む。対岸の彼女と、ここからどうかすれ違うために。向かい岸にはいられないのだ。いつまでも、ここから微笑んでいるだけでは。
「ヒカリさん、ひとつ、提案があるのですが」
「はい?」
「……次に、先に釣り上げたほうから。秘密をばらしてみませんか」
群青はどこまでもなだらかに広がっている。どうでしょう、と問いかけてみれば、驚いた顔をしていた彼女もやがてそっと頷いた。微かな手ごたえの感じられる釣竿を手に、ありがとうございますと笑って一人、深呼吸をする。慣れた潮の香りが、ざあっと降り注ぎ、未だ青い骨を白へ染めていった。手のひら一枚先の岸まで、あとわずか。
雨を待つ
(天の岸辺を消しておくれ)