形のないものを与えないでほしい。掌から零してしまう。
かたん、とわずかながら、自分以外の者が動いた気配で食器を拭いていた手を止めた。振り返れば、ベッドの上で肘をついて半端に起き上がったまま、いまいち焦点の定まっていない視線をこちらへ送っている少女と目が合う。
「起きた?ヒカリ」
「ん……?」
「……」
反応はあったものの、鈍いなどというものですらない。僕は仕方なくため息をひとつついて、布巾と皿をその場に置き、指先の水を軽く払って彼女のほうへ近づいた。狭くはないが低いベッドの脇に膝をつくようにして屈み、その額に手を当ててみる。薄らと汗の滲んだそこは、合わせなくても分かる程度には僕より熱い。
「まだ下がってないね……、まあ寝ついてからそんなに時間も経ってないしな」
「……?チハヤさん、あの?」
「覚えてる、っていうか思い出せる?君、酒場で倒れたんだよ」
「……あ」
「まったく、驚かせるよね」
恐らくまだ、思考も回らないくらいだろう。いつもより速度を落として話しても、彼女の返事はそれよりまた一回り遅い。それでもどうやら、記憶ははっきりしてきたようだ。煙がかかったようにぼんやりとしていた目にようやく色が戻った気がして、胸の内で少なからず安堵する。
「風邪?それとも過労?心当たりがあるのはどっち」
「それは、多分あの……最近少し忙しかったので」
「……そう。じゃあ、病院は夜が明けたらで平気だね」
「すみません……、あれ?」
「何?」
少しずつ会話が交わせるようになってきたのを確認して、ひとまず冷ました紅茶を渡す。礼を言って受け取る指先に力が入るのかと手を離してからはっとしたが、彼女は両手をカップに添えて支えた。そうして言葉を繋げる合間に一口飲んでから、口を開く。
「……チハヤさんは、いつからここに?」
我に返ったように瞬きを数度繰り返した彼女は、ああそういえば今は、と言って慌てたように部屋を見渡した。その拍子に軽い痛みがあったのか、頭を押さえた手を上から掴んで、もうすぐ零時だよと伝える。彼女は何とも言えないような、申し訳なさそうな顔をして眉を寄せた。頭痛が治まらないせいもあるのだろう。横になるよう促したが、それには従わなかった。
「……最初から、としか」
「はい?」
「酒場のカウンターで倒れて椅子から落ちた君を引っ張って、ここまで連れて帰ってきて。それからずっと」
「……チハヤさんが、連れて帰ってきてくれたんですか」
「……それが、何」
徐々にいつもの会話のテンポを取り戻してきつつある彼女に、どことなく居心地が悪くなって返事をはぐらかす。視界の隅で瞬いた目が、あまりにも真っ直ぐにこちらを見つめてくるから困り果てた。間を埋めるように溢した僕のため息と重なって、彼女が小さく、微笑を溶かしたような声を落とす。
「ありがとう、ございます」
「別に。放っておくわけにもいかないでしょ」
「ふふ、はい。迷惑かけてごめんなさい」
「……まったくだよ」
つられたように苦笑して、僕は緩んだエプロンの紐を結んだ。背後にある時計は、かちかちと秒針を動かしている。それがそろそろ深夜二時を差しているだろうことは、ささやかな隠し事だ。毛布を引き上げて、その肩にかける。
「食事ができたらまた起こすから、もう少し寝て。ここでもう一回倒れられたら、僕が困る」
「はい。すみません何から何まで……、あの」
「?」
「良くなったら、今度は。お礼に私が―――」
チハヤさんの好きなもの、たくさん作ってご馳走しますから。後半は声とも呼べない吐息のような言葉だったけれど、寝転んだ彼女と屈んだ僕と、僕らの呼吸以外の物音がほとんどしないこの部屋の中では聞き取ることもできた。気丈に話していてもやはり辛かったのだろう、そのままふらりと眠ってしまった彼女の、頬にかかった髪をそっと避ける。
「……ありがとう、ねぇ」
自分では覚えていなかったようだが、彼女は椅子から落ちて倒れた直後、意識があった。一瞬にして騒ぎになった店内で、真っ先に傍へ寄ったのが誰だったかなんて覚えていない。ただ、彼女が手を伸ばした先にいたのは僕だったし、天井も床もまるで分からないだろうあやふやな意識の中で、何かを言いたげに握られたのもいつの間にか差し出していた僕の手だった。
掴んでしまったから、離すわけにもいかなくなった。それだけのことだったのに。
「……無防備な子」
聞こえているのかいないのか、ん、と小さく声を漏らして眠り続けている横顔を見下ろす。感謝だとか、信頼だとか何だとか。形のないものを与えないでほしい。掌から零してしまう。
微かに裏切りたい衝動に駆られているのは、それが目に見えるほどのものであるのかを試したい気持ちがあるから。あのとき彼女が大勢の中から僕へ手を伸ばしたのは、単なるその場の偶然だったのか、あるいは別のものだったのか。なかなか熱の引かない頬にでも口づけてみれば、それは案外確かめられないことでもない。そうなのだけれど。
「―――」
けれど今はひとまず、温かいスープでも作って彼女が起きてくるのを待つことにしよう。どうせじきに朝が来て、太陽の光で目を覚ます。次に起きたとき彼女は、良くなったら、と結ばれた約束の話を覚えているのか。それさえも定かでないけれど、それでも今はただ、足音を立てないようにキッチンへ向かった。
朝を待つ部屋
(焦点の合わないことが寂しいなんて君が教えた)