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宙に暮らす ※チハアカ


浮遊しているのだ。軸をなくしたようにふらふらと。



「チハヤー、チハヤ」
「何」
「うん、あのね」

これと言って高くも低くもない声が、ぽんぽんと思い出したように跳ねて呼んでくる。昼の一番慌ただしい時間帯を少し過ぎたキルシュ亭で、それに適当な返事をしながら、独断で彼女の軽食を用意するのが日課になったのはいつからだろう。

「チハヤンって呼んでもい……」
「駄目」

もっとも油断も隙もないので、存外会話にはしっかりと耳を傾けているのだけれど。ええ、と信じられないとでも言いたげな声が後ろから上がって、そんな声を出したいのはむしろこちらだと言いたくなる。別段呼びにくい名前をしているとは思えないのだから、変に親しみを込めようとか楽しくしようとか思わず、一切思わず、そのまま呼んでほしい。

「私のことも好きに呼んでいいんだよ?」
「いいんだよ、って言われても今のままで十分でしょ」
「えっ」
「……なんでそこでちょっと照れるわけ?」
「いやあ、何となく」

そのままの君でいいんだよ、みたいな響きだったじゃん、と笑って言う彼女に、どういう繋げ方で解釈したらそうなるんだと返してレタスを切る。トマトと重ねて薄く焼いたパンに挟み、期待に満ちた視線を感じながら少し多めにチーズを入れた。

「アカリン、とかさ……」
「却下」
「言われるとは思ったけど、ノリが悪いよチハヤン……」
「……君の昼食の味付けは僕が握ってるんだからね」
「ごめんなさい何でもないです」

えへ、と冗談めかして笑い、彼女はひょいと身を乗り出してこちらの手元を覗く。何、と言えば見てるだけ、と返ってきた答えに、まあそれもそうかとふうんと相槌だけ返して作業を続けた。

「マスタードは?」
「ごめん、あんまり……」
「ん」

前にも何かで聞いた気がしていたが、傍にいるので好みを確認しながら完成させる。出来上がったそれを皿に並べて、端にポテトサラダを丸く盛った。昼食のときに他の客が注文した料理のために作った余りだが、おまけ程度のそれに彼女は盛大に目を輝かせた。

「そんなに喜ばれるほどのものでもないんだけど……」
「いいじゃない、嬉しいんだもん」
「……そう」

それなら良かった、と何となく気が抜けて笑い、僕は出来上がったサンドイッチを渡した。何でもいいけどお勧め作って、と最初に言われたときは考えたものだが、今では何となく慣れてしまって迷うこともない。午前の仕事の合間に、気がつくと今日の彼女の昼食は何がいいかと考えている。大概は多く仕入れてしまった材料や新しく追加しようか迷っているメニューを選ぶのだが、そのどれにも彼女が平等に喜んでくれるものだから、ついつい試作の域を超えてしまっていることもしばしばだ。

「いただきます!」
「どうぞ」

店がいよいよ空いてきて従業員が一人また一人と休憩に入る中、僕はサンドイッチを齧って声にならない声でおいしいと言っている彼女をちらと見て、そうしてグラスに手を伸ばした。作り置きのアイスティーを氷と一緒に注いで、それを両手に彼女の座るテーブルへ向かう。

「はい」
「ん?」
「これはサービス。席、借りるよ」
「え?」

ひとつを彼女の前に置いて、もうひとつを向かいの席に置く。そのまま椅子に腰を下ろして、冷たい飴色を一口飲んだ。


「しばらく休憩にする」


浮遊しているのだ。軸をなくしたようにふらふらと。らしくないだとか調子が狂うだとか、分かっているけれど元の地に足を着けられない。
数度瞬きをした彼女はそれからふいにぱっと目を輝かせて、握ったサンドイッチもそのままに笑顔を浮かべた。

「何から話す?チハヤン!」
「まずそれを辞めるって言って」

ああ、本当にどうして。どうしたって構わずにいられないんだろうと思ったら、何だか自分がとても厄介なことになっているような気がして、ため息が出た。




宙に暮らす

(上昇する心の世界)
▼追記

枯れ落ちる夢の地上 ※魔法魔女・切


愛だの恋だのそんなものは、きっと何十年かかっても私を幸せになどできない。



「触らないで」

ぴたりと、空気が固まるようにその指先が静止するのをどこか複雑な思いで見ていた。褐色の膚に並ぶ少し伸びた爪が、飾り物のように無機質に映る。やがて私の言葉で行き場を失ったそれは、ゆるゆると下りていって視界から外れた。

「……どうして」
「分からないの、何度も言ってるじゃない」
「……」
「どんなに優しくされたって、あたし、あんたに笑ってはやらないわ」

核心をつくことはいつだって、甘い言葉や軽い冗談ではぐらかすことよりずっと簡単に思える。いつだったか、それを可愛げがないと言った人と、隠し事ができなくて美しくいられると言った人がいた。君の前では潔白でいられると、そう呟いた顔は忘れたのにそれが横顔であったことは覚えている。
あの人は、そんな私を好きだと言ったが、私と目を合わせることは最後まであまり頻繁でなかった。

「あんたには、笑ってやらない」

押し退けるようにそう繰り返したのが、まるで自分に言い聞かせているかのようだなんてことは気づいていた。固まった空気を掻き崩すように隣をすり抜けて、紅茶の缶を棚に戻す。香辛料と木の匂い。毎日開けているはずのそこにどことなく古びた印象を受けて、重い瞬きを一度する。

「……」
「……」

ちらと後ろを振り返れば、彼はもうこちらを見てはいなかった。手持ち無沙汰に佇む背中をしばらく見てから、座ったらとぼやくように言えば返事もせずに歩き出した。わずかな距離を遠ざかっていく靴音に、薄く目を伏せる。

君には嘘がつけないから、君の前では美しくいられるよ。そう言ったのにあの人は結局、曖昧な嘘ばかり残して消えた。ずっと傍にいる、幸せになろう。心はいつだって、傍にいるから。幸せなんてどこにあっただろう。温かいだけではどうしようもなかった。繋いだ手の温もりなんて、離れてしまえば案外早く消えてしまって忘れていく。私だって、あの人だって。愛したって永遠じゃない。記憶は、霞んでしまう。

「―――」

浅く息を吸って、一度。目に映った背中に呼びかけようとして、はっと息を止めた。今、誰を誰と呼ぼうとしていたのだろう。よく分からない。
心を落ち着けるようにため息をついて、紅茶をカップに注ぐ。琥珀色の水面に覗き込む私の眸が溶けて、揺らいだ。

本当は。本当のところは、幸せはそこにあったしあの人はそこまでほら吹きでもなかった。証明されるのが怖くて写真を撮るのを嫌った私の、寝顔ばかりが収められたカメラを今でも捨てられずにいるけれど現像もせずに放ってある。あの人は、私を笑わせるのが好きだった。それは目を細めるからでもあるのだと私は気づいていたけれど、それでも構わないと思えるくらいには面白かったのだ。馬鹿みたいにつられて笑う、あの人が。

「触らないで」
「……触らないよ」
「あっち、行ってよ。はい」

突き出すように紅茶の入ったカップをひとつ押し付けて、近くへ来た気配を振り払う。わずかにこぼれた滴が指先を伝って、ちりちりと灼けるような道筋を残しながら床へ落ちた。水面は今でもゆらゆらと動いているのに、受け取るその手にはこぼれないのがどこか悔しい。何事もないふりをして、熱い指先を忘れた。

「……それは、断る」
「……なんで」
「……家主が座らないのに、座るのはちょっと」

寂しいだろう、と。紅茶を一口啜って言われた言葉に、貴方も大概嘘吐きだと心の中で吐き捨てた。それは誰の言葉なのだと、聞いたらどんな顔をするだろう。きっと一瞬目を見開いて、けれども黙って微笑むのだ。一人で席に着くのは寂しいなんて、誰の感性の受け売りなのかと問いたくなる。問わないのは、思い当たる顔がひとつしかないからだ。

「あたしは、あの子と違うわ」
「……知ってる」
「だからあんたが傍にいないなんて、その程度のことで寂しがったりしないのよ」

顔を上げれば、真っ直ぐにこちらへ向けられた色違いの眸と視線がかち合う。私を見ているけれど見ていないだとか、そんなことさえ言えるはずもない。投影のしようがないほど、綺麗で弱い人だった。決してないと知りながら彼が私の奥に探し続けているものも、私が彼に重ねあぐねては自分に呆れているものも。こんな鈍く長い生命ではない、流星のような存在だったのだ。好きだと言って、愛していると言って、三度目に呟くものを探している間に消えてしまった。追いかける暇さえなく。


「どこかへ、行ってよ」


愛だの恋だのそんなものは、きっと何十年かかっても私を幸せになどできない。手にしたと思えばすり抜けてしまうばかりで、その一瞬一瞬の煌きをひとつひとつ握ったままで死んだって悲しくないと思ったのに、どうしたってこの身体は生きることに長けている。目に見えないもので終わることなど、できはしないのだと思い知る。

「……うん」
「早く」
「……分かってる」

淡々と返されるだけの言葉に、合わせた視線を外した。触らないと言ったくせに髪を撫でる手に、漏れそうになる苦笑を堪える。結局、恋で死ぬことはできないのだ。それでも私は恐れている。あの人が好きだと言った私を、同じ時を生きる貴方がなぞるように好きだと言ったら、歪な幸せに溺れてしまうような気がして。




枯れ落ちる夢の地上

(足元を見失ってどこへ行く)
▼追記

朝を待つ部屋 ※チハヒカ


形のないものを与えないでほしい。掌から零してしまう。



かたん、とわずかながら、自分以外の者が動いた気配で食器を拭いていた手を止めた。振り返れば、ベッドの上で肘をついて半端に起き上がったまま、いまいち焦点の定まっていない視線をこちらへ送っている少女と目が合う。

「起きた?ヒカリ」
「ん……?」
「……」

反応はあったものの、鈍いなどというものですらない。僕は仕方なくため息をひとつついて、布巾と皿をその場に置き、指先の水を軽く払って彼女のほうへ近づいた。狭くはないが低いベッドの脇に膝をつくようにして屈み、その額に手を当ててみる。薄らと汗の滲んだそこは、合わせなくても分かる程度には僕より熱い。

「まだ下がってないね……、まあ寝ついてからそんなに時間も経ってないしな」
「……?チハヤさん、あの?」
「覚えてる、っていうか思い出せる?君、酒場で倒れたんだよ」
「……あ」
「まったく、驚かせるよね」

恐らくまだ、思考も回らないくらいだろう。いつもより速度を落として話しても、彼女の返事はそれよりまた一回り遅い。それでもどうやら、記憶ははっきりしてきたようだ。煙がかかったようにぼんやりとしていた目にようやく色が戻った気がして、胸の内で少なからず安堵する。

「風邪?それとも過労?心当たりがあるのはどっち」
「それは、多分あの……最近少し忙しかったので」
「……そう。じゃあ、病院は夜が明けたらで平気だね」
「すみません……、あれ?」
「何?」

少しずつ会話が交わせるようになってきたのを確認して、ひとまず冷ました紅茶を渡す。礼を言って受け取る指先に力が入るのかと手を離してからはっとしたが、彼女は両手をカップに添えて支えた。そうして言葉を繋げる合間に一口飲んでから、口を開く。

「……チハヤさんは、いつからここに?」

我に返ったように瞬きを数度繰り返した彼女は、ああそういえば今は、と言って慌てたように部屋を見渡した。その拍子に軽い痛みがあったのか、頭を押さえた手を上から掴んで、もうすぐ零時だよと伝える。彼女は何とも言えないような、申し訳なさそうな顔をして眉を寄せた。頭痛が治まらないせいもあるのだろう。横になるよう促したが、それには従わなかった。

「……最初から、としか」
「はい?」
「酒場のカウンターで倒れて椅子から落ちた君を引っ張って、ここまで連れて帰ってきて。それからずっと」
「……チハヤさんが、連れて帰ってきてくれたんですか」
「……それが、何」

徐々にいつもの会話のテンポを取り戻してきつつある彼女に、どことなく居心地が悪くなって返事をはぐらかす。視界の隅で瞬いた目が、あまりにも真っ直ぐにこちらを見つめてくるから困り果てた。間を埋めるように溢した僕のため息と重なって、彼女が小さく、微笑を溶かしたような声を落とす。

「ありがとう、ございます」
「別に。放っておくわけにもいかないでしょ」
「ふふ、はい。迷惑かけてごめんなさい」
「……まったくだよ」

つられたように苦笑して、僕は緩んだエプロンの紐を結んだ。背後にある時計は、かちかちと秒針を動かしている。それがそろそろ深夜二時を差しているだろうことは、ささやかな隠し事だ。毛布を引き上げて、その肩にかける。

「食事ができたらまた起こすから、もう少し寝て。ここでもう一回倒れられたら、僕が困る」
「はい。すみません何から何まで……、あの」
「?」
「良くなったら、今度は。お礼に私が―――」

チハヤさんの好きなもの、たくさん作ってご馳走しますから。後半は声とも呼べない吐息のような言葉だったけれど、寝転んだ彼女と屈んだ僕と、僕らの呼吸以外の物音がほとんどしないこの部屋の中では聞き取ることもできた。気丈に話していてもやはり辛かったのだろう、そのままふらりと眠ってしまった彼女の、頬にかかった髪をそっと避ける。

「……ありがとう、ねぇ」

自分では覚えていなかったようだが、彼女は椅子から落ちて倒れた直後、意識があった。一瞬にして騒ぎになった店内で、真っ先に傍へ寄ったのが誰だったかなんて覚えていない。ただ、彼女が手を伸ばした先にいたのは僕だったし、天井も床もまるで分からないだろうあやふやな意識の中で、何かを言いたげに握られたのもいつの間にか差し出していた僕の手だった。
掴んでしまったから、離すわけにもいかなくなった。それだけのことだったのに。


「……無防備な子」


聞こえているのかいないのか、ん、と小さく声を漏らして眠り続けている横顔を見下ろす。感謝だとか、信頼だとか何だとか。形のないものを与えないでほしい。掌から零してしまう。
微かに裏切りたい衝動に駆られているのは、それが目に見えるほどのものであるのかを試したい気持ちがあるから。あのとき彼女が大勢の中から僕へ手を伸ばしたのは、単なるその場の偶然だったのか、あるいは別のものだったのか。なかなか熱の引かない頬にでも口づけてみれば、それは案外確かめられないことでもない。そうなのだけれど。

「―――」

けれど今はひとまず、温かいスープでも作って彼女が起きてくるのを待つことにしよう。どうせじきに朝が来て、太陽の光で目を覚ます。次に起きたとき彼女は、良くなったら、と結ばれた約束の話を覚えているのか。それさえも定かでないけれど、それでも今はただ、足音を立てないようにキッチンへ向かった。




朝を待つ部屋

(焦点の合わないことが寂しいなんて君が教えた)
▼追記

去る春の日よ、ワルツを踊ろう ※カミサト


追いかけて追い越しては手を取って、薄紅の影と踊る。



「カミルくん」

名前、を。呼ばれることに慣れたのはいつからだろう。その声で紡がれる自分の名前を聞くことが、日常の一部になったのは。さながら風の音でも聞こえたときのような心地で、元を辿るように振り返る。けれどそれはやはり風ではないからそこには僕の思い浮かべた通りの姿がきちんとあって、そんな当たり前のことにふと、意図のない笑みが零れた。

「やあ、サト。今日も暑いな」
「おはよう、本当にね」
「入りなよ」

軽く挨拶を交わしながら足を止めた彼女に、立ち話になる気配を感じてパラソルの下へ手招く。一人分の隙間を開けた僕とそこに落ちる影を交互に見やって、彼女はありがとうと気の緩んだ表情を浮かべた。花を摘んだワゴンの脇を、空気に膨れるワンピースが通り抜ける。そのまま隣へ立って、彼女は興味深げに周囲を見回した。

「なんか、すごい」
「何が?」
「お店のこっち側に来ちゃった」

ふわふわと弾んだ声色は、日頃の印象より少し幼くて何だか真新しく響く。これなあに、と聞かれて指を指されるままにいくつか答えながら、そういえば確かに初めてだなと思った。彼女とはよくワゴンを挟んで何がともない話をする仲だが、こうして作業スペースに呼んだことはない。否、そうというよりは。

(……誰かを入れたことが、なかったのか?)

まるで外側から投げ込まれたように唐突に浮かんだその答えを、二度三度と脳裏でひっくり返して考える。そう、なかったのだ。入ってこられるのが嫌だとか、そういうことを思っていたわけではない。ただ、それ以前に入ってもらう必要がなかった。
誰も、会話をするためだけに彼女ほどここへ長居をする人なんていなかったから。

「……面白い?」
「うん」

屈んだり振り返ったり、落ち着きなく辺りを見回しては時折思い出したように背筋を正して、そうしてまた何かを見つけてはそろそろと手を伸ばしている彼女をぼんやりと眺める。即答されて、心の中でむしろ君が面白いと漏らした。使い古した鋏や切り揃えられたリボンの束を、あまりにも真剣に眺められるものだから何だかこちらまで落ち着かなくなってしまう。

「面白いっていうか、何ていうか」
「うん?」
「ちょっと楽しくて」

遮りきれなかった日差しが、柔らかく揺れる麦色の髪に弾かれてきらきらと。砂金のように零れて石畳に落ちる。見送って顔を上げたら、かちりと視線が合った。


「ねえ、花屋さんに見える?」


砂糖を溶かしたようなプラムが、悪戯っぽく細められる。両手に持った鋏とメッセージカードを揺らして、なんてね、と付け加えられた一言に、ようやくはっとして笑った。その些細なままごとを、笑ったふりをした。


追いかけて追い越しては手を取って、心は薄紅の影と踊る。この心臓を掠めるのは、他愛無く何気ない彼女の一言で。

「……ははっ」
「?」
「うん、よく似合ってると思うよ」

僕はいつだって、いとも容易く惑わされてばかり。翻弄されるのが少し悔しくて、ワゴンの端に咲いていた真っ白な花を一本、バンダナで纏められた彼女の髪に挿し飾った。一拍置いてから染まった頬を見て、どことなく満足してみるような。そんな僕らを囲うパラソルの上で、太陽が真昼を告げて輝いた。




去る春の日よ、ワルツを踊ろう

(本当にしてしまいたい)
▼追記

心海ヘルツ


誰にも見えない世界のための、合言葉を重ねよう。



ごぼりと夏の陽射しの中に、思考の泡が浮かんでいく。色を持たないそれは周囲の景色を取り込みながら割れそうで割れずに、天井近くまで行ってふらりと輪郭を消した。

「魔法使いさん?」

ああ何を、そんなに思っていたんだっけ。ふと現実に引き戻されたようにそう思って瞬きをしたら、階段を上がってきた少女が足を止めて、そう呼んだ。問いかけの調子を含んだそれにどう答えようかと思ってから、探し物は真剣に探している間ほど見つからないものだという昔からの法則に思い当たって小さく笑い、とんとんと隣の床を叩いた。ぱたぱたと木目をなぞるように軽やかな足音が響いて、マグカップを二つ手にした彼女はそこへ腰を下ろす。どうしたのかと言われたら何を考えていたというのか、明確な答えはまだ見つからない。

「どうぞ」
「……ありがとう」

ミルクの入っていないほうを差し出されるままに受け取り、礼を言って足を伸ばす。元々望遠鏡を置くために造られた二階はさして広くもなく、背骨が柵に当たってするりと滑り、やがて収まった。標本にでもなったような心地で、出来立ての珈琲を一口啜って天井を見上げる。思考の泡が見えた気がしたけれど、それは錯覚の中の幻でしかなく、結局はマグカップから昇った湯気のようだった。

「ここから見ると、下は綺麗ですね」
「え?」
「日光が溜まって、水みたい」

ぽつりと呟かれた言葉に思わず彼女を見て、それから彼女と同じように柵の隙間から下を見る。窓の近くでは刺すような強さに思えた陽射しが、まるで薄い膜のようにゆらゆらと漂って見えた。床板はどこも年月なんて変わらないはずなのに、もう長いこと誰の足も触れていないかのようにぼんやりと白んで見え、明け方に栞を挟んだ俺の本もまた、知らない国の書物のようだった。俺達がいつも使っているテーブルさえ、古い絵画のように柔らかく霞んでいる。泡によく似た水晶玉は、宝物のように静かで浮かんでこない。

「……泳げそうな部屋、だ」
「分かります?寝転がったら、天井がゆらゆらして見えそう」
「……それは少し、楽しそうかな……あ、でも」
「?」

細くなった湯気を通して下の部屋を眺め、温かい水の中で目を開ける想像をしながら同時に考える。ゆるりと振り向いた苺色の眸は、影になってとても深い色に見えた。


「……水の中だったら、声が聴こえない」


零れていくのを拾い上げるようにして口にした言葉に、彼女は二度ほど瞬きをして。そうしてそれからそれもそうですね、私も貴方の話が全く聴こえないのはちょっと、と言ってから、ふいにはにかむように微笑った。
ごぼりと、胸の裏側が揺すられて心臓が思い出したように形を持つ。ああ、まただ。溢れた思考の泡は今度も追いかければ消えてしまって、それはまたどうという言葉にもならないまま、この部屋の天井に溜まっていく。膜のように。


誰にも見えない世界のための、合言葉を重ねよう。いつの日かこの場所に満ちる、この感情の断片と残像、あるいは数多の言葉にならなかった言葉の欠片に埋め尽くされてしまう日が来ても、確かに伝えられるように。

温かい水の中を、泳いでいる。視線を辿るように額を合わせて口づけたら、微かに太陽の匂いがした。眩しさを思い出させるはずのものでも苦しくはないと思えるのは、それが彼女の愛するもののひとつに過ぎないからだ。
ああきっと、そんなことを。考えていたような、そんな気がする。




心 海 ヘ ル ツ

(愛しているのです、嗚呼ほら)
▼追記
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