懐かしさを求めて、愛したつもりはない。
「ねえ、」
歩き慣れた灰色の道が、橙色に染まっている。ゆら、ゆら。斜め前で揺れていた金の髪が、ふわりと翻った。ぱん、と硝子がぶつかるように重なった視線。高さの違うそれを寸分の狂いもなく合わせられるようになった頃から、僕は少し、僕の感情の輪郭を見失った。
「どうかした?」
蒼い眸がゆっくりと瞬いて、そう遠くない距離で映り込んだ僕の眸を閉じ込め、ぼかす。同じ日の空と海を受け取ったように、どこまでも近い僕らのそれ。境目をなくしてしまったように、彼女の蒼の中心、僕の青も滲んでゆく。橙の光がきゅうと射し込んで、ますます分からなくなった。ああ、多分、こんな感じだ。
「どうしたの、クリフ」
何も答えない僕を心配したのか、縋るとも包むともつかない、ひどく優しい声で彼女は言う。口を開きかけて、けれどもそこにどんな言葉を置いたらこの感覚を、彼女を呼び止めた無意識の望みを、上手く伝えることができるのか。そもそも伝える言葉など、僕の知識の限りに存在するのか。
分からない。分からなくなって、口を閉じる。それほどまでに僕は、言い様のない感情に埋もれていて、けれどもふと気づけば微笑んでいたようだった。蒼い空の眸の中、それを知る。
「どうしたわけでも、ないんだけどさ」
「うん」
「……何となく、ね。顔が見えないと呼びたくならない?」
「!」
「はは、クレアさんってば一人でも二人でも歩くの速いんだから」
「ご、ごめん……その、私が案内しなきゃと思って、ね。つい」
「張り切ってくれたってこと?」
「それは……そうよ。誰かをここにちゃんと招くなんて、初めてだし」
軽いからかいで言った台詞に、予想外の肯定が返ってきてしまった。言葉に詰まった僕を引っ張って、隣に立たせながら彼女は進んでいく。動かした両足が、次々に橙を横切って、影を伸ばした。長い金の髪だけが、それを跳ね返して煌めく。
「僕も、かな」
「え?」
「この町で誰かの家に招かれるなんて、初めてだと思うよ」
ふ、と。顔を上げた彼女に合わせて、僕も隣を向く。何かを思案するような眼差しに、僕も彼女が今何を思っているのだろうと考えたけれど、答えは出ない。
「ねえ、クリフ」
「何?」
「おかえりって言うから、ただいまって言ってみてくれない?」
だっていつだって、彼女は僕の考えもしないことばかり、言ってのけるのだから。え、とその違和感が溢れに溢れた場面を想像して躊躇った僕の返事も待たず、彼女は笑う。
「いいじゃない、せっかく二人いるんだから、そのほうが何となく」
「構わないけど……」
「じゃあ決まりね、ほらもう着いたから」
ちゃんと言ってよ、と念を押して、彼女はようやく着いた家の中へそそくさと先に行ってしまった。後に残された僕は何だか変な心地で、初めて訪れた家のドアノブをそっと握る。そうして。
「……ただいま」
「おかえり」
時計回りに回したドアの向こう、初めて見る家の中。それなのに、どうしてだろう。
(どうしたら、いい?)
ひどく気が緩んで、これが彼女の気紛れで提案されたやり取りだということさえ、どこかへ忘れてしまいそうなほどに。ただ鮮烈に、その感覚は訪れた。
「……あれ?」
「!」
「え?あ、あれ、ごめんね?どうしたんだろう」
「クレアさん」
「ごめ……、本当、こんなつもりじゃ」
「いい。いいんだ、平気だから」
「でも」
「……大丈夫、多分、」
唐突に頬を滑り落ちた滴に、驚いたのは僕ではなくて彼女自身だった。混乱したようにごめんなさい、違う、と首を振る彼女へ、無意識に腕を伸ばす。
「気にしないよ。多分、僕も今、同じような感じだから」
迷うように伸びてきた手が、初めからそうだったかのように自然に絡んだ。果たして本当に自然なのか、僕にはそれは分からない。ただひとつ言えるのは、僕達は誰でもよくただ温もりを求めていたわけでもないが、ただ愛しいと呼び合うには少し、輪郭を見失っている。お互いに。そしてそれに気づきながら、それこそが芯であるかのように受け入れて、いる。
懐かしさを求めて、愛したつもりはない。なくしたものを埋めたかったわけでも、そのために選び合ったわけでもないのだ。ただ、それでも。
「……もう一度、言ったら」
「うん」
「また、応えてくれる?」
辿り着いてしまった、もう二度と手に入らないだろうと目を逸らしていたその感情は。
「……うん」
どうしようもなく胸に絡みついて、きっともう、手離せそうにない。
アイムホーム,アイムルーム
(応えて、こたえて、呼んで)