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スフィアノート ※アカリ独白


だからこれは呼吸なのだ。誰のものかは分からない。



「……」

時計の針が静かに回るこの部屋で、こうして机に座るのはもう何度目だろうか。かちり、かちり。耳に流れ込むのは秒針の音と、窓の外を行く虫の声。それから水車の回る音。今夜はわりと風があるようだ。きっと外に出たら、波の音も聞こえる。

「……」

きしりと小さな椅子を引いて姿勢を正し、私は手元の日記帳を広げた。真新しい頁を探して、ぐるぐる回るような文字の渦を目でなぞっていく。決して特別に綺麗とは言えない癖のある文字だけれど、見慣れた自分のそれは捲っていけば使い始めの頃よりずいぶんと変化していた。柔らかくなったと言うべきか。くすりと無意識に込み上げた笑いを、ペンを持つ手にのせて白紙の頁に走らせる。

頭の底からわあっと、溢れ出すものがあった。嵐の夜と幸せな一日の夜、季節の変わった日。その晩。晴れた日の夜と雨の日の夜、月の満ちていた夜。それから今日のような、心静かな夜。たくさんの夜を、たくさんの日々を思い出しながら、この日記帳へ書き残して過ごした。この町へ来てから、毎晩ずっと。


小さな家の庭に種を植えたこと。それが芽を出したこと。やがて実になったこと。そんなことから始まって、動物を飼ったこと。それが成長して卵を生んだり、牛乳を出したりしたこと。見たことのない場所へ行ったこと。海と山が見えること。不思議な夢を見たこと。妖精に会ったこと。

「……」

楽しい毎日を、送っていること。友人ができたこと。特別かもしれない人に出会ったこと。町の人に評価されてきたこと。この町が好きになったこと。そして、もう一度妖精に会いに行ったこと。彼らの手伝いを引き受けようと、決めたこと。

不思議な呪文で一緒に手を上げて、虹をかけたこと。


「……」

さらさらと文字を並べながら、私はそんなたくさんのことを記した夜のことを思い出していた。外に持ち出したことはないのに、この日記帳はいつの頃からか土の匂いがする。私の牧場の匂いだ。日溜まりと蔓草を足して割って、海を混ぜた匂い。私の大切なこの町に愛される、幸せな牧場の匂い。


だからこれは呼吸なのだ。誰のものかは分からない。私のものかもしれないし、この町のものかもしれない。記された日々は私のものであって私だけのものでなく、けれども確かに私の大切なものなのだから。何とも難しいものだ。

「……さて、と」

ゆるやかな文字でまた一枚白紙を埋めて、私は日記帳を閉じた。そのままペンを机に放り出し、大きく腕を伸ばす。
今夜は月が細い。窓の外では相変わらず、水車が回っているようだ。明日もきっと、忙しい一日になることだろう。




スフィアノート

(愛すべき私の小さな世界)
▼追記

エーデルワイスプレリュード


世界が真っ白に染まったら、何を頼りに歩こうか。



「カミル君、はい」
「……え?」
「いつもありがとう」

それはいつもと何ら変わらないやり取りの中に投げ込まれた、ひどく唐突な一紡ぎだった。日向に出した小さなテーブルとパラソルで店を構える僕のところへ、この春から増えた新たな常連。牧場の片隅で趣味を兼ねて花を育てる彼女は、この店を訪れることも珍しくない。自分で育ててきた花と僕が仕入れてきた花を数本ずつ選んで、よく花束や香水を頼んでいく。作り終えるまでのわずかと呼ぶには長い時間に、他愛ない言葉を交わすのもとうに慣れたことではあったけれど。

「僕に?」
「うん、良かったら」

それ以外のやり取りは、これと言って交わしたことなどなかった。にこりと微笑んで差し出された花を、僕は思わず置いてしまった一拍の間を埋めるように、手を伸ばして受け取る。甘い香り。蜜蜂の好みそうなそれは、ふらりと頭の奥にまで入り込んで、思考を溶かした。どうして、僕に。そう問おうとした唇で、無意識に別の言葉を紡ぐ。

「ありがとう、部屋に飾らせてもらうよ」

大切に手元の瓶へ立てて置けば、菫色の眸をふっと細めて彼女は笑った。どういたしまして。ぽつりと落とされた声が、未だ甘さの残る空気を震わせて、鼓膜を揺らす。

「……本当は」
「?」
「いつもありがとう、なんて礼を言うべきなのは、僕じゃないか?」

訪れるであろう沈黙に任せて、当てもない言葉を思いついたままに溢した。え、と呟いた声に顔を上げて、僕が受け取ったものと同じ花を包んだ紙にリボンを回そうと、また視線を戻す。

「君はよくここへ来てくれるよな。……いつもありがとう」

わざわざ明かしたことはないが、彼女がここへ通うようになって、僕は仕入れに向かうのが今までより楽しくなった。この間買っていた種は何だったか、それなら次の花束には、香水にはどんな花が合うだろう。どんなものを用意したら、彼女が心を込めて育てた花に似合うだろうか。明確なイメージを持って店に出す花を探すことが、こんなに楽しいなんて、これまでには分からなかった。

「それは……、ううん」
「?」
「それでもやっぱり、お礼を言うのは私だと思うの」

瞬きをしながら僕の話に耳を傾けていた彼女は、ゆっくりと首を横に振る。麦色の髪が風に揺れて、花の香りを散らした。


「だって私、ここに来るのがいつもすごく楽しみなんだよ。いつ来ても綺麗な花があって、ちょっとした話でもカミル君は聞いてくれて。……ここに来ると、嬉しくなるの」


それはいつもと何ら変わらないやり取りの中に投げ込まれた、ひどく鮮烈な一紡ぎだった。当てもなく跳ねた心臓が重い。いつにない始まりの予感に、目が眩むような錯覚を起こしてそっと瞬きをする。

「ありがとう、いつもここにいてくれて」

日溜まりの色に煌めく花束を受け取って、彼女が躊躇いもなく放ったその言葉は、僕の中に消えない何かを残した。


眩んだままの目を伏せて、考える。このまま世界が真っ白に染まったら、何を頼りに歩こうか。

「……こちらこそ」

きっと今それを問われたなら僕は、間違いなく君の声だと、答えてしまいそうだ。




エーデルワイスプレリュード

(愛の言葉の合言葉)

▼追記

はかられごと ※カミサト


それはどんな波も訪れないような、この胸の最の果て。



「カミル君」

くるり。視界を覆った影に顔を上げたら、プラムの眼差しとかちり、噛み合った。緩やかな風の似合う午後の木陰は、それでもその葉の隙間を縫って落ちる木洩れ日が意外と眩しい。本を読むのに悪くないと、それを知ったのはまあ案外最近なのだけれど。

「やあ、サト。もう戻るところか?」
「うん、今日は仕事が早めに終わったの」

左の手のひらに広げていた本を閉じて、それとなく近くへ立ち尽くしたままの彼女へ、仕草だけで隣を進めた。気づいたように微笑んでそこへ座りながら、さらりと流れた髪を押さえて、古びた幹に背中を預ける。ああそう、ちょうど彼女に会った頃か、あるいはその少し前か。とにかく僕がこの人知れぬ気に入りの場所を見つけたのと、彼女が町へ来てすぐにこの山で迷って、こうして本を広げた僕と出会ったのは、わりと近い時期のことだった。

「今日は何を読んでるの?」
「先週の続き、この前買った秋の花のアレンジの本だよ。……見るかい?」
「いいの?」

あれから幾度となく、この場所で彼女と顔を合わせては他愛ない時間を過ごしている。僕達の間には会わなくてはならないという決まりもなければ、会えたらどうする、何をするという約束もない。ただ僕はいつからか、彼女が仕事を終えて走らせる荷馬車の音を聞き取れるようになり、彼女もまた、いつの間にか僕の本をすらすらと読み耽るほどに、花に対する知識をつけた。それが意味するところは結局、過ごした時間の長さ分の親しみでしかないのだろうが、それだけの時間を彼女と見送ってきた。それはきっと、そう考えると少しばかり特別な響きを持つ。

「ねえ、カミル君」
「?」
「今度、私に花束の作り方……教えてもらえない?」

ぱらりと捲る手元のページに視線を落としたまま、彼女は言った。あまりにさらりと自然で、けれど唐突な言葉はふらり。ぼんやりと考え事に広がっていた胸の奥へすっと溶け込んで、断る、という選択肢が思い浮かばなかったのはどうしてだろう。いいよ、と。答えればやっとこちらを向いた目が、嬉しそうに細められる。

「構わないけど、どうしたんだ?」
「ん?……少し、贈りたい人がいるっていうか」
「?」
「……優しい人でね、きっと何を渡しても受け取ってくれると思うんだけど。でも、花が好きなのはよく分かるから」

せっかくなら、喜んでもらいたいもの。指先に落ちる木洩れ日を摘むように本を閉じて、彼女は言った。厚い表紙を撫でて、小さく笑う。

「私にできる範囲でいいし、そもそもね、本当は一人で頑張れたらいいんだけど……なかなかうまくいかなくて」
「もう試したのか?」
「うん、少し。でもあまり綺麗に作れなくて、何度もやり直すと花もなんか、ね。可哀想だし」
「……」
「お願い。……秋までに、作れるようになりたいの」

柔らかな横顔に少しの切なさにも似た色を滲ませて、彼女はそう呟いた。焦がれる人というものを真面目に見つめたことなどないが、きっとそれはこういう顔をいうのだ。そんなふうに思い浮かべる相手が、否、こんなふうに、彼女に想われる誰かがいるのか。そう思ったらふと無意識にその思考を掻き消したくなって、それこそ何故と気づいてみても明確な答えなどなくて。所在なく目の前に浮かんだ感情をひとまずは瞬きで押し込め、僕は唇に笑みをのせた。

「構わないよ。……そこまで思われたら、君に贈られる人は幸せだな」

ぱっと見せられた笑顔にかかる髪を避け、掠めた頬の体温を指の先が置き去れず覚えている。ありがとう。弾んだ声でそう言われて、流れでどういたしましてと。誰のためにそんなに嬉しそうにするんだい、とは、訊いても良かったのだろうか。

「本当にありがとう。……あのね、カミル君」
「ん?」

どこかおずおずと切り出した彼女に、そんな考え事を中断して眼差しを向ける。かすかに落ち着かないプラムが、呼吸のように瞬いて、揺れた。


「嫌いな花って、ある?」


それはどんな波も訪れないような、この胸の最の果て。心の底のそのまた奥にある、人知れぬ静かな場所なのだと思う。緩やかな思考の漂う、この心臓のその奥に。

「嫌いな?」
「あ、ええと」
「?」
「ないならいいの、何でもない」

さくり、さくり。ざわめきを落とすのは、誰の声か。温もりを残すのは、誰の手か。


「……優しくしてもらってばっかり。いつもありがとう」


今度花を持って行くから、よろしくね、と。慌ただしく言い残して、彼女はその場を立った。礼と共に返された本を受け取って顔を上げればもう、その姿は背中に変わっていて、いっそ呆気ないほどに向こうへと歩きだしているのだけれど。

「……」

どうしてくれよう。これはただの空回る期待か、それとも彼女が残したわずかに甘い憶測への足跡か。
きしりと一人、幹に凭れて僕は思ってみる。ああもしも、僕がもし彼女から贈り物をされたなら、なるほどそれが何であれ受け取ると思われるのだが。




はかられごと

(私の優しい大切な人よ、どうかハッピーバースデーを言わせて)
▼追記

蝶の背骨 ※カルヒカ


触れたいのは心の奥底なんて洒落たものではなく、唇であり肌であり、眼差しであり空気なのだ。



「君はどうも、俺をゆっくりさせてくれないね」

古いラジオがそれと同じか、それ以上に古びた遠い国の曲を流す。錆びた鉄のようなノイズで掠れながら過ぎてゆくそれは、人が一人過ごすのにちょうどよく造られた宿の一室で向かい合う俺達の間をすり抜けて、広げた鞄の中へ吸い込まれていくようだ。

「え……、それは、どういう?」
「そのままの意味さ。君といるとどうにも、自分のペースというやつを保ちきれなくてね」

そんな空気に当てられたのだろうか。ベッドに腰を下ろして昨晩俺が書いたノートを興味深げに眺めていた彼女は、ふいに沈黙を破った俺の言葉をすぐには飲み込めなかったらしい。ひとつひとつ繰り返すように呟いてみて、そうしてきうと、眉を下げる。

「私、うるさかったですか?お邪魔でしたか?」
「ああいや、違うな。それは別に構わないし、君は仕事の邪魔になるほどうるさくもないよ」
「?」
「……そうだな、こればかりは君に言っても仕方ないんだ。分かってはいるつもりだったんだが」

誤解を招くような言葉を選んでしまったことを申し訳なく思いながら、こちらへ向けられた視線を受け止めて、そのあどけなささえ残る姿にまたも言葉を躊躇う。だが、ここでやはり何でもないなどと話を終わらせるのは、余計に拗れるというものだろう。ああ、と間延びさせた声で思考の時間を稼いで、せめてもの対抗をする。彼女のことだ、言葉の裏などそうそう読んではくれまい。素直さは時として、自分のような人間には心臓に毒である。潜めておきたいものほど、悪気もなく掬い上げられてしまうのだから笑うしかない。そう、例えば。

「男心っていうのは、案外繊細なんだ。君が思う以上にね」
「……?」
「……仮にも恋人の前で、他の男にもらったものばかり、毎回のようにつけてこないでくれないか」

例えばこの手の感情、だとか。右肩に光る真珠をそっと爪で弾いて苦笑すれば、彼女はようやく理解したようにあっと声を上げた。
ろくでもないと覆い隠して何とか言葉を重ねてみたところで、彼女のような人にはそんなもの通じない。良いブローチをしているね。そう口にしてみたら、はにかんだように微笑んで、毎日つけるようになった。まったく笑えない話である。

「君に悪気がないのは分かっているけれどね。困った子だ」
「ごめんなさい、そんなつもりは……」
「ああ、いい。外さなくて。次から気をつけてくれればいいさ」
「……すみません」
「……本当に、困ったものだよ」

うつむいた彼女は、申し訳なさ半分、驚き半分といったところか。わずかに赤い耳がちらつく辺り、言いたいことは伝わったようだが、きっと分かっていないのだろう。俺が、他にどれくらいのこんな感情と戦っていることか。戦ってきたことか。

「悠長に余裕ぶっていたら、横から浚われそうだな」
「そんなことないです、私は絶対あなたがいい」
「はは、そうか。……なら、ひとつ話ができた」
「?」
「……ヒカリ」

見つめれば見つめ返す。真っ直ぐな眼差しに、恋の言葉を躊躇った日を懐かしく思い出した。俺は、あれからずいぶんと目まぐるしく一人を想って、様々なことを思ったものだ。

「俺のパートナーになってくれないか」
「……え?」
「本当はもう少し、恋人でいるつもりだったんだが……君といるとつい、気が先へいってしまって困るな」
「……!」

だからもう、そろそろ。気楽に愛を唄っていたい。曲の変わったラジオがふつりと切れて、また流れていく。


「その気が変わらないうちに、俺を特別にして……ゆっくりさせてくれないか。俺も一生、君がいい」


触れたいのは心の奥底なんて洒落たものではなく、唇であり肌であり、眼差しであり空気なのだ。指を絡めて笑い合いたい、愛してると告げて赤くなる頬にキスをして。
傍に在りたくて、誰にも立てない場所まで行きたくて仕方ない。形のないものを、世界で一人だけなんて約束の糸で結んで、どうかこの手を軽やかに離れていくことのないように。
手に取るように掴める証がほしい。そんな子供じみた初恋のようなことを、思わずにはいられない。

ノイズの消えたラジオが、名もない唄を流す。俺は彼女がブローチを外して縋るように抱きついてくるまでの短くて長い間、ただ広げた鞄の奥へずいぶん前に隠した青い羽根を思い浮かべて、窓を眺めていた。




蝶の背骨

(片手の先で摘み取る永久)
▼追記

雨と暮れゆく


密やかに色を変えてゆくのだ。染め上げる白い手に息を潜めて、今。



「何、してるの」

青天を焦がした灰色の雲が、太陽を濡らすかのような雨を降らせる午後だった。透明な傘に落ちては流れていく滴を振り払いながら酒場までの道を歩いていた矢先、もう少しというところでその見覚えのある爪先が視界に入り、顔を上げてしまったのは。

「……あ、チハヤさん」
「うん。……で?君は何してるわけ」

火にかけられた果実のような、蕩けた緋の眼差し。雨水の色に塞がれたはずの距離をものともせず鮮やかなそれは、僕の中で彼女の印象として真新しく頭に残った。拭ったら跡になりそうな、そんなぼってりとした記憶。雨傘を肩にかけてそれを頭の奥へ振り落とし、僕はまた軒下の彼女へ視線を向ける。

「ちょっと、傘を忘れてしまって」
「相変わらずだね。今日は朝から天気がおかしかったでしょ」
「そうなんですけど、こんなに降るとは思わなくて。……荷物になるから、軽い雨なら走って帰ればいいかな、って」
「君ねえ……」

仮にも一人暮らしなんだから、くだらない理由で風邪でも引いたらどうするつもり。口をついて出かかったそんな言葉は、暢気にもすごい雨ですねと笑った声に遮られ、行き場をなくしてため息に成り果てた。どんなに長く吐き出しても所詮それは空気でしかなくて、あっという間に雨に消され、結局彼女まで届かない。無意味だった。

「……いつからそこにいるの」
「ええと、三十分くらい前からです」
「ふうん。……で、いつまでそこにいる気?」
「え?」
「まさか雨が止むまでなんて、馬鹿なことは言わないよね?」

ばしゃ、と爪先が水溜まりを掻いて濡れる。とうに冷たくなった手で傘を傾けたら、左の肩に滴が落ちた。空白の右側に、雨の匂いが揺れる。

「さっさと入ってよ。余計に濡れるんだけど」
「え……!でもそんな、だってチハヤさんはこれから」
「仕事だよ。だから酒場まで」
「……?」
「本当、君って鈍いよね」

湿った土埃の匂いに似たそれが、僕は嫌いだ。代わりに腕を掴んで引き寄せた彼女をそこへ置けば、右側の空気の温度が微かに昇る。


「酒場まで着いたら、貸してあげるって言ってるんだよ」


酒場までの短い距離を見つめて、僕は傘を傾けた。無意味だ。雨傘を持っていたってとうに濡れた背中や足や。そして雨傘を持たなかった彼女の、滴を零す髪や。今さらこれくらいの距離を分かち合ってみたところで、大した意味などない。分かりきっていながら、僕は歩き出す。左の肩を叩いた滴が、じわりと染みのように広がった。
代わりましょうか。曖昧なか細い声でそう言った彼女の手に、傘が渡る。わずかに触れたそれは僕以上に冷たくて、指が震えそうになった。


密やかに色を変えてゆくのだ。染め上げる白い手に息を潜めて、今。零れるように滲むように、じわり、熱を奪われていく。

「チハヤさん、あの」
「?」
「もし、この雨が止まなかったら。酒場の終わる頃に、迎えに行きますから」

今度は私が、と。笑う彼女に雨傘を押しつけて、止まなかったらね、と。僕は返す言葉をドアの音に隠す。
彼女を覆う透明な傘の上は相変わらず、太陽を濡らすような雨だ。秋の長雨と云う。きっとこの雨も、簡単には上がらない。




雨と暮れゆく

(拭いされども滲むは藍と、)
▼追記
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