それはどんな波も訪れないような、この胸の最の果て。
「カミル君」
くるり。視界を覆った影に顔を上げたら、プラムの眼差しとかちり、噛み合った。緩やかな風の似合う午後の木陰は、それでもその葉の隙間を縫って落ちる木洩れ日が意外と眩しい。本を読むのに悪くないと、それを知ったのはまあ案外最近なのだけれど。
「やあ、サト。もう戻るところか?」
「うん、今日は仕事が早めに終わったの」
左の手のひらに広げていた本を閉じて、それとなく近くへ立ち尽くしたままの彼女へ、仕草だけで隣を進めた。気づいたように微笑んでそこへ座りながら、さらりと流れた髪を押さえて、古びた幹に背中を預ける。ああそう、ちょうど彼女に会った頃か、あるいはその少し前か。とにかく僕がこの人知れぬ気に入りの場所を見つけたのと、彼女が町へ来てすぐにこの山で迷って、こうして本を広げた僕と出会ったのは、わりと近い時期のことだった。
「今日は何を読んでるの?」
「先週の続き、この前買った秋の花のアレンジの本だよ。……見るかい?」
「いいの?」
あれから幾度となく、この場所で彼女と顔を合わせては他愛ない時間を過ごしている。僕達の間には会わなくてはならないという決まりもなければ、会えたらどうする、何をするという約束もない。ただ僕はいつからか、彼女が仕事を終えて走らせる荷馬車の音を聞き取れるようになり、彼女もまた、いつの間にか僕の本をすらすらと読み耽るほどに、花に対する知識をつけた。それが意味するところは結局、過ごした時間の長さ分の親しみでしかないのだろうが、それだけの時間を彼女と見送ってきた。それはきっと、そう考えると少しばかり特別な響きを持つ。
「ねえ、カミル君」
「?」
「今度、私に花束の作り方……教えてもらえない?」
ぱらりと捲る手元のページに視線を落としたまま、彼女は言った。あまりにさらりと自然で、けれど唐突な言葉はふらり。ぼんやりと考え事に広がっていた胸の奥へすっと溶け込んで、断る、という選択肢が思い浮かばなかったのはどうしてだろう。いいよ、と。答えればやっとこちらを向いた目が、嬉しそうに細められる。
「構わないけど、どうしたんだ?」
「ん?……少し、贈りたい人がいるっていうか」
「?」
「……優しい人でね、きっと何を渡しても受け取ってくれると思うんだけど。でも、花が好きなのはよく分かるから」
せっかくなら、喜んでもらいたいもの。指先に落ちる木洩れ日を摘むように本を閉じて、彼女は言った。厚い表紙を撫でて、小さく笑う。
「私にできる範囲でいいし、そもそもね、本当は一人で頑張れたらいいんだけど……なかなかうまくいかなくて」
「もう試したのか?」
「うん、少し。でもあまり綺麗に作れなくて、何度もやり直すと花もなんか、ね。可哀想だし」
「……」
「お願い。……秋までに、作れるようになりたいの」
柔らかな横顔に少しの切なさにも似た色を滲ませて、彼女はそう呟いた。焦がれる人というものを真面目に見つめたことなどないが、きっとそれはこういう顔をいうのだ。そんなふうに思い浮かべる相手が、否、こんなふうに、彼女に想われる誰かがいるのか。そう思ったらふと無意識にその思考を掻き消したくなって、それこそ何故と気づいてみても明確な答えなどなくて。所在なく目の前に浮かんだ感情をひとまずは瞬きで押し込め、僕は唇に笑みをのせた。
「構わないよ。……そこまで思われたら、君に贈られる人は幸せだな」
ぱっと見せられた笑顔にかかる髪を避け、掠めた頬の体温を指の先が置き去れず覚えている。ありがとう。弾んだ声でそう言われて、流れでどういたしましてと。誰のためにそんなに嬉しそうにするんだい、とは、訊いても良かったのだろうか。
「本当にありがとう。……あのね、カミル君」
「ん?」
どこかおずおずと切り出した彼女に、そんな考え事を中断して眼差しを向ける。かすかに落ち着かないプラムが、呼吸のように瞬いて、揺れた。
「嫌いな花って、ある?」
それはどんな波も訪れないような、この胸の最の果て。心の底のそのまた奥にある、人知れぬ静かな場所なのだと思う。緩やかな思考の漂う、この心臓のその奥に。
「嫌いな?」
「あ、ええと」
「?」
「ないならいいの、何でもない」
さくり、さくり。ざわめきを落とすのは、誰の声か。温もりを残すのは、誰の手か。
「……優しくしてもらってばっかり。いつもありがとう」
今度花を持って行くから、よろしくね、と。慌ただしく言い残して、彼女はその場を立った。礼と共に返された本を受け取って顔を上げればもう、その姿は背中に変わっていて、いっそ呆気ないほどに向こうへと歩きだしているのだけれど。
「……」
どうしてくれよう。これはただの空回る期待か、それとも彼女が残したわずかに甘い憶測への足跡か。
きしりと一人、幹に凭れて僕は思ってみる。ああもしも、僕がもし彼女から贈り物をされたなら、なるほどそれが何であれ受け取ると思われるのだが。
はかられごと
(私の優しい大切な人よ、どうかハッピーバースデーを言わせて)