酸素に溺れる魚のようだ。求め、与えられて渇いてゆく。
「神様、私ずっとここにいたいと思えるようになったんです」
彼女が初めてそれを口にしたのは、季節が移り変わる少し前のことだった。柔らかな口調、いつもと何ら変わりのない笑み。だがその中にいつもとはどこか違った重みを感じて、ざわめく胸に蓋をし、問いかける。
「何が言いたい」
自分で想像したよりも酷く鋭い声音になって、瞬間的に狼狽する彼女が目に浮かび、それを悔いた。しかし彼女はそれには触れず、ただ一度、ゆっくりと瞬きをして口を開く。
「私を、人の理から外してくれませんか」
それは唐突とも、ごく自然とも思える言葉だった。一介の人間が発するにはあまりに突拍子もなく、けれど何故か、いつかこうなることを初めから知っていた気がする。否。
(……望んでいた、のか)
気づいたその事実はやはりどこか頭の奥で理解もしていたことで、己の愚かさに呆れこそすれ、驚きはあまり湧かない。
「お願いです、神様。私のことを、ずっと傍に置いてくれませんか」
なんて、浅はかな。自分を諫めようと声に出さず己を罵る我の傍らで、彼女はまたも追い討ちをかけるようにそんな言葉を溢した。緩慢に心を解き明かされていくようで、恐ろしくなる。
ずっと求めて、けれども素知らぬ顔をし続けてきたはずの願いを引きずり出され、目映さに視界が眩んだ。頷けば、彼女はきっと嬉しそうに笑うのだろう。そして本当に、これから始まる長い日々を、隣で過ごし合えるのかもしれない。けれど。
「それは、無理な願いだ」
「……え……」
「お前は、人間だ。それでしかない」
どれほどの覚悟の果てに、それを口にしたのだろうか。考えるだけで酷く重いものを背負わせてしまった、そんな気がする。
「……ヒカリ」
引き伸ばされた袖の下で震える手を掴めば、彼女はびくりと大袈裟に肩を揺らした。恐る恐る見つめてくる眼差しの中に、相反するような光が揺らめいている。それを打ち消してしまいたい、というのはきっと上辺の嘘でしかなく、本当は喉から手が出るほどに刹那、思い描いた未来を求めているのだけれど。
「お前は、幸福な人間で在るべきだ」
愛しくて、素晴らしいと思える。だからこそ、その生に手を加えたくはなかった。それはあまりにも罪深く思えて、恐れたと言ったら正しいのかもしれない。
そうして、彼女の一番の願いとやらを引き裂いたのが、もう流れた季節の終わり頃。
「神様、これは私の一番のお願いです」
晴れ渡る神の座の中心で、今日もまた彼女は微笑む。少し申し訳なさそうに眉を下げてみせる姿は、まるでこちらの立場や心情といったものまでその目に留めようとしているかのようで、そんなことを考える前に自分を案じろと叫びたくなる。
「……止めろ」
せめてもの継ぎ接ぎのように言葉を吐き出せば、彼女は笑顔を崩さず、それを聞き流した。嗚呼、どうして。
「私を、貴方と生きられる私に変えてください。どんな結末になったって構いません。お願いです、私は貴方を―――」
どうして、くれる。
愛を誓ったのは気紛れでも偽りでもなく、彼女が好きだった。だからこそ、気づかずにいたかった。
自分は彼女の幸せを願える、命の長さは違えどもささやかながら彼女に人間の娘としての幸せを与えてやれる、良い相手でありたかった。本当はあらゆる理をねじ曲げてでも今を永遠にしてしまいたいなどと、そう思う事実に、目を背けて。
緩やかに打ち寄せる願望と時間を、当たり前の顔で見送る。これはそういう恋愛だと、押し込めることで自分を御していたというのに。
「……聞け、ヒカリ」
後に戻れなくなりそうだと塞ぎ合わせた唇を離し、抱き寄せて何処とも知れないどこかへ視線を向ける。霧を挟んで動く下の世界が、果てしなく遠いものに見えた。
「お前を、愛している」
酸素に溺れる魚のようだ。求め、与えられて渇いてゆく。
「それは、私も同じなんです」
言葉を吐き出すたびに焼けつく喉が痛くて、次の言葉を探せない。この強く回された腕が一度でも良い、震えてくれれば。
抱き返そうと愚かに上がるこの手で、初めから無理だったのだと、そう振り払えるのに。
夢の魚とゼーォフルモタメ
(このまま飛び込んでしまいたい)