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あもれ


おとぎ話を紐解くには、柔らかな午後がよく似合う。



「魔法使いさん
「……ん?」
「コーヒー、おかわりいかがですか」

なんて、私は淹れるだけですから可笑しな台詞ですけれど。聞こえやしない呼吸の音だけが波のように満ち引きを繰り返す静けさの中へ、色水を落とすような声で彼女は言った。

「……よろしく。……君の分も、遠慮する必要はない」
「ふふ、すみません。ありがとうございます」
「……こちらこそ」

伸ばされた手に空のカップを渡す瞬間の、ふわりと揺れる空気が好きだ。二人で肩を寄せあって読書に耽るときの静けさも楽だけれど、それをこうしてどちらからともなく破るとき、止まっていた時間が動き出したような感覚に迎えられる。
ほっと一息つく、とでも言うのが近いかもしれない。ぴたりと正しい言葉というのはなかなか見つけにくいものだけれど、きっとこれはそういう類いの、良いざわめきなのだ。先ほどよりも遠ざかったはずの呼吸の音さえ届くような、そんな感覚。

「はい、どうぞ」
「……ありがとう」

湯気を立てるカップを二つ持って戻ってきた彼女のほうへ、手を伸ばして片方を受け取る。熱いですよ、と一切れの言葉を添えて渡されたそれは、傾ければすっかり身に馴染んだ薫りがした。そういえば以前にこの部屋はコーヒーの薫りがしますねと、そう言われたこともあったかと思い出してふと隣を向けば視線が重なった。
赤みがかった眸に、うっすらと髪がかかっている。きっと視界を無花果色にぼかしているのであろうそれを、ごくたまに指の先で分けてやるのが好きだ。驚いたような気配の後に、子供のように目を伏せて笑う。人より少し冷たいこの手にも、いつだって向けられるその表情が好きだ。

「……美味しい」
「それは良かったです」

揺れ動いていた空気が、少しずつ静まっていく。徐々に穏やかになる声や身を潜めていく呼吸の気配に足を伸ばせば、かたりと音がして、背中に控えめな重みがかかった。閉じておいた本を、そっと開く。日溜まりのように滲む温度が、あまりにも自然で心地好い。もうずっと長い間、こうしていたかのようだ。


おとぎ話を紐解くには、柔らかな午後がよく似合う。俺にとって幸せとはいつだって彼女の形をしていて、彼女には暖かい場所がよく似合うから。

いつの間にか後ろで聞こえだしたページを捲る音に紛れて、遠い波の音が聞こえる。開け放った窓辺に揺れるカーテンを一瞥して、俺はまた、古ぼけたインクの跡に目を落とした。




あもれ

(こうして二人は幸せに、)
▼追記

桜花

桜の花が風に散っている。そう思ったそれは、彼女の小さな爪の先だった。


「……さん」
「……」
「チハヤさん」

薄く開いた視界の先で、ぱたぱたと戸惑い気味に揺らされる手をぼうっと見つめる。白いカーテン。風が通るということは窓が開いているのか。瞼の裏側に滲んでいく朝の気配は、いつも感じるものよりずっと濃い。

(……時計、は)

何時だろう。ベッドからこぼれた指の先に落ちる微かに暖かい日差しに、眠る前の記憶を手繰ろうとする。目覚まし時計をどちら側へ置いたのだったか、そんなことを思って動かそうとした視線が、緩慢に伸ばされた彼女の手の落とす影で遮られた。

「……朝ですよ」

ぽつり、と。呟くような声音に返事をしかけて、けれどやがて髪に触れた指先の感触に、僕は口を噤んだ。ふわり、軽やかな手つきで彼女は髪をとく。それは寝癖ではなくて元々の癖なのだけれど、何回言っても触れれば直ると思っているあたり、彼女らしいというか何というか。
それでもこうして実際に手を伸ばされるのは珍しい。というか、滅多にないことかもしれない。ゆっくりと瞬きをすれば幾分か冴えた意識の中で、相変わらず髪を撫でつける彼女が今、どんな顔をしているのだろうかと考える。あまりされ慣れないことだっただけに、何を思っているのか、全く見当がつかなかった。そもそも日頃は、僕のほうが先に目を覚ましやすいのだ。だから。

「……チハヤさん」
「何?」
「……え?」

こうして彼女を見下ろし、揺り起こすことはあっても、見上げることはあまりない。手のひらがさっと退いて、ずっと遮られていた日差しが一気に目に飛び込んだ。染みていく白に片腕で影を作り、もう片方の手で驚いたように固まった彼女の腕を掴んで引き寄せる。小さな悲鳴が上がって、ばさりとシーツが音を立てた。苺色の眸。混乱したように揺らめくそれを、さながら寝惚けたような顔でじっと見つめる。

「え、チハヤさん、いつから起きて……」
「……」
「おはよう、ございます……?」
「お早う。……ねえ、ヒカリ」
「はい?」

光に慣れるまでと額に置いていた腕をそれとなく伸ばし、彼女の髪に触れてみた。柔らかな無花果色に、指を通す。ああ、彼女もこんな気分だったのだろうか。透き通る何かが胸に落ちてくるような感覚だ。けれどそれがどんな言葉で表現すべきものなのか分からないあたり、もしかしたら僕はまだ本当に、寝惚けているのかもしれない。だとすれば。

「何、してるの?」

自分のしたことに意識がないのだって、仕方の無いこと。その一言で片付けてしまえるのだろう。
え、と上げられた声に紛れて、彼女の腕からそっと手を離す。言葉の意味を求めるようにしばしこちらを見つめていた彼女は、やがてわずかに体を離し、みるみる赤面して、そうして転げ落ちるように僕の上から飛び退いた。

「ご、ごめんなさい!あれ?でも私、違うんです、これはさっきチハヤさんが」
「まあ、寝坊したのは僕みたいだし?大丈夫、これ以上は訊かないでおいてあげるから安心しなよ」
「いえ、あの、本当にちが……!」

パニック、というのはこういうのを言うのだろうかと、耳まで赤くして必死に訴えかけてくる彼女へ笑顔を向けながら思う。片腕を押さえたり頬を隠したりしながら困惑を隠しきれずにいる姿に、自然といつもの笑みが零れた。
ああやっぱり、僕はこのほうが性に合うらしい。不似合いに髪を撫でてみたところで感情に形は見出せなかったけれど、今なら分かる。本当はもう少し長く、触れていたかった。

「さ、支度しないと。朝ごはんはもう作った?」
「いえ、だからあの……!」
「ほら分かったから、どいて。顔洗ってくる」

なんて、絶対に口には出さないけれど。
歩き出す足元に、白い日差しが折れながら伸びている。後ろのほうで何やら切羽詰った声が色々と言っているけれど、僕は振り返ることもなく間延びした返事だけをして進んだ。開け放たれた窓から、秋の風が入り込む。今日はずいぶんと、眩しい朝だ。




桜花

(眩む世界に色づけられる)
▼追記

夢の魚とゼーォフルモタメ ※神ヒカ・切甘


酸素に溺れる魚のようだ。求め、与えられて渇いてゆく。



「神様、私ずっとここにいたいと思えるようになったんです」

彼女が初めてそれを口にしたのは、季節が移り変わる少し前のことだった。柔らかな口調、いつもと何ら変わりのない笑み。だがその中にいつもとはどこか違った重みを感じて、ざわめく胸に蓋をし、問いかける。

「何が言いたい」

自分で想像したよりも酷く鋭い声音になって、瞬間的に狼狽する彼女が目に浮かび、それを悔いた。しかし彼女はそれには触れず、ただ一度、ゆっくりと瞬きをして口を開く。

「私を、人の理から外してくれませんか」

それは唐突とも、ごく自然とも思える言葉だった。一介の人間が発するにはあまりに突拍子もなく、けれど何故か、いつかこうなることを初めから知っていた気がする。否。

(……望んでいた、のか)

気づいたその事実はやはりどこか頭の奥で理解もしていたことで、己の愚かさに呆れこそすれ、驚きはあまり湧かない。

「お願いです、神様。私のことを、ずっと傍に置いてくれませんか」

なんて、浅はかな。自分を諫めようと声に出さず己を罵る我の傍らで、彼女はまたも追い討ちをかけるようにそんな言葉を溢した。緩慢に心を解き明かされていくようで、恐ろしくなる。
ずっと求めて、けれども素知らぬ顔をし続けてきたはずの願いを引きずり出され、目映さに視界が眩んだ。頷けば、彼女はきっと嬉しそうに笑うのだろう。そして本当に、これから始まる長い日々を、隣で過ごし合えるのかもしれない。けれど。

「それは、無理な願いだ」
「……え……」
「お前は、人間だ。それでしかない」

どれほどの覚悟の果てに、それを口にしたのだろうか。考えるだけで酷く重いものを背負わせてしまった、そんな気がする。

「……ヒカリ」

引き伸ばされた袖の下で震える手を掴めば、彼女はびくりと大袈裟に肩を揺らした。恐る恐る見つめてくる眼差しの中に、相反するような光が揺らめいている。それを打ち消してしまいたい、というのはきっと上辺の嘘でしかなく、本当は喉から手が出るほどに刹那、思い描いた未来を求めているのだけれど。

「お前は、幸福な人間で在るべきだ」

愛しくて、素晴らしいと思える。だからこそ、その生に手を加えたくはなかった。それはあまりにも罪深く思えて、恐れたと言ったら正しいのかもしれない。


そうして、彼女の一番の願いとやらを引き裂いたのが、もう流れた季節の終わり頃。


「神様、これは私の一番のお願いです」

晴れ渡る神の座の中心で、今日もまた彼女は微笑む。少し申し訳なさそうに眉を下げてみせる姿は、まるでこちらの立場や心情といったものまでその目に留めようとしているかのようで、そんなことを考える前に自分を案じろと叫びたくなる。

「……止めろ」

せめてもの継ぎ接ぎのように言葉を吐き出せば、彼女は笑顔を崩さず、それを聞き流した。嗚呼、どうして。

「私を、貴方と生きられる私に変えてください。どんな結末になったって構いません。お願いです、私は貴方を―――」

どうして、くれる。

愛を誓ったのは気紛れでも偽りでもなく、彼女が好きだった。だからこそ、気づかずにいたかった。
自分は彼女の幸せを願える、命の長さは違えどもささやかながら彼女に人間の娘としての幸せを与えてやれる、良い相手でありたかった。本当はあらゆる理をねじ曲げてでも今を永遠にしてしまいたいなどと、そう思う事実に、目を背けて。
緩やかに打ち寄せる願望と時間を、当たり前の顔で見送る。これはそういう恋愛だと、押し込めることで自分を御していたというのに。

「……聞け、ヒカリ」

後に戻れなくなりそうだと塞ぎ合わせた唇を離し、抱き寄せて何処とも知れないどこかへ視線を向ける。霧を挟んで動く下の世界が、果てしなく遠いものに見えた。


「お前を、愛している」


酸素に溺れる魚のようだ。求め、与えられて渇いてゆく。

「それは、私も同じなんです」

言葉を吐き出すたびに焼けつく喉が痛くて、次の言葉を探せない。この強く回された腕が一度でも良い、震えてくれれば。
抱き返そうと愚かに上がるこの手で、初めから無理だったのだと、そう振り払えるのに。




夢の魚とゼーォフルモタメ

(このまま飛び込んでしまいたい)
▼追記

メタモルフォーゼと魚の夢 ※神ヒカ・切甘


声だけで叶うような願いではない。初めからそんなこと、理解している。



「分かってください、そろそろ」

我ながらずいぶんと酷いことを言っているなと、頭の中では十分に分かっていた。故意に傷つけるような言葉は、本当は選びたくなかった。まして、彼へ向けてのそれともなれば同じように、発した私の胸さえも抉る力を持つ。

「……聞き分けのない」
「……」

数秒、こちらを見据えてから、彼は重たい息と共にそう吐き捨てた。私は微かに震えそうになる指の先を両手で絡め合って、何事もなかったかのように無言で小さく笑みを浮かべる。呆れられただろうか。そんな今さらな懸念が胸を占めて、嘘です、と口走ってごまかしたくなるから唇を引き結ぶ。
聞き分けのない娘だと、呆れられたくはない。嫌われることは恐ろしい。けれど、それ以上に。

「簡単に頷けるわけがなかろう。……お前を、人の理から外せ、など」

それ以上に、彼にこの決意が一時の脆いものだと思われたくない。言葉で打ち付けられたくらいで揺らぐものだと、そう思われたくはないのだ。そんなものではない。
私とて、人として当たり前に生きてきた思い出がある。そしてそれは普通ならば、これからも続いていく。断ち切り、別のものとして歩き出すと決めることに躊躇いがなかったとは言えない。だからこそ、それを越えても傍へ行きたいと思った覚悟を、疑われたくはないのだ。それに。

「……平気ですよ、私」
「何が、だ」
「どんな姿になっても、どんな未来が目の前に来ても、神様を恨んだり憎んだりしません」
「!」
「できません、から。私、どんな状況になったとしてもそれはできません。自分で痛いほど分かっているから、お願いしているんです」

彼は、優しいから。私の覚悟を疑いこそしなくても、一筋でも揺らぎを見れば、決して首を縦には振らなくなってしまうだろう。私には時間なんて限られていることを分かっていながら、だ。そうしてきっと有限でも永遠だなどと、孤独を潜めて私に微笑みかけるに違いない。

「だから、傍に置いてください。私を、貴方の時間の隣に」

私はそれが何より、怖いのだと思う。私に間違った選択をさせないためなら、彼は私の生きる時間くらい、寂しさを押し殺し続けるだろう。そうしてきっと、私だけが満たされていなくなる。そんな仮初めの幸せを、与えられて眠るのは不本意だ。

「神様、これは私の一番のお願いです」
「……止めろ」
「私を、貴方と生きられる私に変えてください。どんな結末になったって構いません。お願いです、私は貴方を―――」

譲れないのは、同じだ。きっと私は彼が思う以上に、私の未来がどうあってもいいと思っている。ひとえに、彼が傍にいれば。
残酷な願いだ。神様として悪いことをしてくださいと、そう言っているようなもの。口にするたび、彼の葛藤を量りきれなくて胸が軋む。それでも私は、決意を変えることはできないのだ。


声だけで叶うような願いではない。初めからそんなこと、理解している。だから貴方に届くためなら、私は何でも差し出そう。どんな姿になっても、最後に息さえ残るなら、幸せだと言える自信がある。
だって、きっと抱き締めてくれるだろう、貴方なら。例え魚は魚のままで、分相応の形にしかなれなくとも。中途半端でも、生きてさえいれば心は其処に詰め込むことができる。

(貴方を、愛してる)

言葉を遮るように塞がれた唇が、爛れるように痛い。叩きつけるように声にできなかった感情を思い想って、私はその背に腕を回した。
ああ、この口づけがもし、優しい優しい呪いのキスだったらいいのに。




メタモルフォーゼと魚の夢

(歳月なんていらない、貴方の愛でありたい)
▼追記

メテオの心臓


欲しいものは何もない。そう言えたらどんなにか楽だろう。



「魔法使いさんも、お願い事なんてしますか」

絹のような平たい、雲一つない夜空が視界を覆う。首を伸ばして見上げていた濃紺から視線を隣へ移せば、同じように上を向く横顔が目に入った。ふわり、無花果色の髪が風に揺れて、その瞼を浅く隠す。

「……どうして?」

伸ばした手の先もぼやける闇の中では、たったのそれだけでも表情を分からなくさせるには十分で。彼女が何を思ってそれを訊いたのか、俺には読み取れない。それとなく問えば、彼女はぽんと息をつくように答えを返す。

「何となく、気になっただけです」
「……そうか。俺は、あまりしない。……ヒカリは、何か願うの?」
「はい」

あまり間を空けずに返ってくる答えは、どこか弾んだ声音をしている。風がまた吹いて、今度は彼女の表情を晒した。夜空を見つめるその横顔にはいつの間にか、例えようのないほどに柔らかな笑みが乗っていた。ふいに月明かりを浴びるその頬に手を伸ばしたくなって、そっと瞬きをする。

「……どんなことを?」

途切れかけた言葉を継ぎ合わせて、そう訊いてみた。願い。自分にはよく分からない。

ない、とは言えないのだ。例えば今だって、叶うならたくさんのことを願いたい。自分のこと、彼女のこと、それ以外。願い事なんて思い浮かべればきりがなくて、だからこそ星に願いたい一番、が決められない。
きっと自分は案外、欲張りなのだ。隣で問いの答えを考えて私は、と呟いた彼女を見つめて、そう思った。日頃から小さなことに心を浮き沈みさせる彼女のこと、この答えもきっと俺と違い、シンプルで素朴なものなのだろう。そう思ったけれど。

「私は……、願い事って数えきれなくて」
「……え?」
「だから、いつも決まったお願いの台詞を使います」

振り返って微笑んだ、彼女の背後で。濃紺の空を裂いて音もなく星が流れる。あ、と唇だけを動かせば彼女もまた顔をそちらへ向けた。その空で、二つ目の星がまた流れる。


「私と私の大切な人たちが、これからも変わらず幸せでありますように」


問いの答えは夜空に向かって投げられた。その言葉のあまりに広い意味を頭が理解しきるより先に、彼女はこちらを向いて笑う。

「……ね、狡いでしょう。いけませんか」

俺は黙って首を横に振り、同じように笑い返した。


欲しいものは何もない。そう言えたらどんなにか楽だろう。自分のこと、彼女のこと、それ以外。望みはどう数えても尽きなくて、一番なんて選ぶことは難しい。
だけれど、選ぶなら。

「――――――、」

大きな力や富をひとつ、ではなくて。俺達は多分、いくらでも積み重ねられる見知った幸せこそ、両手いっぱいに欲しい。




メテオの心臓

(煌めいて、過ぎ行く)
▼追記
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