特別なものほど隠したくなる、心臓は宝石箱に似ている。
海に囲まれたこの大陸に、珍しいエア・メールが届いたのは雨の日のことだった。貴方宛みたいだわ、と、アクセサリーコトと書かれた宛名の下にある名前を見たミオリさんがそれを差し出す。店宛だとばかり思っていた私は少し驚いたけれど、差出人の名前には見覚えがあったから、すぐに開封した。
(懐かしいわネ、何かあったかしら)
手紙を開けば、相変わらず癖の強い字が並んでいる。何かの報告だろうかと身構えたけれど、そうではないようだということはすぐに手紙の短さから読み取れた。さらさらと内容に目を通して、瞬きを一つ。喧騒に満たない雨の音が、静けさを煽るように窓の向こうで鳴っていた。
「はい、コレよ」
「わあ、綺麗ですね。ジュリさんが作ったんですよね?」
「モチロン。どうかしら、悪くないと思わない?」
ガラスケースから取り出した真新しい指輪に、濃淡の強い化粧を施した見慣れない横顔が、見慣れた顔で笑う。貝殻のように重ねたアイシャドウの下で輝く目はいつもと何ら変わらない彼女そのもので、当たり前ではあるのだけれどそこにあって存在していない変化に、妙な安らぎに似た安心を覚えた。
「悪くないなんて、すごく素敵だと思います。本当に」
「そう、アリガト。貴女、そうやって笑ってるとやっぱりヒカリなのよネ」
「え?」
「こっちの話。想像以上に化けたわって、ちょっとビックリしてるの」
驚きも安心も何も、そもそも彼女を別人にする意気で仕立てあげたのは他でもない、自分であるのだけれど。主語を飛ばした答えに首を傾げたヒカリを今一度見下ろして、何でもないわと肩を竦める。
ミオリさんに借りたドレスに着替えてもらったところを椅子に座らせて、ちょっと静かにしてなさいと化粧品に手をつけたときは、我ながらここまで本気になってしまうとも思っていなかったのだけれど。日頃は仕事柄か、あまりこういったことに手をかけない彼女は色を一つ重ねれば重ねるほど別人のように変化を遂げて見え、つい根底の凝り性が疼いてしまった。途中から、実際の目的以上に楽しんでしまったのは否定できない。まあ、もっとも。
「サイズは大丈夫よネ」
「はい。この指でいいですか?」
「ええ。アラ、似合うじゃない」
写真を通してしまうのだから、結果的にはこれくらいでちょうどいいのかもしれないが。普段の彼女を知らない人間が見るのだから、今日は彼女らしくなどというよりも、それらしく見えるほうがいい。銀とガーネットの指輪を通した指が、ひどく上品に見えて笑った。この手が日頃は土を耕して草木に触れて生きているなんて、一体誰が想像できよう。
「ちゃんと怪我しないでいてくれて、助かったワ」
「だって、ジュリさんがすごく念を押したから」
「仕方ないじゃない?せっかく写真に撮るのに、指輪の隣に絆創膏じゃあ、冗談にもならないもの」
でもね、きっと大変だったでしょう。ありがとう。花瓶やブローチを並べたテーブルに椅子を一つ置いて座るよう促しながら言えば、彼女は一度瞬きをしてから、いつもの調子でいいえと微笑んだ。そう、と笑い返したが、さすがにそれを真に受けることはできない。彼女の仕事で細かな傷を防ぐことがどれほど大変か、想像にすぎないが、よほど気を遣って生活したのだろう。
「ジュリさんが撮るんですか?」
「これでも結構、慣れてるのヨ。前はよくこうして、仲間内で新作を撮り合ったから」
証拠に、レンズを通して見た指先は、数日前とは比べ物にならないほど手入れが行き届いていた。もうちょっとこっち、と引き寄せる傍ら、素直に綺麗な手だと思う。これなら期待通りか、いっそ越えたくらいだ。わずかにカメラを上げて、シャッターを切る。
「えっ?今もう撮ってるんですか?」
「さあ、どうかしら。あんまり気にしなくっていいわヨ」
「え、えええ」
「普通にしててくれればいいの。心配しなくても、ちゃんと後で厳選するんだから」
「それはそれでちょっと、恥ずかしいような気がするんですけど」
「平気ヨ、平気」
予想通りの反応に笑いながら、もう、とはにかんで目を伏せた瞬間を、もう一枚残した。
彼女にこの話を持ちかけたのは、一週間近く前のこと。あの雨の日のエア・メールがきっかけになる。
差出人は、数年前に海を跨いだ町で知り合った同い年のデザイナー。衣装の制作を目指していて、その頃から少しずつアクセサリーの制作に手を出し始めていた自分とは、何度かペアを組んで小さなショーに臨んだこともあった。
この大陸に戻ってからはほとんど連絡を取ることもなくなっていたが、先日、そんな彼から久しぶりに届いたのはある誘いだった。雑誌で数ページに渡って広告を出せることになったから、良かったら一つくらい、何か載せてみないかと。
ただし、と。一つ記してあったのは、今からこちらへ呼んで間に合う期間ではないから、写真を自分で用意して送ってほしいとの条件だった。
「あの、ジュリさん」
「何?」
「何か喋ってください」
「すごく似合ってるわヨ?」
「だ、だから、あの。そういうのじゃないことを」
斯くて、彼女に白羽の矢が当たったわけである。なぜと問われると論理的な理由があるわけでもないのだが、ちょうど構想していた指輪のイメージにぴたりと当てはまる気がして、牧場に出向いてみた。戸惑ってはいたが、最終的にはジュリさんが私でいいのならという、何とも彼女らしい返答をもらって今に至る。
いいも何も、どこが悪いと思うのと、できることなら視界を交換して見せてやりたい。文句などどこにもないでしょう、と。そうしてふいにレンズの向こうに光が差し込み、今かもしれない、と思ったとき、ふと一瞬の高揚に混じった何か別の感情に、指を止めてしまった。
「ジュリさん?」
返事をしようとして、開きかけた唇を閉じた私に、レンズの向こう側の彼女が顔を上げる。その瞬間が、なんだかよくできた映画のように見えて。ああ今だ、と思っているのに、シャッターが押せない。
どうしたんですか、と。問いかける目の色にとても似た、ガーネットが。白い指の上で相反するように輝いている。この瞬間が写真に収められて雑誌になって引き延ばされるまでが、たやすく想像できた。どうしたんですか、と。カメラではなく私に向けられているからこそできる、いつも通りの、彼女の眼差しだった。嗚呼。
「……シモンさんに、撮ってもらうべきだったかしらネ」
「はい?」
「ヒカリ、ちょっと手貸してちょうだい。はい、そう。そのままネ」
こんな写真を送ったら、勘の鋭いあの友人にはきっと何もかも見透かされて、遠い町で笑われるところが目に映るようだ。けれど、それくらい安いもの。
こんな、今にもねえ、と声が聞こえそうな親しみを込めた眼差しを。向けられているのは紙の向こうの誰でもないのだということを、その宣言を、諦めることに比べれば。
指輪を飾られた手を取って、その指を絡めた自分の左手ごと、こちらを向いた彼女をフレームに収めた。
特別なものほど隠したくなる、心臓は宝石箱に似ている。晒したくて、閉じこめたくて、扉越しに見せるくらいが一番心地いい。
「手紙が届いてましたわよ」
撮影から数日経った、ある午後のこと。町へ行っていたミオリさんが、町長から受け取ってきた一通のエア・メールを受け取って、私は封を切った。差出人は字で分かる。一枚きりの便箋を、奥のソファに腰かけて広げる。
「……っふ」
相変わらず癖の強い字が、愉しげに踊っていた。どこか清々しい気分で苦笑して、それを折り畳む。
後で彼女に、写真が無事向こうへ届いたことと、なかなかの評判だったことを伝えに行かなくては。この手紙は、忘れずに持ち帰って早めにどこかへしまってしまおう。鈍感な子だと思っているけれど、さすがに見せるわけにはいかない。私は薄く騒がしい手紙を封筒に戻して、ミオリさんに外出を告げに行った。
箱の歌
(「今度は撮影なんかじゃなく、普通に受け取ってもらえるように頑張れよ」)