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静脈は夜明け前

(覚えてる、本当は何もかも与えられたこと)
(せせらぎのような声、木漏れ日に似た手)
(だけど聞こえなかった、大きく揺れて、零れて)
(教えてよ、あのときなんて言ったの?)

(ゆりかごに忘れた歌を聴かせて)


 時々、本当は自分がまだ何も知らないんじゃないかという錯覚に陥る。
 感情、心、意思。目に見えないそれらの持ち物を、手に入れたつもりでいることは幻覚で、本当のところ、僕は何も持ってなどいないんじゃないかと。
 夢を見る。子供の頃の、一人で立った広いキッチンの夢を。シンクの銀色を。そこに落ちた一滴の水を覗き込むとき、僕を映していたはずの水が、僕の目の中に入ってきてあっというまに体を侵食する。
 冷たい、冷たい水の流れに戸惑って、目を覚ます。
 大抵、悪夢でもないくせに、背中に一筋の汗が流れている。

「あ、チハヤさん。おはようございます」

 うなされているわけでもないから、君は僕を起こさない。

「おはよ……、僕、いつ寝た?」
「夕食が終わって、テレビを観ていたときですね。一時間くらい前ですよ」
「あー……そうなんだ」
「疲れてたんじゃありませんか。最近、酒場も前より混んでいるみたいですし」

 うん、と曖昧に返事をして、再びテーブルに突っ伏す。悲しいわけではないから、僕も、何も言わない。
 夢の話をするのなんて、それこそ君のようだし、それがどうしたと昔はずいぶん言ったような気もする。僕は眠るときに、夢を見なかった。それこそ、もう何年も、十年以上も。

(別に、覚えてなかっただけかもしれないけど)

 何か飲みますか、と振り返った君に、冷たい水をと頼みかけて温かいものが飲みたいと言いかえる。紅茶を淹れましょうか。ささやかな、ほとんど独り言みたいな確認。僕も君も、あまり珈琲を飲まない。ホットミルクは、君だけが、時々。

「ヒカリ」
「はい?」
「砂糖ひとつ入れてくれる?」
「珍しいですね」
「……早く目を覚ましたいんだ。まだ寝ぼけてる」

 暖炉に赤々と火が入れられて、こんな、寒くもない豊かな部屋で。脚がまだ夢に浸かっているみたいに、凍えている。冷えた指がのろく動くのと同じで、今の思考は鈍く、緩慢だ。ぎしりぎしりと、拙く回転する。噛み違えて、固まる。
(僕、は)
 冷たい水の流れる音が、体中から聞こえるようだ。夢の中でシンクから潜り込んできた、一滴が奔流となって、僕の中にある。それはひどく冷たく、饒舌な水で、ゆっくりと語りかけながら流れていく。
 ああ、目に見えないものはよく分からないな、と。
 それはそれは懐かしい、幼い僕の声で。

「どうぞ」
「ありがとう」

 カップを二つ、テーブルに置いて、正面に座る君を見ている。正しくは、僕と君を繋いだ、見えない線を探している。
 君でなきゃ嫌だな、という想いが「愛している」という言葉を作り、結婚という型に二人、互いの心を流し込んだ。型抜きされてできあがったのが、今の生活なのだと思う。けれど輪郭は見えない。見えないものばかりを、何度も何度も確かめあって。

「……さん。チハヤさん?」
「……あ、ごめん。何?」
「冷まさないと、火傷しますよ。まだ熱いですから」

 どんなに言葉を尽くしたところで、見えないものは、はたして本当に同じかどうかなんて確かめようがないのに。
 ふ、と笑って舌を焼くような熱さを飲み下した僕のことを、君は真ん丸な目をして見つめる。それから慌てて、寝ぼけすぎです、なんて見当違いな怒り方をする。もう起きてるよ、誰かさんじゃあるまいしと答えて、唇にこぼれた紅茶を舐めた。
 かすかに甘くて熱い。冷たい水を侵食していく。
 少しだけ、ゆるやかに回り出す思考。
 僕はカップの陰で、君から見えないように自嘲する。考えてもどうしようもないことばかり、考えるのはどうしてだろうなと。確かめようのないものだと分かっているのに、確かめたくてたまらない。

 僕が「愛」と呼び、信じて君に差し出しているこの感情が、本当に愛であるのかを。
 君が「愛」と呼び、僕に約束した、あの温かな言葉の中身と同じものであるのかを。

 だって、知っていたけれど忘れてしまった。記憶に刻む前に、なくしてしまった。感情、心、意思、見えないものを一つにまとめて、誰かと共に暮らすということを。
 愛されなかったなんて言わない。ただ僕が、忘れてしまっただけだ。幼さを捨てて、一人で生きていこうと思う中で、たくさんのものを自ら手放してしまった。くだらない、無駄なものだと言って。もうこの先、誰かとまた見えない線を結ぶことなんて、ないと思って。

 そうして「いらない」と捨て去ったものたちを、集め、組み立てて、僕は君と共にいる。
 継ぎ接ぎだらけの感情の形が、綺麗に作れているか、確かめる術はないから時々、ひどく不安になって。僕の体を巡る、この水は不安だ。継ぎ接ぎの中を通り抜け、静脈を駆け、僕を浸していく。
 ああでも、それでも。

「……あ」
「どうしたの」
「間違えてました。そっち、私のカップですね」
「え?」
「どうりで、お砂糖二つ入れたのに、さっぱりしてると思ったんです。甘すぎませんでした? 淹れ直しましょうか」

 ささやかな、ただの日々が、理由もなく胸を締めつける。こんな相手は君しかいない。優しくて、わけもなく温かくて、少し居心地が悪いくらいで。それなのに、この場所を出られない。君を手放したら、きっと今度こそ、僕はもう誰とも線など結ばないだろう。
 それだけは、誰に確かめずとも確かなことで。

「いいよ、これで。なんか、目も覚めたし」

 世に一番溢れている普通の愛かどうかなんて一生分からないけれど、僕は君に、君なんていらないよとは言えないのだから、きっとこれが。



静脈は夜明け前

(冷たい水をひそめて手探り)

片道蝶々


 振り向く瞬間、肩にひらり。影だけ落とす、蝶のように。


 正午を知らせる役場の鐘が、どこまで聞こえるか、なんて考えたことはなかった。ガララン、ガララン、と教会のそれより低く、華やかではないが耳に騒がしくもない音色。風は海へ向かって流れていて、潮の香りはあまりしない。向かい風、やんでまた一息つくころに、また一筋。

「……なに」
「え?」
「何、見てるの。さっきから」

 それとは別に、左から。気づきたかったわけでなくても、視界に入る視線。白い教会と緑の植え込みを背景にして、その眼差しの色は不釣合いに赤く、景色だと誤認するには限界があった。さしずめ苺のジャムか、コンポート。頭の奥のほうが、勝手にそんなことを考えて。煮えた果実は脳裏へ沈む。
 ヒカリ。返答を促す意味を込めて呼べば、はい、と。分かっているのかいないのか、彼女はまだ僕の顔をじっと見たまま、一応は言葉をまとめているような顔をして、ええと、と口にした。

「お隣、座ってもいいですか?」
「ご自由に」
「じゃあ、お邪魔します」

 少し、拍子抜けというか、脱力したのは否めなかった。なんだそんなこと、と、律儀に挨拶をして僕の腰かけているベンチへ向かってきた彼女を眺める。教会から出てくるのが、似合わない格好だ、と思った。乾いた土と、ほのかに太陽の匂い。
 かくいう僕もこんな、海を背にした広場のベンチなどが似合った格好ではないけれど。袖をまくったシャツにエプロンを着けたまま、紙袋を抱えて脚を組んでいる。めったに来ないところへ来て、めったにしないことをしているときに限って、偶然にも誰かに会ったりするものなのだと漠然と痛感した。
 空いた席に向いていた爪先を、反対の足と入れ替える。紙袋を下におろしたら、石畳と触れ合って硬い音を立てた。

「なんですか? それ」
「ボウルとか、泡立て器とか。調理器具が色々」
「雑貨屋さんの帰りですか」
「そう。ちょっと、古くなってきたから」

 当たり障りのないやり取りでも、とりあえず何か話すのは性分なのだろうか。へえ、と頷いた声の調子に、前にもこんなふうに相槌を打たれたことがあった、と耳がふと思い出す。
 一度や二度の話ではなく、ああそうだ。少しだけ笑った声が引き鉄になって、やっと分かった。いつも酒場で、カウンターから話しかけられて、ほとんど料理に意識を持っていかれながらも適当な返事をすると、彼女は大体、嬉しそうに相槌を打って笑う。

「チハヤさん?」
「何?」
「あれ? 今、笑いませんでしたか」
「そう? 別に、笑ってないと思うけど」

 カクテルが入っているから、ふわりふわりと話すのかと思っていたのに、元々の口調だったらしい。そのことに気づいて少し、可笑しくなったかもしれないし、どうとも思わなかったかもしれない。
 空耳かなあ、と独り言のように言うから、そうかもねと独り言のように返した。返答はなく、それきり。短いような長いような、浮雲のように漂うだけだった会話はそこで終わる。

「……」
「……」

 三人がけには狭く、二人がけにはやや広いベンチ。端と端に座っているおかげで、無意味に空いた中心の、その空白に溜まった沈黙に気づかないふりをする遊びをしたいわけでもないのに。買い物が終わって、酒場へ戻るには少し時間があるからと、元より一人で時間を潰したくて座った席だった。隣人ができてしまった今となっては、もうここにこうしている意味もない。
 それでも何となく、立ち上がれずに気づけば足を投げ出して、背もたれに腕をかけ、頬杖をついたりしているのは。

「……あ」

 向かい風が吹いて、思考と一緒に前髪をさらい流していった。押さえた指に髪が絡んで、視界の隅でアプリコットオレンジが散らばる。ずれたヘアピンを手探りでとめ、ふと、横を向いたら目が合った。零れそうに瞬いて、双眸は細められた。

「綺麗な色ですよね」
「え?」
「目と、髪が。教会から出てきたときも、そう思ったんですけど」

 いつもは酒場の橙色の明かりの下で見ていたから、これほどよく分かりませんでした、と。柔らかに、そう言った声は耳には入ったが脳を通り過ぎた。何、見てるの。そう聞いたときは欠片も言わなかったくせに、とっくに話も終わってから。
 唐突すぎて、世間話の一端だ、なんて思う暇もなかった。

「綺麗、って。それ、褒めてるの?」
「はい」
「……即答なんだ。そこは」

 躊躇う素振りもない答えに、戸惑いを通り越して笑ってしまう。なんて呆気なく、真っ直ぐで、清々と毒のよう。言われて喜ぶ言葉でもないのに、あまりにも当たり前のように言うから、呑んでしまった。

「どうも、ありがと」

 振り向く瞬間、肩にひらり。影だけ落とす、蝶のように。触れも掠めもしなかったのに、確かに認識してしまった気がした。その存在を。
 頬杖をついていた手のひらを外して、一人分には小さい空白の向こうの隣人を改めて見る。無花果色の髪が揺れていた。風が折り返して、潮風に変わる。立ち上がった彼女の背を押して、短い坂を下らせていった。ああ僕はまだ少し、ここにいるようだ。



片道蝶々

(ひといろの影がさざめいた)

▼追記

アプロスの鳴き声


 息をするように、不確かなことを紡ぐから。


 白い窓枠の中に、見慣れた横顔を見つけたのは偶然だった。午後三時、窓際、片側だけ日の射した席。いつでも誰かが座っているようで、案外いつでも空いている。特等席のようでそれほどでもない、一番人目に晒される席に彼女はいた。
 レストランのドアに吊るしたベルが、カランカランと来客を告げて響く。いらっしゃいませ、と声が活気づく。

「やあ」

 すべて聞こえているはずなのに、彼女は振り返りもしなかった。入り口に背中を向けて座り、窓の外を見ているわけでも、本を読んでいるわけでもなく。ただ、グラスの氷でも数えているみたいに、余計なことは何も気にしていないようだった。
 声をかけると、やっとこちらを見上げて、今気がついたような顔をする。瞬きの中に、金の粒が散った。それは僕の後ろの天井に下げられた、薄い電気の光だった。

「チハヤさん。こんにちは、休憩ですか?」
「うん、そう。君もかな」
「はい。少し、冷たいものが飲みたくなって」
「……ふうん?」

 言って、からからと手の中のグラスを揺らしてみせる。アイスティーの残りは半分ほど。

「一人?」
「はい」
「ここ、僕が座ってもいいかな」
「もちろん」

 向かいの席を指して言えば、ヒカリはいつもの笑顔を浮かべて、躊躇うこともなく頷いた。木製の椅子が、床板に擦れる。大袈裟な音を立てるのが嫌で、けれども何だか、無音で腰かけるのも嫌で。
 がたんという音を一つだけ立てて、僕は彼女の正面に腰かけた。日射しが左腕の肘から先にだけ、斜めに落ちる。

「カーテン、引きましょうか」
「いいよ、そんなに長居しないし」
「あれ、そうなんですか? てっきり……」
「何」
「久しぶりに、ゆっくりお話できるかと思ったのに」

 残念ですね、お忙しいんですか。アイスティーを一口、多分、飲んで彼女は言う。黒いストローは真偽を見せない。水滴が一つ、彼女の指を伝う。
 苺のような双眸が、こちらを向いた。この席についてから初めて、彼女が僕と目を合わせた瞬間だった。

「しないよ、長居なんて。どうせすぐ帰る」
「そうなんですか」
「だから、安心して」

 え、と。小さな疑問の声が上がった。同時に僕のところに、オレンジジュースが運ばれてきた。会話は一旦、そこには何もなかったかのように消え入る。同じ、黒のストローが刺さっていた。沈黙を飲むように、冷えたジュースを一口飲む。酸味と甘味が、突き抜けるような冷たさと一緒に流れ込んだ。

「チハヤさんがいてくださったほうが、私は嬉しいですよ?」
「へえ」
「どうして、そんなふうに言うんです」

 困ったように、寂しい顔を隠すように。彼女は眉を下げて、首を傾げて微笑った。
 ああ、まただ、と心の中でそれを指差す。また、そういう淡やかな嘘を、君はつくんだね、と。
 分からないの、と言えば、彼女は何も言わなかった。ただ、困惑した顔をしていた。その顔をしたいのは、僕のほうだ。彼女は近頃、まるで分からない。

「そこにいた人が、帰ってくるかもしれないでしょ。いいの? そのとき、僕が一緒にいて」

 一思いにそう言って、僕は彼女のすぐ隣を指差した。四人がけの席の、彼女が座っている椅子の隣。テーブルに一つ残された、まだ乾かない水の輪がある。
 誰かがそこに、グラスを置いていたのだ。僕が来る前であり、彼女が来てからのいつかの間に。拭き取ったあとがないのだから、彼女の前にいた誰かではない。彼女と一緒に、その隣にいた誰かのものだ。

 彼女のグラスの氷はもう、ほとんど溶けかかって、小さくなって浮かんでいる。そんなに長い間、誰といるのでもなく、本を読むのでもなく、代わり映えのしない窓の外さえろくに見ないでいるなんて、いくら彼女がぼんやりとしているといったって、あまり考えられない。
 まして隣の席に残された形跡を見れば、一人でいたわけではないのだと、そう考えるのが妥当だ。それなのに、彼女は僕の言っていることが分からないというように、首を横に振った。

「帰ってくるも、何も。今日は一人で来たんです」
「一人で来て、誰かと待ち合わせたとかじゃなく?」
「違いますよ。どうしてそう思うんですか」
「どうしてって。それは、君が最近おかしいからだけど?」

 日陰が、まるで彼女をその本心ごと覆い隠そうとしているみたいで気に入らない。勢い任せに言い切ってから、ああ言っちゃった、と思ったけれど、もうそれならそれでいいかとも思えてきていた。後に退けない話になっても、どのみち限界だったのだ。
 彼女の最近の態度の変わりようが、僕にはもう限界だった。

「本当のことを言わないで、こうやって僕が戸惑っているのを見て楽しい?」
「チハヤさん、話が」
「分からない、っていうんなら、分かってくれないかな」
「……え、と」
「戸惑ってるし、苛立ってるんだよ。――このところ急に、僕のこと、避けるようになった君に」

 頭の中では色々と、冷静なことも考えていた。ああこんなところで話すことじゃないんだよな、とか、できればこういうのは他の誰かに聞かれたくないけれど、絶対聞かれるな、だとか。幸い客は少なかったし、音楽が流れていたけれど、誰にも聞こえていないとは思えない。
 でももう、そんなことどうでもいいか、と思っている僕もいた。そして今は、その僕のほうが僕の中の大部分を占めていた。

 ――彼女は近頃、ずいぶんと嘘つきだ。

「……翻弄されたくない。駄目なら駄目って、はっきり遠ざけてもらえないかな」
「どういう意味、ですか」
「友達だから今までどおり、とか思ってるのかもしれないけど、あからさまに避けられるのって、それはそれで引っかかるんだよね」
「え?」
「……そのくせ、僕が離れようとすると残念とか言うし。避けたいのかそうじゃないのか、君の考えてることが、分からないんだけど」

 毎日のように会いにきていた酒場にも、まるで顔を出さなくなった。出しても、以前なら迷わず僕のすぐ後ろの席に座っていたのに、最近は壁際のテーブルに行く。料理を持っていくと、嬉しそうに笑う。そして二、三、話をしたがるみたいにどうでもいいことを言って引き留める。
 今だってそうだ。窓の真横を通ってきたのだから、彼女は僕が通ったことに気づいていないはずがない。前だったら硝子越しだろうと何だろうと、迷わず手を振っていたくせに。ドアが開いて、注文のやり取りがあって、それでも僕がここへ来るまで顔も上げなかった。それなのに、長居はしないと言えば微笑みながらも寂しそうにする。

 チハヤさん、と。その声が呼び止めてこなくなったことに、苛立っている。その原因が多分、彼女が僕を避けるようになった理由と同じだと思うと、尚更。
 どうして今さら気づかされるんだと、やりきれない気分になる。僕が彼女に抱いた気持ちは、きっと、彼女が僕でない誰かに抱いたそれと同じで。

「好きな相手ができたんだったら、正直にそう言えば。でないと、君の言葉って期待させるから」

 仮にも、恋をしていたようだと遅ればせながら気づいた相手に。いてくれたほうが嬉しいだなんて言われたら、ついつい、時間を引き延ばしてしまいそうだ。
 オレンジジュースを飲み干して、じゃあね、と席を立つ。またね、と言わなかったのは決してわざとではなかったのだけれど、口にしてから、ああまるで本当に終わった気分だ、と思った。

 まるで息をするように、不確かなことを紡ぐから。僕には彼女の本当が、どこにあるのか分からなくて溺れそうになる。
 会いたくないなら会いたくないと、そう言ってくれればいいのに。手足が動けば都合のいい言葉だけ集めたくなるから、勝手に足掻かせないで、深く沈めるか、遠く陸に投げ出してほしい。

「……あの」

 情けの嘘に、浸らせないでほしい。そんなに惨めなことはないから。
 そう溜息をついて歩き出した僕のシャツを、躊躇うように引く手があった。まだ何か、と振り返る。

「ここに、誰かがいたんじゃないんです。……好きな人が、いてくれたらなって、グラスを二つ並べてしまっただけで」
「……?」
「……何やってるんだろうって、恥ずかしくなって先に飲みきってしまったんですけど。――オレンジジュース」

 苺色の双眸が、水の輪と僕とを、忙しなく交互に見つめながらそう言った。シャツを引く手に、にわかに力が込められる。
 期待を持たせるなって、たった今言ったばかりだと思うんだけど。冷たく言い放ったつもりの唇からは、そんな言葉はまるで出ていなくて、僕はただ混乱していた。グラスの中で氷が一つ、解けて倒れる。透明を積み上げた塔が、密かに崩れる。

 良かったら、もう少しだけここにいてくれませんか。どうしようもない沈黙の後、か細い声で言った彼女が「ここ」と示したのは、先ほどまで僕がいた席ではなくて、彼女の隣の空席だった。



アプロスの鳴き声

(そこにいたのは、そこにいなかった貴方)
▼追記

トワイル


宙にくべた感情の、燃え落ちるのを待っている。


「チハヤさん」

その声はとても柔らかで、しかし的確に鼓膜を貫いた。くらくらと揺らぐ不安定な異国のリズムの間を縫って、ひとつ。

「チハヤさん、こんばんは」

二つ。破れない水面に触れては離れ、呼び声は反響する。橙がかった灯りの並ぶ酒場の、ボトルを飾ったカウンターの中。そのまた奥に続く、僕一人が入っている水槽のような厨房の中で。静かな反響を、幾度となく繰り返す。

「やあ、ヒカリ。また来たんだ」

顔を見るより先に名前を口にしたことを、悟られたくなくて。無意識だったそれを意図したものに変えるために、後ろを振り返った。

「そろそろ、チハヤさんのご飯が食べたいなって」
「……ありがと」
「はい」

料理を好かれるのは、素直に好きだ。きっと他の何を誉められるより、正直に喜べる。そうは言っても、僕のいうレベルでの素直と、彼女の当たり前とでは、彼女のほうがずっと唇に枷を持たないのだが。

「お昼前から、考えていたんです。今日はお仕事がちゃんと終わったら、アルモニカに行こうって」
「昼前って、それで昼は? ちゃんと食べたの?」
「……簡単な、おにぎりを」
「難しいおにぎりってものがあるなら、食べてみたいね。どうせ君のことだから、忙しさにかまけてそんなものにしてるだろうと思ったよ。……飲み物は」
「あ、じゃあオレンジジュースを」

グリーンサラダを小さく盛って先に出しながら、飲み物のオーダーを受けて、出しておいてくれるようキャシーに伝える。ここのカウンター席は、満席ということが基本的にない。一人で気ままに呑みたいなどという人間より、土地柄として常連客はテーブル席に固まるからだ。

そのため僕もここへ来てから、カウンターの傍と言っても、人の話し声の遠い場所で働いていた。口を利く相手はキャシーかマスターで、用件以外の話は少ない。だが、季節が一巡りする前の夏のことだったか。
踊り子を紹介して入ってきた牧場主に、マスターが折角だから何か飲んでいかないかと声をかけて。それじゃあ少し、と彼女が選んだのは、何を思ったか厨房の真後ろ。ろくに人の座ったことのない、僕の後ろの席だった。

「いただきます」

誰に言うともなくふわりと浮いた声が、記憶の中のそれと被って、一層はっきりと思い出す。そんな隅に座らなくても、いい席に行きなよ。そう遠回しに移動を勧めた僕に、彼女は首を傾げて言った。
あまり離れると、お話が聞こえないので。できればこれくらい、近くのほうが。

「美味しいです」
「どうも。料理ももう少しで出せるから、それ食べて待ってて」
「はあい」

あのときのマスターたちの、驚いたとも戸惑ったともつかない顔といったら。今でも時々思い出してしまうくらいだ。だがそれ以上に、そんな彼女の言葉にたった一言、そう、と返したときのほうが驚いた気配は伝わってきた。
特別に親しかったわけではない。内心では僕だって、十分に困惑していた。ただ、あのときは曲がりなりにも客であるという理由と、何よりそんなきっかけも何もない距離の寄せ方をされたのが初めてだったのとが入り交じって、流暢に断ることができなかっただけであって。

以来、時折こうして酒場を訪れるようになった彼女は、今日もまたここにいる。香辛料と野菜の香り、調理器具の触れ合う音がもっとも近い席で。一人でやってくるが、一人ではなく僕を相手にする。隣に腰かけるわけでもない、ただ合間に相槌を打つだけの、さしたる話もしない僕を。

「初めて見る、シャツかもしれません」
「ついこの前、おろしたばかりだから。よく気づいたね」
「背中はわりと、見慣れているんです」
「……一方的」

冷たくもないが、どこか温度のない、突き放すような声が出た。あ、と息を短く切る。手元に神経の多くが向いているせいで、ちょうどいい重さの言葉が見つからない。続きになるものを口にできるタイミングも逃して、少しやり場のない靄が残った僕の胸に、背中から響く声は微笑って言った。

「そうでもないですよ。ハーパーさんが言ってました。外の町から来たお客さん以外で、チハヤさんがお喋りしながら料理をしているのは珍しい、って」
「……」
「私が一人で来るから、ですよね。お邪魔になるかな、とも時々思うんですけれど……、つい」

微笑みにも、躊躇いにも聞こえる声音に語尾が呑まれて、僕と彼女の間で消える。サフランの鮮やかな黄色が、鉄のフライパンの黒に映えて、思わずゆっくりと瞬きをした。完成が近づくパエリアに、意識は自然と集中してしまう。
本日のお勧め以外あまりオーダーしない彼女には、僕が毎回、数種類の中から適当なものを選んで出している。好き嫌いは少ない。大した把握の必要がないおかげで、まかり通っている不思議な習慣だ。

これでいいかと確認したこともあまりないが、何を作っているか、彼女の席からはきっと見えているだろう。ああそういえば、どんな顔をしていつも待っているのだろう、と。ほんの一瞬、調理に気を向けたままそんなことを考えた隙に、開いた唇から滑り出たのは彼女の言葉への答えというより、問いだった。

「邪魔になる、って言ったら、誰と来てどこに座るの」
「え?」

聞き返されて初めて、自分が口にしたことにはたと気づく。上の空から引き戻されて、洞窟の中にいるようだった両耳が急激に音を取り戻した。ざわめきに、思わず振り返る。それは僕に向けられたものではなく、テーブル席から踊り子に向かった歓声だった。当たり前だ。ただでさえ声の通りにくい厨房で話しているのだから、余程のことがなければ、店の奥まで聞こえなどしない。分かってはいる。分かってはいるのだけれど、それでも。

「……キャシーに渡す手間が省けるから。君の席はそこでいいんじゃないかな」

微かに、存在を誇張する。この心臓の声を、直接聞かれたかと思った。視線を落とせばジャム瓶のような一対の眸は真っ直ぐにこちらを見上げていて、店の中までは響かなくても、彼女には確かに聞こえていたらしく。付け足すように言って背を向けた僕に、はい、と機嫌の良さそうな声が返ってきた。律儀なそれが、今さらながらに自分の言ったことは空耳ではなかったのだと教えてきて、嗚呼。


宙にくべた感情の、燃え落ちるのを待っている。熟れていく様に目を向けられず、いっそ灰になってくれたらと。けれど投げ出したそれは炎上せず、この眼前で静かに、着実に。色づいていく、深く。これがお前の心の色と、見せつけるように。

「優しいですね」
「そう思うの」
「はい」
「変な子」

躊躇いのない答えに、こちらも迷わずに答える。パエリアはまだ、もう少しできあがりそうにない。口実は何もなかったが、僕は振り返って、小さく笑った。何を思って、そんなことを言ってみたのか。彼女の顔が、今、見てみたかった。



トワイル

(赤い実が弾ける)
▼追記

ウィンターシュガー


絶えず行き場を探している。小さな庭で迷うように。


夕方の船で届くはずだった食材が、天気予報の影響で早めに届いた。そんな酒場からの連絡を受けて、昼食にでもと作っていたスープの火を止め、軽く身支度を整えて出たのが一、二時間くらい前のこと。宝箱にでもかけるような、簡素だが大きな内鍵を開けて、広いドアを開く。

「悪かったな、手間をかけて」
「いえ、また夕方に来ます」

下拵えを済ませるようなものはほとんどなかったが、念のためにと酒場まで足を運んだ。届いたものを確認して、片づけるものは片づけ、時間のかかるものはせっかくだから準備をして。おかげで今日の開店前は、ゆっくりできそうだ。
宜しく、と言って頷いたマスターに軽く礼を返し、僕は酒場を出た。開店まではまだ充分に時間がある。このまま町にいても持て余すだろうから、やはり一度家に戻るのがいいか。煙るように白い、冬空に向かって伸びた役場の大時計を見上げ、ふと視線を港のほうへ向けたときだった。

「――――――……」

見知った後ろ姿が、少し離れた場所に佇んでいた。無花果色の髪と、全体的に暖色で纏まった服を着込んだ背中の間に、緩く結ぶようにしてかけられた白いマフラーがよく目立つ。靴の先に、もうすぐ波が触れそうだ。それくらい、海に近い場所に彼女はいた。

ヒカリ、と。かけようとした声を何故ということもなしに躊躇ってしまい、開きかけた口を閉じた。海岸には、彼女の他に誰もいない。
こんなところで珍しいな、と思ってから、ああそうじゃないなと気づいて頭を振る。日頃は大抵、酒場か農場の近くか、僕の家か。そういう僕に近い場所まで、彼女が来ることのほうが多かったから、そう感じただけだ。珍しいのは、どちらかといえば僕のほうだろう。急ぎの用でもなく、こんな時間帯に町まで歩いてくることも、なかなかない。

「君って、物好きだよね。こんな寒い海辺で、何してるの」
「えっ?」
「やあ。……っふ、変な顔」

チハヤさん、と。彼女が先に僕を見つけて声をかけてくることのほうが、思えば比べるまでもなく多かったものだから。そこにいるのに僕に気づいていない彼女の、一人の姿を見るのが何だか妙に新鮮で、しばらく近くへ行くのも忘れてしまっていた。
ようやく後ろへ立って肩に手を置けば、彼女は大袈裟に体を跳ねさせた後で、声のするほうを辿るように慌ててこちらを見上げた。チハヤ、さん。驚いた顔をしているくせに、その唇がつい先ほど耳の奥で思い出したものと変わらない、いつも通りの柔らかな声で僕を呼ぶものだから、何だか可笑しい。

「まさか放っておいたら水遊びでもするつもりかなって、君のことだからないとは言い切れないかもなと思って、しばらく見てたんだけど」
「さすがに今は、寒いですから」
「ああ、うん。そうみたいだね、ちょっと安心したよ」

からかったに近いつもりの冗談だったのだけれど、返ってきた答えは僕の意図するところとはやや違ったものだった。それにも、最近はこちらが慣らされてきたところだ。相変わらずだな、と思える程度には、それが八割の呆れの中に若干の親しみを持って湧く程度には。
手袋を外した両手の中に、カメラがある。視線を落とせばそれに気づいたのか、彼女がああとはにかむように笑って、レンズを撫でた。

「お昼頃から雪が降るかも、と聞いたので。持ち歩いていたら、雪が降るところを写真に撮れるかもしれないと思って」
「ああ、降るみたいだよね。僕もそれで、今届いた材料を確認しに行ったところだったんだけど」
「材料?」
「船がね。いつもより早く着いたとかって」

ああ、それで。どうりで、こんな時間に会えるのも珍しいと思ったんです。海風に冷えたカメラを抱えたまま、上げた視線の先で彼女は微笑んだ。再び開いた蘇芳の双眸は、僕が返事をする頃にはとっくに水平線を見ている。そういえば、そうだね。思考の海のまだ表面を漂っているようなそれに、たった今気づいたふりで、そう答える。

風が、頬の横を切って髪を揺らしていった。特別伸ばしてはないが僕よりは長い彼女の髪も、煽られて翻る。背後の湿った砂地の色と相まって、瞬間、海辺というより深い森の中にいるような錯覚がした。潮の香りと、遠くで鳴った船の汽笛に、少々近くに立ちすぎて彼女のペースに中てられているようだと、声を上げずに苦笑する。

「……あ!」

咄嗟に、何を笑っているのかと気づかれたのかと思った。だが、違ったようだ。上を見上げているが、僕ではなく、曇った空を見つめている視線を追いかけて顔を上げる。途端に、迫り落ちてきた何かが目の前を埋めて、ひやりと睫毛へ触れた。

「雪ですよ、チハヤさん!」

反射的に片目を瞑った視界の中で、彼女が笑う。嬉しそうに。暢気そうに笑うよなとか、幸運でも何でもなく、ただ待ち惚けしていた雪がようやく降り出したというだけの話なのに、願いが叶ったような喜び方をするんだからとか。いつもと変わらず思ったことはたくさんあった気がするのだけれど、今はすべて、たった一瞬の感情にかき消されてぼやけてしまっていた。

「……うん」
「チハヤさん?」
「良かったんじゃない、待ってたんでしょ」

彼女が嬉しそうだから、良かった、なんて。雪の一片に喜ぶより、ずっと大袈裟で重症だ。ほら、写真でも撮れば。動揺に気づかれたくなくて押した背中は、待ち惚けに付き合って冷えた指には温かすぎて、急いで手を離した。
空に向かってシャッターを切る音が、心臓に共鳴して性質が悪い。サンダルの裏を、白い波が薄く駆けた。ああいつのまに、こんな瀬戸際まで来てしまっていたのか。

絶えず行き場を探している。小さな庭で迷うように。こんな狭い町の中では、偶然を避けることもできないから。

「……口、閉じなよ」
「ん、む?」
「あんまりそういう、隙だらけですって感じ、他の人に見せないでね」

気持ちの所在に気づいてしまったら、知らないふりができなくなる。
真上を見上げてふらふらとカメラを構える彼女のマフラーを掴んで軽く引き寄せ、今にも雪の舞い込みそうな口を片手で塞いだ。蘇芳の眸が、何の話か分からないとでも言いたげに揺れて、僕を逆さに映した。
いっそこのまま、髪の流れた額にキスのひとつでもできるくらい、殻を剥がれた僕の恋が浅いものだったら楽だったのに。



ウィンターシュガー

(塵も積もれば羽を持つ)

▼追記
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