息をするように、不確かなことを紡ぐから。
白い窓枠の中に、見慣れた横顔を見つけたのは偶然だった。午後三時、窓際、片側だけ日の射した席。いつでも誰かが座っているようで、案外いつでも空いている。特等席のようでそれほどでもない、一番人目に晒される席に彼女はいた。
レストランのドアに吊るしたベルが、カランカランと来客を告げて響く。いらっしゃいませ、と声が活気づく。
「やあ」
すべて聞こえているはずなのに、彼女は振り返りもしなかった。入り口に背中を向けて座り、窓の外を見ているわけでも、本を読んでいるわけでもなく。ただ、グラスの氷でも数えているみたいに、余計なことは何も気にしていないようだった。
声をかけると、やっとこちらを見上げて、今気がついたような顔をする。瞬きの中に、金の粒が散った。それは僕の後ろの天井に下げられた、薄い電気の光だった。
「チハヤさん。こんにちは、休憩ですか?」
「うん、そう。君もかな」
「はい。少し、冷たいものが飲みたくなって」
「……ふうん?」
言って、からからと手の中のグラスを揺らしてみせる。アイスティーの残りは半分ほど。
「一人?」
「はい」
「ここ、僕が座ってもいいかな」
「もちろん」
向かいの席を指して言えば、ヒカリはいつもの笑顔を浮かべて、躊躇うこともなく頷いた。木製の椅子が、床板に擦れる。大袈裟な音を立てるのが嫌で、けれども何だか、無音で腰かけるのも嫌で。
がたんという音を一つだけ立てて、僕は彼女の正面に腰かけた。日射しが左腕の肘から先にだけ、斜めに落ちる。
「カーテン、引きましょうか」
「いいよ、そんなに長居しないし」
「あれ、そうなんですか? てっきり……」
「何」
「久しぶりに、ゆっくりお話できるかと思ったのに」
残念ですね、お忙しいんですか。アイスティーを一口、多分、飲んで彼女は言う。黒いストローは真偽を見せない。水滴が一つ、彼女の指を伝う。
苺のような双眸が、こちらを向いた。この席についてから初めて、彼女が僕と目を合わせた瞬間だった。
「しないよ、長居なんて。どうせすぐ帰る」
「そうなんですか」
「だから、安心して」
え、と。小さな疑問の声が上がった。同時に僕のところに、オレンジジュースが運ばれてきた。会話は一旦、そこには何もなかったかのように消え入る。同じ、黒のストローが刺さっていた。沈黙を飲むように、冷えたジュースを一口飲む。酸味と甘味が、突き抜けるような冷たさと一緒に流れ込んだ。
「チハヤさんがいてくださったほうが、私は嬉しいですよ?」
「へえ」
「どうして、そんなふうに言うんです」
困ったように、寂しい顔を隠すように。彼女は眉を下げて、首を傾げて微笑った。
ああ、まただ、と心の中でそれを指差す。また、そういう淡やかな嘘を、君はつくんだね、と。
分からないの、と言えば、彼女は何も言わなかった。ただ、困惑した顔をしていた。その顔をしたいのは、僕のほうだ。彼女は近頃、まるで分からない。
「そこにいた人が、帰ってくるかもしれないでしょ。いいの? そのとき、僕が一緒にいて」
一思いにそう言って、僕は彼女のすぐ隣を指差した。四人がけの席の、彼女が座っている椅子の隣。テーブルに一つ残された、まだ乾かない水の輪がある。
誰かがそこに、グラスを置いていたのだ。僕が来る前であり、彼女が来てからのいつかの間に。拭き取ったあとがないのだから、彼女の前にいた誰かではない。彼女と一緒に、その隣にいた誰かのものだ。
彼女のグラスの氷はもう、ほとんど溶けかかって、小さくなって浮かんでいる。そんなに長い間、誰といるのでもなく、本を読むのでもなく、代わり映えのしない窓の外さえろくに見ないでいるなんて、いくら彼女がぼんやりとしているといったって、あまり考えられない。
まして隣の席に残された形跡を見れば、一人でいたわけではないのだと、そう考えるのが妥当だ。それなのに、彼女は僕の言っていることが分からないというように、首を横に振った。
「帰ってくるも、何も。今日は一人で来たんです」
「一人で来て、誰かと待ち合わせたとかじゃなく?」
「違いますよ。どうしてそう思うんですか」
「どうしてって。それは、君が最近おかしいからだけど?」
日陰が、まるで彼女をその本心ごと覆い隠そうとしているみたいで気に入らない。勢い任せに言い切ってから、ああ言っちゃった、と思ったけれど、もうそれならそれでいいかとも思えてきていた。後に退けない話になっても、どのみち限界だったのだ。
彼女の最近の態度の変わりようが、僕にはもう限界だった。
「本当のことを言わないで、こうやって僕が戸惑っているのを見て楽しい?」
「チハヤさん、話が」
「分からない、っていうんなら、分かってくれないかな」
「……え、と」
「戸惑ってるし、苛立ってるんだよ。――このところ急に、僕のこと、避けるようになった君に」
頭の中では色々と、冷静なことも考えていた。ああこんなところで話すことじゃないんだよな、とか、できればこういうのは他の誰かに聞かれたくないけれど、絶対聞かれるな、だとか。幸い客は少なかったし、音楽が流れていたけれど、誰にも聞こえていないとは思えない。
でももう、そんなことどうでもいいか、と思っている僕もいた。そして今は、その僕のほうが僕の中の大部分を占めていた。
――彼女は近頃、ずいぶんと嘘つきだ。
「……翻弄されたくない。駄目なら駄目って、はっきり遠ざけてもらえないかな」
「どういう意味、ですか」
「友達だから今までどおり、とか思ってるのかもしれないけど、あからさまに避けられるのって、それはそれで引っかかるんだよね」
「え?」
「……そのくせ、僕が離れようとすると残念とか言うし。避けたいのかそうじゃないのか、君の考えてることが、分からないんだけど」
毎日のように会いにきていた酒場にも、まるで顔を出さなくなった。出しても、以前なら迷わず僕のすぐ後ろの席に座っていたのに、最近は壁際のテーブルに行く。料理を持っていくと、嬉しそうに笑う。そして二、三、話をしたがるみたいにどうでもいいことを言って引き留める。
今だってそうだ。窓の真横を通ってきたのだから、彼女は僕が通ったことに気づいていないはずがない。前だったら硝子越しだろうと何だろうと、迷わず手を振っていたくせに。ドアが開いて、注文のやり取りがあって、それでも僕がここへ来るまで顔も上げなかった。それなのに、長居はしないと言えば微笑みながらも寂しそうにする。
チハヤさん、と。その声が呼び止めてこなくなったことに、苛立っている。その原因が多分、彼女が僕を避けるようになった理由と同じだと思うと、尚更。
どうして今さら気づかされるんだと、やりきれない気分になる。僕が彼女に抱いた気持ちは、きっと、彼女が僕でない誰かに抱いたそれと同じで。
「好きな相手ができたんだったら、正直にそう言えば。でないと、君の言葉って期待させるから」
仮にも、恋をしていたようだと遅ればせながら気づいた相手に。いてくれたほうが嬉しいだなんて言われたら、ついつい、時間を引き延ばしてしまいそうだ。
オレンジジュースを飲み干して、じゃあね、と席を立つ。またね、と言わなかったのは決してわざとではなかったのだけれど、口にしてから、ああまるで本当に終わった気分だ、と思った。
まるで息をするように、不確かなことを紡ぐから。僕には彼女の本当が、どこにあるのか分からなくて溺れそうになる。
会いたくないなら会いたくないと、そう言ってくれればいいのに。手足が動けば都合のいい言葉だけ集めたくなるから、勝手に足掻かせないで、深く沈めるか、遠く陸に投げ出してほしい。
「……あの」
情けの嘘に、浸らせないでほしい。そんなに惨めなことはないから。
そう溜息をついて歩き出した僕のシャツを、躊躇うように引く手があった。まだ何か、と振り返る。
「ここに、誰かがいたんじゃないんです。……好きな人が、いてくれたらなって、グラスを二つ並べてしまっただけで」
「……?」
「……何やってるんだろうって、恥ずかしくなって先に飲みきってしまったんですけど。――オレンジジュース」
苺色の双眸が、水の輪と僕とを、忙しなく交互に見つめながらそう言った。シャツを引く手に、にわかに力が込められる。
期待を持たせるなって、たった今言ったばかりだと思うんだけど。冷たく言い放ったつもりの唇からは、そんな言葉はまるで出ていなくて、僕はただ混乱していた。グラスの中で氷が一つ、解けて倒れる。透明を積み上げた塔が、密かに崩れる。
良かったら、もう少しだけここにいてくれませんか。どうしようもない沈黙の後、か細い声で言った彼女が「ここ」と示したのは、先ほどまで僕がいた席ではなくて、彼女の隣の空席だった。
アプロスの鳴き声
(そこにいたのは、そこにいなかった貴方)