ひどく唐突に降り出した雨が、世界を叩く午後だった。
音を鳴らすものや、或いは何か生き物の類をまるで置いていない一人の部屋は、いつだって静かで靴音や時計の音、マグカップをテーブルに置く音くらいしか耳に入るものはない。それらは窓硝子を震わせるような雨の中ではあまりに微かで、つまるところこの部屋は今、雨の音ばかりが溢れている。
日頃なら古びた軋みを伴って聞こえる靴音に意識を傾けてみながら、俺は読み終えた書物を本棚へ返して、椅子へと戻った。そうしてふと、時計を見る。
(……二時半)
同時にぽんと、脳裏にすっかり馴染んだ笑顔が浮かんだ。それは二時半と書いて待ち合わせと読むようなもので、彼女がいつもここへ立ち寄る時間である。約束をしているわけではないから、必ずというわけではない。そのはずなのだけれど、彼女はいつだって必ずと言っていいほど、時計の針が三時を回る前にはここへ立ち寄る。だからそれはまるで俺達の間の決まりごとのようなもので、俺も外出するときはその時間帯を避けるようにしていた。
「……」
日課というのはすごいもので、自然とその時間に合わせてやりたいことや済ませておくべきことを終わらせるように生活してしまっている。だから突如としてそれが訪れないとなると、ここから先の一時間がふいに真っ白に塗りつぶされたような感覚に陥った。頭の中で彼女の顔と、時計と本棚とペンと、それから灰色の空がぐるりと回って混ざる。そうして、一人で瞬きをした。
彼女は来ないのか。最初から考えていたようなたった今思いついたような、そんな答えに行き着いた。天気も悪いし、それも当然かもしれないとぼんやり思う。
そうかそれならば、と思って、それからああ何をしようと思考に詰まった。ざあざあと、雨の音がする。こうして部屋の中心で一人その音を聴いていると、まるで自分の周りがすべて雨になっていくようだ。濡れてなどいない手のひらを広げてみる。そうして指の間から見えた水晶玉に、ふと思った。
彼女は今、どこにいるのだろうか。ちゃんと屋根の下にいるのか、それとも違うのか。
「……」
一度気になるとつい考えてしまって、会話を思い出しながら彼女の日頃いそうな場所を思い浮かべた。家と、ここと、宿屋と。そうしていくつか数え上げてみたところで折っていた指が止まり、後には何も考えつかなくなった。
知らないのだ。毎日会っているから、彼女の声や好きなものや、ほんの小さな笑ったときの癖や。そんなものは思い出せるのに、俺達は同じ時間帯の同じ場所でしか同じ時を過ごしていないから、俺は当たり前のようにこの場所以外での彼女を知らないし、想像もつかない。
誰と何をして、どこへ行って、きっと彼女のことだからどこにいても元気で笑っているのだろうけれど、今どうしているのだろう。それは想像に留めておくべきことだと、心の中では理解もしていた。だが、心配はいつしか色々な思考と混じり合って、今となっては何が先になっているのかよく分からない。興味や好奇心といったものが、否定しきれないのも自覚していた。
彼女が本当に心を許していなければ、映ることもないだろう。今どこにいるのか、それだけだ。一度きりと誰にともなく言い聞かせるように呟いて、水晶玉に手を載せる。
「―――」
映像は、硝子越しの光景のようにあっさりと、鮮やかに映し出された。初めに中心へ映ったのは彼女だ。シナモン色の髪を片手で梳くように押さえて、左のほうを向いている。雨は景色を遮らない。ということは、屋内にいるのだろうか。しかしそれにしては、薄暗く曇って思えた。視点を少し遠ざけるように、掌をずらす。
「……」
次いで映し出されたのは、彼女の視線の先。そこにいた彼女とは別の人物だった。直接話をしたことはそれほどないが、町で何度か見かけたことのある青年だ。片手で傘を差して片側に彼女を入れ、空いた手を軽く動かしながら何事か話している様子が見て取れる。彼女はそれに少し目を丸くして、それから苦笑したと思ったら真赤になって顔を背けて、そうしてしばらくするとまた二人で何かを話してころころと笑った。
俺は気がついたら、視線をその光景から少しだけはずして、水晶玉の下のテーブルを見つめていた。視界の斜め上のほうでは、相変わらず何か、二人が歩きながら話をしているのが分かる。ひどく明確に見たくないと感じて、それからふと、そもそも見なければよかっただけの話ではないかと自分に嘲笑した。
勝手な話だ。彼女の知らないところでその日常を覗いておいて、いざそれが心に引っかかったらなぜこんなものを見たのだろうと嫌悪する。笑えないな、と笑ってみてもため息のような声しか出なくて、最後にどこか、白い階段の前で立ち止まった彼女と青年をちらと見やって完全に手を離した。映像が、霧のように消えていく。
「―――……」
それでも、そこにあった事実としての時間であったことに変わりはなく。消えてしまったって幻ではないから、それはまた単に、俺の知らないものに戻っただけの話だ。心臓の奥のいっそ背中に近い場所に、この息苦しさを生み出す塊が詰まっているような気がして腕を伸ばしてみる。そんなことは何の意味も持たないなんて、それさえも分からないほどではないのだけれど。
ざあざあと、雨の音が聞こえる。両目を塞いで背もたれを頼るように、見えないままの天井を仰いだ。爪の先から順々に冷えていくような感覚。後悔、とはこういうものかと一人納得した。
ただ少し、欲が出ただけだったのだ。目の前にいる彼女を知っているだけでは自分がとても無知な気がして、当たり前に知ることのできる範囲を超えたくなった。一歩で良かったのに、その一歩がこんなに大きくなるなんて自分でさえ考えていなかったのだと言ったら、それはまたこの後悔の言い訳に過ぎないのだろうか。こんな景色なら見なくても良かった、と言ったらあまりに身勝手だが、心の底ではそう思ってしまうのもまた事実で、脱力感に身を任せて足を投げ出す。その時だった。
「……はい?」
こつんと、ドアを叩く微かな音が雨に紛れて聞こえたのは。
来客だろうか、と重い足取りで向かって鍵を開け、ノブを握るより早く向こう側から開けられて少し驚き、そうして俺はそこに立っていた相手を見てもう一度驚かずにはいられなかった。
「占い屋さん、おはよう。すごい雨でね、入れて入れて」
「え?あ……」
「うわ、靴が泥だらけ。さすがに脱ぐから、あ、ここ置かせてね」
「……スリッパ、いる?」
「ありがとう、助かる!」
「……どういた、しまして……」
何が、と、何かを問う暇もない。唖然としたままの俺を部屋へ押し込むようにして入ってきた彼女は、見間違うはずもなく、先ほど水晶玉の向こうで青年の傘に入って笑っていたはずの、俺のよく知る彼女だった。戸惑いがすぐには言葉にならず、どうでもいいことばかりに気が回る。いつもならそんなことは考えもしないのに、女の子だからという安直な理由で一度掴んだ緑のスリッパを引っ込めて、新品同様のピンクを出した。彼女は礼を言って、それに足を通す。
「ほんと、すごい雨。外、行ってみた?水溜りがこんなに大きく―――……、占い屋さん?」
「え?……あ、ごめん……ええと」
「……?どうか、した?」
俺のよく知る彼女は俺のよく知る彼女のまま、いつもの調子で話す。俺の知らないはずの時間の彼女を思い出して、ぼんやりとその横顔に重ねてしまっていた。当然、ぴったりと重なる。どちらも嘘ではないし、そんなことは当たり前で。俺はしばし返答を探したあと、結局何も考えつかないままにその、と切り出した。
「……アカリ、は」
「うん?」
「……いや、さっきの人は……一緒にいなくて、いいの?」
「さっきって、ああ、なんだぁ占い屋さん、外にいたの?声かけてくれれば良かったのに」
え、と言葉に詰まった俺を気に留めず、彼女は勝手にそう納得してからからと笑った。髪の先から一粒、雨水が落ちて割れる。
「私、占い屋さんに会いにきたんだよ。大雨にやられて傘が壊れちゃって、あの人宿屋に行くって言うから、ちょっと頼んでここまで入れてきてもらったんだ」
「……え」
「おかげで来られたよ。ちょっと濡れちゃったけど」
まあこれくらいなら、すぐ乾くよね。肩に染みた水滴を見てそう話す彼女の言葉が、理解できるまでに少しの時間を要した。頭の中で急速に、先ほどの光景が彼女の話と交じり合って塗り替えられていく。気がついたらぼんやりと、確かめるように口を開いていた。
「……ここへ、来るつもりだったんだ?」
「そうだよ?だってほら」
細い指が、すいと俺を超えて背後の時計を指す。
「いつもの時間、でしょ?」
ひどく唐突に降り出した雨が、世界を叩く午後だった。ちょっと遅れちゃったけど、とおどけて言いながらふるりと髪を払い、ね、と首を傾げた彼女に俺はしばしあってから、そうだねと答えた。なんだかまた力が抜けて、そのまま椅子を引いて座り込む。ただし今度は、向かいに彼女も一緒だけれど。
「……いつもの時間、だ」
「そうだね」
疲れちゃったと笑う彼女に俺も気の抜けた笑みを返して、それからやがて、珈琲を淹れようかと訊いた。
カプセル・イン・ブルー
(ひと欠片の秘密を呑んだ、愛しき午後に記す)