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Life ※魔法ヒカ


会いたい、なんて本当は嘘だ。



「魔法使いさん、こんにちは」

例えば今、唐突にこの目が見えなくなったとして。それでも俺には、ドアの向こうにいるのが誰だかすぐに分かるだろう。それくらいには自然と、耳に馴染んでしまったその声を辿るようにしてドアを開ける。無論そんなのは例え話に過ぎないものだから、そこにはいつも通り、ふわりと笑みを浮かべた彼女が見えるのだけれど。

「……いらっしゃい、ヒカリ。仕事は?」
「ちゃんと終わらせてきましたよ。お邪魔します」
「……どうぞ」

互いに答えを訊く前に片足を室内へ上げているような、幾度となく交わしてきたやり取りに感じる。ああ今日も、彼女が来たのだ、と。
それは実感というにはあまりに淡いものだったが、確かに俺の中に根づいている感覚で。いつの頃からか、彼女がここを毎日のように訪れるようになってからは、空の色か時計のように俺の生活へ直接響く瞬間である。球体が下へ落ちて弾むような、ささやかな高揚感は何度繰り返しても慣れない。こんなにも、当たり前に思うほど傍にいるのに。

「……珈琲でいい?」
「あ、はい。ありがとうございます」

彼女がここへ来ることに、明確な理由があった日はほとんどないように思う。近くまで来たから、クッキーをたくさん焼いたから、何となく、天気が良かったから、何となく。いつしかどうしたのかと尋ねることもしなくなって、けれどもそれを拒むつもりもこれと言ってなくて、マグカップは二つになって砂糖は常備品になった。
礼を言いながらも彼女は結局隣へ来て、こまこまと手伝いながら思い出したように話を始める。

昨日の夜空のことから始まって、ぼんやりと見た気がする夢の記憶、朝のジャムの出来栄え。昨日の夕方にここを出てからまたここへ来るまでのそんな話を、相槌を打ちながら聞いて、温かい珈琲を一つ渡す。ありがとうございます、熱いよ。そんな一言を挟んで向かい合わせの椅子に腰掛け、話はまた彼女の真新しい記憶の中へと戻っていく。

「それで、今朝は―――……」
「……」

次々に語られる他愛無くも柔らかな日常に、その断片に。俺の知らない時間の彼女を知ることが好きで楽しみであり、少し寂しくもある。それがなぜ、と訊かれたら、説明するのは簡単なようで難しい。偏に、寂しいのだ。会えない時間の話は、帰る場所が違うことを忘れた頃に思い出させる。

「……魔法使いさん?」
「……え?」
「どうしました?何かぼうっとして」
「……そう、だった?聞いてたよ」

呼びかけられて、はっとした一瞬を掘り下げられることがなぜか後ろめたい。何を考えていたのかと、上の空の中身を問われることに問われる前から慌てているのだから我ながらどうしようもないものだ。それはいいんです、大した話でもなかったし。首を横に振って、じっと見上げる苺色に目を背けたくなった。
嗚呼だって、そんなふうに楽しげに話をしていたって、気遣うみたいにこちらを見ていたって。どんな風に時間を過ごしたって君は帰ってしまうんだろう、なんて。

「……ヒカリは、さ」
「はい?」
「……」
「……魔法使いさん?」

何かを言わなくてはと切り出したものの、何を。元よりばらばらに散らした霧のような不確かな感情は、自分の中で纏めることさえ難解で、言葉にして外へ出すとなると余計に難しい。どうしたら伝わるのか分からなくて、あ、と唇を動かしたら言葉が自然と零れた。

「……寂しいとは、思わない?」
「……寂しい、ですか?」
「そう、だよ。……今とか」
「今って」
「……俺は、寂しいよ」

栓の抜けたように、声は思考をひどく簡単な言葉へ変えていった。あれほど頭の中に渦巻いていたものが嘘のように単純な話になって、立ち上がりかけた彼女の手と、それを掴んだ俺の手の中の薄い空間で回る。灼けるように熱いとも思うのに、泡のようだとさえ思えた。弾けてゆく、些細な衝撃で流れ出てしまいそうなそれを強く握ったら、細い指が躊躇いがちに握り返した。


「―――寂しいよ、君が、帰るから」


息を呑むような、驚いた気配が伝わってくる。ずっと胸の底にあったものがようやく口にできたという安堵と、もう戻せないという現実感で、けれども俺はせめて少し微笑ってみせた。こうして明かしたことがなかっただけで、もうずっと、随分長いこと思ってきたのだ。どんな形であれ、そろそろこの感傷と恋情にも結末が欲しいところ。そう願っていたのもまた、事実で。

会いたい、なんて本当は嘘で、傍にいたい。それが正しい。声が聞きたいなんてそれも嘘で、そんなことはもう考えつかなくなるくらい、どうでもない会話を君としたい。

「……俺と、結婚してほしい」

戻れないのを良いことに口にしたその言葉は、もうずっと前からいつかこうして彼女に告げることを知っていたような気がして、何だか可笑しくなった。




L i f e

(やがて彼女が声もなく頷いて、俺の世界は祝福の色に埋もれた)

▼追記

愛の名前 ※チハマイ


誰にも話すつもりはない、楽しみがひとつある。



「マイ」

かしゃりかしゃりと、規則的と言うには少々不安定に動く手に握り締められた泡立て器がボウルの底を引っ掻く音が耳の奥に馴染む。それはまるで遠い日の自分を辿るような懐かしさも持ち合わせているものだから、拙いと思うのに不思議と嫌うことはできなかった。誰だって、慣れという武器を手に入れるまではそんなものだ。そんなものだ、けれど。

「なあに、チハヤ?」
「うるさい」
「え、ええっ」

まあ最も今、目の前で泡立て器と格闘している彼女は、とうにその武器を手に入れていてもおかしくないほどには場数を踏んでいるわけで。眠気覚ましにささやかな抗議をすれば、面白いほど慌てて振り返った。

「……なんてね、オハヨウ」
「へ?え、あ、そうだよ!起きたの?」
「うん。今、何時?」
「ええとね、はい」

気怠さの残る足を動かして傍らに立ち、両側に三つ編みを作られた金色の頭越しにボウルの中を覗く。耳で聞こえた印象のわりには、存外綺麗にクリームができていた。料理の時間を計るからと持っていかれた小さな時計を受け取って見れば、思ったほどは過ぎていない。転寝程度だったのかと、椅子に座って広げていたつもりがいつの間にか閉じていたレシピを眺めながら思う。

ケーキを作れるようになったから食べてみてくれという、何とも唐突な申し出にキッチンを貸し出したのは良いものの、手助けは一切不要だと言い切られてしまっては、僕にできることはない。
正直な意見として、それならなぜ自宅兼宿屋の立派なキッチンを使って完成品を持ってこないのだろうとは思わざるを得なかったが、言うよりも早く彼女が材料を開けにかかったのでそれはもう諦めた。あれで案外料理人の孫らしいところもあるから、キッチンを滅茶苦茶にされる心配というのはそれほどしていない。彼女は作るものこそ壊滅的であったり前衛的であったりと大層な出来栄えだが、器具を壊したり汚したままにしたりというようなことは、寧ろ厭う部分も持ち合わせている。

「……起こしちゃった?」
「え?」
「や、うるさいって言ったし」
「……ああ、あれ」

そんな長い付き合いから来る一定の信用があったもので、結果としてキッチンを占領されたどころかその周辺さえ下手に触らないよう言われてしまった僕は、自宅で手持ち無沙汰になってぼんやりとレシピにメモを書き足すような作業をしていた。退屈だが出かけるわけにも行かず、やけに欠伸が出ていたような憶えはある。

「別にいいんだけどね。寝るつもりはなかったし」
「チハヤ、呼んだら返事がないからびっくりしちゃった。昨日、忙しすぎた?」
「疲れてるわけじゃないよ。暇だったんだ、誰かさんのせいで」
「う……ご、ごめんね?」
「今さらだね。スポンジ、どうなった?」

信用はしているが、それはあくまで性格の話であって料理の腕前ではない。寝るつもりがなかったのは本当だ。一時でも彼女の調理風景から目を離してしまったなんて、不覚としか言いようがない。妙なアレンジ精神を発揮していないことを願いながら、オーブンの中を覗いてみる。

「……」
「どうしたの?」
「……おかしい。君にしてはあまりにちゃんと膨らみすぎてるし、色もしっかりして見える。何か変なもの入れてない?」
「真面目な顔でそれはひどいよ!あたしだってできるときはできるもん」
「ええ……?」

言われて過去の記憶を振り返ってみたが、僕の中にそんな記憶はない。彼女はいつも料理になると大概のことができなくて、コツも何もないようなところで失敗して、ああでもそういえば。

(昔は、クリームも泡立てられなかったじゃないか)

弟子入りしたばかりの頃、ボウルを抱えて先生に習ったお菓子の作り方を復習しようと真剣にやっている僕の後ろで、いつも彼女はへらりと笑って上手だねえ、と言った。出来上がったら味見してもいい、と訊かれたから、自分で作ったらと答えたことを今でも覚えている。彼女は零れそうに丸いサイダー・ブルーをぱたりと瞬かせて、それから少しだけ悲しそうに、あたしがやっても無駄にしちゃうもん、と言ってまたへらへらと笑った。

「……ま、あんまり期待しないで待ってるよ」
「またそういうこと言う。今日は絶対うまくいくんだから!」
「はいはい」

あの頃は、そこに込められた意味も掬えないで。そうやってやらないから上達しないんじゃないのか、なんて思ってみたものだけれど、僕は少なくともあのとき、それを口にしなくて良かったと思う。美味しいものが好きだとこれだけ公言する彼女が、自分の手ではそれを上手く扱うことができない。あのとき、よく泣かれなかったと思う。泡のような青だと思ったのは、きっと見間違いなどではなかった。

「マイ」
「なあに?」

あれから、僕らはそれなりに大きくなって。僕は相変わらず好意の有無に関わらず言葉の選び方が悪いままだけれど、それでも本当に傷つけたくない相手を選ぶくらいのことはするようになったし、彼女は料理が苦手で能天気なままだけれど、クリームくらいは作れるようになったし、上手くいかないことを正直に悔しいと涙ぐむようにもなった。
変化の過程はいつも彼女と共にあって、まだ恋のなかった頃に、大人になったらきっと離れていくと思っていた彼女は今になってもこうしている。


「……呼んだだけ」


誰にも話すつもりはない、楽しみがひとつあるのだ。それはとても簡単なもので、彼女の名前を呼ぶこと、それだけ。異国の言葉で私の、という意味を持つ言葉と同じ響きのそれは、いつまで経っても言いたいことほど言えない性質の僕が気の遠くなるほど繰り返した、ささやかな自己満足。もちろん彼女にだって、種明かしをする予定はない。

何それ、と笑う声を背中に聞きながら椅子に戻って、僕は約束どおり期待をせずに待つことにした。きっと夕食の時間になる頃、出てくるのであろうケーキを想像しながら。




愛の名前

(そこに存在する限り)
▼追記

カプセル・イン・ブルー ※魔法アカ


ひどく唐突に降り出した雨が、世界を叩く午後だった。



音を鳴らすものや、或いは何か生き物の類をまるで置いていない一人の部屋は、いつだって静かで靴音や時計の音、マグカップをテーブルに置く音くらいしか耳に入るものはない。それらは窓硝子を震わせるような雨の中ではあまりに微かで、つまるところこの部屋は今、雨の音ばかりが溢れている。
日頃なら古びた軋みを伴って聞こえる靴音に意識を傾けてみながら、俺は読み終えた書物を本棚へ返して、椅子へと戻った。そうしてふと、時計を見る。

(……二時半)

同時にぽんと、脳裏にすっかり馴染んだ笑顔が浮かんだ。それは二時半と書いて待ち合わせと読むようなもので、彼女がいつもここへ立ち寄る時間である。約束をしているわけではないから、必ずというわけではない。そのはずなのだけれど、彼女はいつだって必ずと言っていいほど、時計の針が三時を回る前にはここへ立ち寄る。だからそれはまるで俺達の間の決まりごとのようなもので、俺も外出するときはその時間帯を避けるようにしていた。

「……」

日課というのはすごいもので、自然とその時間に合わせてやりたいことや済ませておくべきことを終わらせるように生活してしまっている。だから突如としてそれが訪れないとなると、ここから先の一時間がふいに真っ白に塗りつぶされたような感覚に陥った。頭の中で彼女の顔と、時計と本棚とペンと、それから灰色の空がぐるりと回って混ざる。そうして、一人で瞬きをした。
彼女は来ないのか。最初から考えていたようなたった今思いついたような、そんな答えに行き着いた。天気も悪いし、それも当然かもしれないとぼんやり思う。

そうかそれならば、と思って、それからああ何をしようと思考に詰まった。ざあざあと、雨の音がする。こうして部屋の中心で一人その音を聴いていると、まるで自分の周りがすべて雨になっていくようだ。濡れてなどいない手のひらを広げてみる。そうして指の間から見えた水晶玉に、ふと思った。
彼女は今、どこにいるのだろうか。ちゃんと屋根の下にいるのか、それとも違うのか。

「……」

一度気になるとつい考えてしまって、会話を思い出しながら彼女の日頃いそうな場所を思い浮かべた。家と、ここと、宿屋と。そうしていくつか数え上げてみたところで折っていた指が止まり、後には何も考えつかなくなった。
知らないのだ。毎日会っているから、彼女の声や好きなものや、ほんの小さな笑ったときの癖や。そんなものは思い出せるのに、俺達は同じ時間帯の同じ場所でしか同じ時を過ごしていないから、俺は当たり前のようにこの場所以外での彼女を知らないし、想像もつかない。

誰と何をして、どこへ行って、きっと彼女のことだからどこにいても元気で笑っているのだろうけれど、今どうしているのだろう。それは想像に留めておくべきことだと、心の中では理解もしていた。だが、心配はいつしか色々な思考と混じり合って、今となっては何が先になっているのかよく分からない。興味や好奇心といったものが、否定しきれないのも自覚していた。
彼女が本当に心を許していなければ、映ることもないだろう。今どこにいるのか、それだけだ。一度きりと誰にともなく言い聞かせるように呟いて、水晶玉に手を載せる。

「―――」

映像は、硝子越しの光景のようにあっさりと、鮮やかに映し出された。初めに中心へ映ったのは彼女だ。シナモン色の髪を片手で梳くように押さえて、左のほうを向いている。雨は景色を遮らない。ということは、屋内にいるのだろうか。しかしそれにしては、薄暗く曇って思えた。視点を少し遠ざけるように、掌をずらす。

「……」

次いで映し出されたのは、彼女の視線の先。そこにいた彼女とは別の人物だった。直接話をしたことはそれほどないが、町で何度か見かけたことのある青年だ。片手で傘を差して片側に彼女を入れ、空いた手を軽く動かしながら何事か話している様子が見て取れる。彼女はそれに少し目を丸くして、それから苦笑したと思ったら真赤になって顔を背けて、そうしてしばらくするとまた二人で何かを話してころころと笑った。

俺は気がついたら、視線をその光景から少しだけはずして、水晶玉の下のテーブルを見つめていた。視界の斜め上のほうでは、相変わらず何か、二人が歩きながら話をしているのが分かる。ひどく明確に見たくないと感じて、それからふと、そもそも見なければよかっただけの話ではないかと自分に嘲笑した。
勝手な話だ。彼女の知らないところでその日常を覗いておいて、いざそれが心に引っかかったらなぜこんなものを見たのだろうと嫌悪する。笑えないな、と笑ってみてもため息のような声しか出なくて、最後にどこか、白い階段の前で立ち止まった彼女と青年をちらと見やって完全に手を離した。映像が、霧のように消えていく。

「―――……」

それでも、そこにあった事実としての時間であったことに変わりはなく。消えてしまったって幻ではないから、それはまた単に、俺の知らないものに戻っただけの話だ。心臓の奥のいっそ背中に近い場所に、この息苦しさを生み出す塊が詰まっているような気がして腕を伸ばしてみる。そんなことは何の意味も持たないなんて、それさえも分からないほどではないのだけれど。

ざあざあと、雨の音が聞こえる。両目を塞いで背もたれを頼るように、見えないままの天井を仰いだ。爪の先から順々に冷えていくような感覚。後悔、とはこういうものかと一人納得した。
ただ少し、欲が出ただけだったのだ。目の前にいる彼女を知っているだけでは自分がとても無知な気がして、当たり前に知ることのできる範囲を超えたくなった。一歩で良かったのに、その一歩がこんなに大きくなるなんて自分でさえ考えていなかったのだと言ったら、それはまたこの後悔の言い訳に過ぎないのだろうか。こんな景色なら見なくても良かった、と言ったらあまりに身勝手だが、心の底ではそう思ってしまうのもまた事実で、脱力感に身を任せて足を投げ出す。その時だった。

「……はい?」

こつんと、ドアを叩く微かな音が雨に紛れて聞こえたのは。
来客だろうか、と重い足取りで向かって鍵を開け、ノブを握るより早く向こう側から開けられて少し驚き、そうして俺はそこに立っていた相手を見てもう一度驚かずにはいられなかった。

「占い屋さん、おはよう。すごい雨でね、入れて入れて」
「え?あ……」
「うわ、靴が泥だらけ。さすがに脱ぐから、あ、ここ置かせてね」
「……スリッパ、いる?」
「ありがとう、助かる!」
「……どういた、しまして……」

何が、と、何かを問う暇もない。唖然としたままの俺を部屋へ押し込むようにして入ってきた彼女は、見間違うはずもなく、先ほど水晶玉の向こうで青年の傘に入って笑っていたはずの、俺のよく知る彼女だった。戸惑いがすぐには言葉にならず、どうでもいいことばかりに気が回る。いつもならそんなことは考えもしないのに、女の子だからという安直な理由で一度掴んだ緑のスリッパを引っ込めて、新品同様のピンクを出した。彼女は礼を言って、それに足を通す。

「ほんと、すごい雨。外、行ってみた?水溜りがこんなに大きく―――……、占い屋さん?」
「え?……あ、ごめん……ええと」
「……?どうか、した?」

俺のよく知る彼女は俺のよく知る彼女のまま、いつもの調子で話す。俺の知らないはずの時間の彼女を思い出して、ぼんやりとその横顔に重ねてしまっていた。当然、ぴったりと重なる。どちらも嘘ではないし、そんなことは当たり前で。俺はしばし返答を探したあと、結局何も考えつかないままにその、と切り出した。

「……アカリ、は」
「うん?」
「……いや、さっきの人は……一緒にいなくて、いいの?」
「さっきって、ああ、なんだぁ占い屋さん、外にいたの?声かけてくれれば良かったのに」

え、と言葉に詰まった俺を気に留めず、彼女は勝手にそう納得してからからと笑った。髪の先から一粒、雨水が落ちて割れる。

「私、占い屋さんに会いにきたんだよ。大雨にやられて傘が壊れちゃって、あの人宿屋に行くって言うから、ちょっと頼んでここまで入れてきてもらったんだ」
「……え」
「おかげで来られたよ。ちょっと濡れちゃったけど」

まあこれくらいなら、すぐ乾くよね。肩に染みた水滴を見てそう話す彼女の言葉が、理解できるまでに少しの時間を要した。頭の中で急速に、先ほどの光景が彼女の話と交じり合って塗り替えられていく。気がついたらぼんやりと、確かめるように口を開いていた。

「……ここへ、来るつもりだったんだ?」
「そうだよ?だってほら」

細い指が、すいと俺を超えて背後の時計を指す。


「いつもの時間、でしょ?」


ひどく唐突に降り出した雨が、世界を叩く午後だった。ちょっと遅れちゃったけど、とおどけて言いながらふるりと髪を払い、ね、と首を傾げた彼女に俺はしばしあってから、そうだねと答えた。なんだかまた力が抜けて、そのまま椅子を引いて座り込む。ただし今度は、向かいに彼女も一緒だけれど。

「……いつもの時間、だ」
「そうだね」

疲れちゃったと笑う彼女に俺も気の抜けた笑みを返して、それからやがて、珈琲を淹れようかと訊いた。




カプセル・イン・ブルー

(ひと欠片の秘密を呑んだ、愛しき午後に記す)
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