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傾くバニラの行方 ※チハアカ


 たぶん僕は待ちわびている。気づかないふりをしているだけで。

 オレンジジュースにバニラアイスを浮かべて、結露をなぞりながら十秒も待つと、ジュースに浸かったアイスのふちがうっすらと溶けてくる。重さに従って下へと落ち、ドレープのように幕を落とす。
 甘さも強いが酸味も強い、果汁百パーセントのオレンジ色が、ぼんやりととぼけた色になるころが。飲み頃だ、と彼女は言う。黒いストローに、化粧っ気のないとぼけた色の唇をつけて。
「おいっ、しーい……!」
 噛みしめるような声と共に、ざくざくと氷をかき混ぜる音が聞こえた。ストローで溶けたアイスを広げているのだろう。
 ああそう。無視するには大きすぎる独り言に、僕はふっくらと満月型に焼きあがったキッシュを切り分けながら、つれなく答えた。途端、ねえ、と不満そうな声が訴えかける。
「そんなに冷たくしなくてもいいじゃん、人恋しくて誰かと喋りたいときもあるんだってば」
「君はいつもでしょ。っていうか、ここに来なくても話し相手くらいいるでしょ、いっぱい」
「えー? せっかくお客さんしに来たんだよ。ちょっとくらいノってくれたって……」
「なに、お客さんするって。ままごとじゃないんだからさあ」
 第一ね、と。ナイフを横に返して一切れごとに取り分けながら、僕は片手を伸ばして、バットを引き寄せる。ショーケースにさらしても恥ずかしくない切り口に、チーズとトマト、カボチャが層を成している。
 牧場直送野菜のキッシュ――そう書かれた札を立てて、厨房に入ってきたキャシーに手渡した。
「酒場に来ておいて、オレンジジュースにアイスのせたいってわがまま言うようなのは、お客さんじゃなくて迷子っていうんだよ」
「むっぐ」
「まったく、話しかけるから角が一カ所欠けたじゃないか。これ、あげるからさ。静かに食べててくれない?」
 くだらないことばかり言う口に、振り返って、キッシュを一口押し込む。フォークごと咥えさせられたアカリは琥珀色の目を見開いたあとに、慌てて残りののった皿を受け取った。
 もぐもぐ、と動物みたいに急いで口を動かして、ごくんと飲み込む。
「あっぶないなあ! 落としたらどうすんのよ?」
「怒るのそっちなわけ?」
「当たり前でしょー? チハヤの料理が無駄になるのは絶対にやだ! ……あっコレ美味しい! 美味しいね?」
「……どうも。光栄だけど、材料作ったのは全部君なんだけど」
 膨れていた顔はどこへやら、目を輝かせて頬張りはじめた変わり身の早さに呆れて言えば、彼女はキッシュを見つめたまま「それとこれとは別なの」と答えた。そういうもんなの。なんとなく聞き返せば、そういうもんですと同じ答えが返ってくる。
 僕は「そう」と頷いた。それ以上は訊かなかった。
「自分で作るのと、誰かの作ってくれたごはん食べるのは違うんだって」
「別に料理できなくもないくせに」
「あー、うん。そうだチハヤ、今度なにかシーフードのレシピ教えてほしいなあ」
「シーフードって、海老とか貝でいいの? 魚?」
「海老がいい。……うーん、そうだよねえ。なんでかな、作らないわけじゃないんだけど」
 銀のフォークの先にキッシュをのせて、彼女は一瞬、考えるように間をあけた。沈黙にぱたりと、洗ったナイフの先から水が落ちる。
 シンクに、はぜるのを見下ろす僕の顔が映った。
「なんかねー、元気でる」
「は?」
「言ったじゃん。人恋しくなるときもあるんだって」
 細かくなった水滴のあいだで、藤色の眸が大きく瞬きをする。なにそれ。こぼれるように問えば、アカリは空になった皿をカウンターに返して、わけもなさげに笑った。
 カラン、と溶けた氷が回る。とぼけた色のオレンジジュースを、三日月形の唇が一思いに飲み干して、グラスを置く。
「――内緒」
 振り返った瞬間、かすかにバニラが香った。

 たぶん僕は待ちわびている。気づかないふりをしているだけで。
「……あっそ。振り向いて損した」
 胸の奥が、溶けたバニラに浸食されるのを。研ぎ澄まされていた色が曖昧になって、今より甘く、柔くなるのを。
(君に、汚されるのを)
 言葉と裏腹に思い浮かんだそんな心に笑えば、彼女は琥珀色の目を唖然とさせて、戸惑ったように瞬きをした。またね。空になったグラスを下げて、僕は背中を向ける。
 シンクに映った顔は、そこはかとなく楽しげで、子供っぽかった。

▼追記

ダブル・コンポート ※チハアカSS


 両手いっぱいの果実で罠を張って、瓶の底で君を待ち侘びる。


 かたん、と椅子の脚が床板に擦れる音で、僕はグラスを拭いていた手を止めた。表面にまだ点々と残る水滴が、厨房の小さな明かりを弾いて光る。絶え間なく流れていた音楽さえ消された酒場には、僕がそのグラスを籠に置いた音まで、不思議に大きく響いた。その音に、カウンターの傍のテーブルでブランケットを被っていた人影が身じろぎをする。

「ん……」
「起きた? アカリ」

 名前を呼ぶと、ようやく彼女は突っ伏していた顔を上げて、僕の顔を見て瞬きを二、三度した。チハヤ。どこかぼうっとした、いつもの彼女からは想像のつかない声だ。なぜここに、とでも言いたげな表情に、まだ寝ぼけているようだと厨房を出て近くへ行ってみる。

「君さあ、寝る前の記憶ある?」
「へ……?」
「夕飯食べに来て、居合わせたルークとオセと飲んでたでしょ。覚えてる?」
「……あ。お、思い出した」

 ずり落ちたブランケットを引き上げて聞けば、彼女はここがどこで、自分が何をしていたのかを思い出したのか、状況を察したように慌てて辺りを見回した。ほとんどの明かりはとうに消され、踊り子もいなければ、彼女以外に客も残っていない。それも当然だ。何せ、時刻はもう深夜一時を回ろうとしている。従業員も、僕一人しか残ってはいなかった。
 すっかり静かになっている酒場を見渡して、アカリはうわあ、と申し訳なさそうな声を上げる。その様子だと、思ったよりも酔いは醒めているらしい。恐る恐るといった顔で見上げてきたアカリに、僕は内心、覚悟したよりは早く起きたなと思いながらも、わざとらしく溜息をこぼした。

「君さ、前に酒はそこまで弱くないとか言ってたけど。裏を返せばまあまあだって自覚があるんだったら、ああいう連中と張り合おうとか、冗談でも止めたほうがいいと思うよ」
「ご、ごめん」
「恋人だからって眠りこけた君を任される、僕の身にもなってもらいたいね。まあ、見えないところで行き倒れたり、帰り道で転がってるのを拾ったりするよりはマシかもしれないけど」
「道で寝るほど酔わないよ!」
「顔に服の跡つけて言われても、全然説得力ない。水は? いる?」
「お願いします……」

 赤く袖の跡がついた頬を慌てて隠しながら、アカリはさすがにばつが悪そうに頷いた。
 ようは、飲みすぎて潰れたのである。いつものように酒場で夕食をとりにきて、僕が少し料理に意識を取られている間に、偶然にもやってきたルークとオセと顔を合わせて。カウンター越しに話をしているのは聞こえたから、久しぶりに会ったと盛り上がっているのは僕も知っていた。
 料理ができあがって振り返ったとき、三人でテーブルに席を移動しているのにも気がついたが、今日は僕も注文が立て続けに入って忙しかったのだ。アカリの相手もあまりできそうにないなと思っていたところだったので、ちょうどいい話し相手を見つけたなら何よりだと思っていた。

「はい」
「う……、ありがとう。あの、チハヤ」
「何?」
「ごめんね。私が起きるの、待っててくれたんだよね。もう、とっくに閉店してるのに」

 そうして、ほんの一時間か二時間、目を離した結果がこの状況である。珍しく汐らしい態度になっているアカリに水を渡しながら、僕は改めて、なぜあのとき、あの二人とアカリという歯止めの利かない組み合わせを止めなかったのだろうと自分にも溜息をつきたい気分に陥った。
 元々気の合う友人なのは知っていた。ただ、少々合いすぎると言ってもいい。突き抜けているようで普段はそれなりにコントロールの利いている彼女だが、親しい人間の前での楽しいや嬉しいといった感情に対してだけ、極端に無防備になるのは何とかならないものなのだろうか。キャシーから先ほどまでのオーダーのほとんどはアカリが空にしていたらしいと告げられたときは、いくらなんでも耳を疑った。

「そんなに楽しかった?」
「え?」
「ちょっとぐらい無茶したくなるほど、あの二人と会えて楽しかったの、って聞いてるの。ま、楽しくなかったらあんなに笑ってないか」
「チハ、」
「ごめんね、ちょっと一口」

 テーブルにのせられた手から、水を注いだグラスを抜き取る。まだ溶けずに多く残っている氷が、舌先に触れて鋭い冷たさを与えてくれた。グラスをテーブルに返すと、アカリは何か困惑したように、どうしたのかとでも聞きたいような顔をしてまだ僕を見上げていた。橙のライトがシナモン色の髪を、キャラメルに染めている。

「少し、冷まさないと喋れないくらいには、妬いてるんだよね。今」
「え? 妬いてるって、あの妬いてる?」
「そうだよ? それ以外に、何があると思うの。知らないでしょ? あの二人が、何だかんだいって最初に潰れるところが、可愛いところだ、って言ったこととかね」

 ねえ、とテーブルに手をついて見下ろせば、アカリは戸惑いと驚きが入り混じったような顔で、僕をまじまじと見ている。大方、僕がこんなふうにはっきり「妬いた」などと口にするのが珍しいとでも思っているのだろう。内容を気にするよりも、そのことに気を取られているのが丸分かりだ。
 そういうところが本当に、無防備で容易い。

「それは、んっ」
「……それは、友達として憎めないって意味だよ、とか?」
「そうだよ。どっちかっていうと、情けないとか、しょうがないみたいな意味の」
「しょうがない、ね。じゃあ、僕も君のことをそう思って許さないといけないのかな?」

 分かりきった反論ばかりしようとする唇を塞いで、最初に答えを奪った。え、と瞬きをした彼女に、心の中で小さく笑う。
 まだ酔いが回っているふりをして、そうだよ、と言えば、そろそろ解放するつもりだったのに。素直にどういう意味かと食いついてくるから、僕はまだもう少し、この我が儘を引き摺ってもいいかと期待してしまう。

「恋人が他の男と楽しそうにはしゃいで、同じテーブルで寝顔まで晒して。ここが店で、僕が厨房の内側にいなかったら、さっさと追い出すか、そうじゃなければ君を連れて帰りたかったね。何時間、そんな思いで仕事してたと思ってるの。それでも、君のことだからしょうがない、って僕は思うべき?」
「う……、ごめん。その、チハヤ忙しそうだったし、別に私が誰といても気づかないかなって思ってて。そんなふうに思ってくれるとは、考えてなかったっていうか……、そうだよね。怒ってる?」
「まあ、多少は」

 敢えて選んだ「多少」という言葉を、彼女は「大いに」と理解したようだ。妬いてる、と告げて以来ぼうっと赤かった顔を勢いよく上げて、何かを決意したように力強い目で僕を見る。そうして、真剣な表情で口を開いた。

「どうしたら、私と仲直りしてくれる?」
「は?」
「だって、怒ってるんでしょ。悪かったのは私だけど、やだよ。せっかく今、ゆっくり話せるのに、チハヤと喧嘩したくない」
「……ふうん? じゃあ、さ」
「うん、何?」

 かたん、と椅子を一つ、引く音が響く。隣の席に座った僕を見て、アカリは首を傾げた。それからまるで、何でも真面目に聞こうというように姿勢を正すから、微かに笑いそうになってしまう。
 喧嘩、と彼女は言うが。気づいていないのだろうか。僕はそもそも、本気で腹を立てていたら、こんなに長々と喋ったり、あまつさえ「妬いた」などと打ち明けたりするはずもないだろうということに。

 テーブルに肘をのせて、今か今かと次の言葉を待っている彼女をじっと見る。そうして心の中で、そうだな、と自分の一つの提案に賛同した。

「君からキスしてくれたら、もうこの話は終わりにしてあげるよ」
「……へ!?」
「何、そんなにびっくりしてるの。ほんの一秒か二秒で、何時間分かチャラにしてあげる、って言ってるのに」
「で、でも……!」

 妬いたというのは、嘘だ、と。言ってしまったら、それは嘘になる。独占欲が強いと言われようが器が小さいと思われようが、彼女に言ったことは概ね本当のことだ。ただ、怒っている、というのは少し違う。気づかないうちに無防備にも眠りこけていたアカリを、当然のように寝かせたまま、彼女の話で盛り上がっている男がいることに嫉妬は覚えた。
 だが、オセがそんなアカリを「可愛い」と評したことについては、彼はむしろそんな状態で平静を装っている、僕をからかったのだ。同意したルークにもその真意があったのかどうかは知らない。ただ、あれが最近酒場に足を運んでいる理由は踊り子にあるのだということも分かっているので、本当は怒るどころか、妬く必要もないのだということは十分に知っていた。

 そんなことを知る由もない彼女は、先ほどから両手を宙で握ったり開いたり、何かを言おうとしては空気だけを吸ったり吐いたりして真っ赤になっている。無理なら無理だと言えばいいのに、それさえも頭が働かないほど、どうやら動揺しているらしかった。
 好きだ好きだと平気で連呼するくせに、こういうときには途端に手も足も出さなくなるのだから、僕としてはそれを崩す瞬間が楽しくて仕方がない。目が合えば、ぱっと背けられた。横を向いた顔に、橙のライトが赤らんだ影を落とす。

「今さら、そんなに焦らなくたって。さっきしたでしょ?」
「それはそう、だけど……!」
「だったら、躊躇うことないんじゃないの。……ああ、それとも」

 代案を匂わすようなことをぼやけば、彼女は頑なに背けていた視線を急いで僕へ戻した。密かに髪へ伸ばしていた手が頬へ触れて、わずかな水滴の冷たさに、硝子玉のような目が丸く開かれる。

「上手にできるように、もう一回お手本がほしい?」

 真っ直ぐに、その目の芯を見て僕は笑った。

 両手いっぱいの果実で罠を張って、瓶の底で君を待ち侘びる。駆け引きと名づけるには、熟しすぎた果実を差し出して。色とりどりの罠の奥から手を伸ばして、同じ瓶の中へ落としてしまいたい。溺れるには浅く、君の足では立てないくらいの、瓶の中へ。

「い、いらない! いいから黙ってて、今するんだから!」
「はいはい」
「……っ」
「まだ?」
「あああ、目、開けないでってば!」

 もどかしいくらいそろそろと伸ばされる腕を、引き寄せたくなる衝動を隠して、僕は言われた通りに目を閉じた。太陽の香りが、ふと鼻をくすぐる。時計の秒針の動く音が、この部屋の心拍のようにカチコチと響いていた。
 その一瞬の静寂に、彼女は僕にキスをした。



ダブル・コンポート

(一つの恋に呑み干され)
▼追記

イン・ザ・ホリック ※ユウ魔女


焼けるように甘い、ミルクティーが零れる。そんな匂いがした。


がり、と。角砂糖の砕ける音がする。ミルクと砂糖を沈めた紅茶の水面に落としていた視線を上げて、正面を見れば、彼は左の頬をまだかすかに動かしていた。硬質な、そう言ってしまうには脆く、舌の上で溶けるだけの甘さを連想させる音。小皿に積んだ白と茶色のうち、ブラウンシュガーの積み木が一つ減っていた。煉瓦を崩す音はもう聞こえない。

「砂糖をそのまま食べるような甘党だった? あんた」
「いや? ……紅茶、もう一杯もらっていい?」

深い焦げ茶の髪をかき上げるように、片方のこめかみを手で押さえてそう言った彼の口許には、微笑ではなく苦笑が浮かんでいる。どうぞ。呆れてそう言い捨てれば、礼を言うが早いか、先ほど空にしていたカップに二杯目を注いで、軽く冷まし煽った。

「あー……残る」
「勝手に食べたくせに、文句言わないでもらいたいわね。水は?」
「ん、いい、平気だから。そこまで嫌いってわけでもない、はずだし」

濁りのない飴色。混じり気のないそれを、彼は飲む。笑っているが、いつもは煩いくらいの声に力が入っていない。おまけに水面はもう、カップの半分ほどまで減ってきている。
はあ、と内心で溜息とも呆れともつかない吐息を落として、私は組んでいた脚を左右入れ替えた。髪と同じ、どこか紅茶より珈琲に近い色の眸が、それに気づいたようにこちらを向く。

「無理しなくていいわよ。あんたが甘いもの苦手だってことくらい、とっくに知ってるから」
「俺に苦手なものはない」
「じゃ、嫌いっていうのかしらね。どっちにしろ同じでしょ」

言葉の揚げ足を取ることもままならず力のない反論を返す彼へ、キッチンへ向けて指を一振りし、コップに水を汲んでやった。凹凸のない、シンプルなガラスのコップの中で、水はぱしんと波打ちながらテーブルへやってくる。
無言で差し出せば、無言でそれを飲み干した。空気のような透明が、砂糖を混ぜても色の変わらない透明が。けれど今はそこに何も混じり気を持たない透明が、空になる。

「……で? そろそろ白状しなさいよ」
「何の話だか、さっぱり」
「馬鹿。さっきからあんたの様子がおかしいことに決まってるでしょ。一体、何に意地になってるわけ、ユウキ」

彼がコップを置く。その音を合図に切り出せば、深い茶色の眸は気まずそうに逸らされた。今さらどう足掻かれたところで、追及を止める気はない。
考えれば考えるほど、おかしいのだから。彼は、元来思ったことをあまり隠さない性質なのだから。意地を張るのは普段なら私の役であって、見栄を張ることはあっても彼は本音を内に押し込みなどしない。煩いくらいに自信家で、相容れないくらいに要領がよく、時折胡散臭いほどに愛を掲げ、そして何より。

「……あんたがアタシに秘密を持とうなんて、百年早いんだから。いつもみたいに、余計なことまで何もかも言いなさいよ」

それでも「誰より好き」だという、私相手に隠し事は持たない。
細く重く、温く漏れた溜息は、目の前でようやく視線を合わせた彼に零したものだったのか、それともそんな、まるで人間の読む甘ったるいだけの小説にでも出てきそうなことを平然と思った自分の内心に対してのものだったのか。後者を受け入れるにはあまりにじくじくと悔しく、かといって前者に押し付けることは、後者の可能性にさえ目を瞑る、真の盲目になってしまう気がして躊躇われる。
否、いっそ盲目よりも、もしかしたら。そう考えかけて、慌ててその思考を隅へ追い払った。

「……甘党になりたかったんだよ。それも、すごい奴」
「なんでいきなり……、すごいって、例えばどれくらいよ?」
「ホールケーキ一個なんなく食えるくらい」
「……は?」

答えを濁せる言葉を探すのは止めたのか、視線を合わせてからの彼は、開き直ったようにあっさりとそう答えた。予想の行き着くはずもなかった理由と、その目標値に思わず瞬きをする。ホールケーキ一個。額の裏でくるくると、クリームでデコレーションされた大きなケーキが回って消えた。同時に、思わず口を開いていた。

「無理でしょう」
「そう言うなよ」
「いや、だって。砂糖の入った紅茶も飲まないような人に、できると思うの?」
「……ま、そうなんだよな。現実的には」

間髪入れず否定すれば、背もたれに伸びをしてはは、と笑う。どこか軽い自嘲にも似たその笑い方が耳に留まって、それならなぜ、と問うように首を傾げれば。仕草だけでその問いかけを聞き取りでもしたのか、彼はうん、と一人で頷いて、吹っ切れたように言った。

「言ってみたかったんだ。“魔女さまの作ってくれたとびっきりのケーキが食いたい”って」
「ア、アタシ?」
「そ。なんかさ、恋人同士の誕生日! って感じするじゃん?」
「……あ」
「思い出した? 前に聞いてくれたんだよ、誕生日、何がほしいかって」

――祝ってほしいっていうなら、欲しいものくらい決めてから言いなさいよね。一番欲しいもの以外を用意してあげるほど、アタシは暇じゃないんだから。
頭の奥に、何日、あるいは何週間か前か。口にしたことが甦る。もうすぐ誕生日だと、あからさまにわざとらしく話していった彼に、帰り際伝えた言葉。あのときは可愛いだの嬉しいだのと騒ぎながらいつもの勢いで抱きついてきたものだから、どうせこうして喜んでいたところで結局は何も望まれず、当日になったところで初めて一緒にいられれば良いだの何だのと調子の良いことを言われて終わるのだろうと流してすっかり忘れていたのだが。

「言ってみて、もし本当に作ってくれたら、やっぱ食いたいじゃん?」
「それは、そ……」
「全部」
「な、何もそこまでは望まないわよ」
「魔女さまがそうでも、俺はそれくらいってこと」

もしかしたら、あれからずっと彼は考えていたのだろうか。私が、すっかり頭の片隅へ流してしまっても。
気づいた瞬間、頬にかっと熱が上るのを感じて急いで顔を伏せた。ティーカップをテーブルからひったくるように取り上げて、口をつける素振りで目を背ける。冷めていく中身の熱さを奪うように、飲み干したあとで胸は熱を抱え込んだ。嗚呼。

「欲張りだわ」
「仕方ないだろ」

焼けるように甘い、ミルクティーが零れる。そんな匂いがした。両目を開けて、それに気づいて、私は傍観している。この手が、服が、肌が、ゆっくりと溺れていくのを。今か今かと、否、もしかしたらもう、と。

吐き捨てた言葉は当たり前のように一蹴されて、ティーカップは空になり。行き場を失った私の目に映るのは、困ったように、幸せそうに、視線を上げた私を見て笑うばかりの双眸だった。人肌に温まってしまったカップを、まだ手放せないでいる。これを口元から離してしまったら、次に返す言葉はまだ、到底見つからなそうで。



イン・ザ・ホリック

(砂糖菓子の砂糖を抜く魔法を模索する)

▼追記

宣告 ※チハアカ


温い鉛を溶かすような、鈍色の熱に溺れている。


それは例えば、時計の針が左に回らないように。太陽が東に沈まないように。いつから、どうしてともなく生まれている法則のようなもので。

「ねえねえ、チハヤー」
「何?」
「呼んだだけ」
「……あっそう」

僕は、彼女を鬱陶しく振り払う。
ねえ、そうなんだろう、と。振り返った先で見た笑顔に、ああ変わらないな、と思った。昨日も一昨日も、そのまた前も。いつだって変わらない。これは、僕と彼女の間に横たわる絶対的な法則なのだ。

「たまにはチハヤも呼んでよ」
「何のために」
「呼んだだけだよ、とか」
「そういう無駄なこと、誰かさんと違ってしないほうなんだよね」

シナモン色の髪をふるりと払って、隣に腰掛けた彼女がわざとらしく唇を尖らせた。背もたれに投げ出された体を受け止めて、ソファが揺れるように沈む。僕の背中も少しだけ、後ろへ向かって沈んでいく。

「……チハヤのけち」
「小声のつもりみたいだけど、聞こえてるよ。隣同士で小声とか、やっぱり無駄なことが好きだね」
「気のせいだよ」
「へえ、そうなんだ」
「当然じゃん」

だって、ほら。私チハヤ大好きだし。言外にだからそんなこと言うわけないじゃないという意味を込められた、後付けのような台詞に、聞こえないふりをした。
上機嫌なのかごまかしのつもりなのか、曖昧な鼻歌を聞き流して料理本をめくる。デザートのページに差しかかったと思ったら、横から伸びてきた手が栞のようにそこで差し込まれた。

「……何?そんな顔されても、分からないんだけど」
「今の、やつ」
「ああ、オレンジのシフォンケーキね」
「……食べたいな?」
「……」
「……」

目は口ほどに、とはよく言うが、僕は彼女ほど雄弁な視線を持つ人間を知らない。というか、知りたくもないけれど。口だけでも騒がしいのに目まで煩いのだから、どうしようもなく厄介だ。しばし見つめ合った後で、先に口を開いたのは僕だった。

「作り方なら、簡単みたいだよ」
「そ、そうじゃなくって」
「僕ってどうやらけちみたいだから。レシピを貸してあげるくらいが、限界じゃない?」
「だからあれは気のせいで……!」
「へえ、そうなんだ」
「……ちょっと話したかっただけだったんだもん。嘘だもん」

ああ、やっぱり。口もどうしようもなく、厄介だ。勢い任せに投げては返し、投げては返していた言葉が、彼女の言葉を最後に途切れる。どうしてこうも時々、何もかもを投げ出したように正直になるのだろう。冗談ごっこの嘘やごまかしが来ることを前提にしてしまっている僕は、そんな形で不意をつかれると、返す言葉を見失って呆けてしまいそうになる。
白状した側のはずなのにこれでどうだと言わんばかりの顔で返事を待っている彼女に、何度となく感じてきた感覚が押し寄せる。

「……仕方ないな」
「やったぁ!」

ミルクと砂糖で濁った、珈琲のような敗北。もう何度目か分からないその感覚と心の中で手を合わせて、また会ったねと自嘲気味に苦笑した。出会った頃から幾度となく味わってきたこの感覚にも、すっかり慣れてしまったものだと。何だかな、と少しだけ目を背けたくなる胸の内も知らず、本に挟まれたままの手が嬉しそうにページを一つ戻した。

「えへへ、これ」
「はいはい」

押し切られて、仕方ないなとため息をついて、いいよと受け入れて。お喋りなガラス玉のような目を閉じて笑われるたび、思うことが一つ。

―――君は、いつまで僕の仕方ないな、を、信じきっているのだろう。

初めの頃は諦めの台詞だったその言葉が、いつからだろうか、彼女を許すためでなく、僕自身のために口をついて出るようになったのは。
呼んだだけの名前にも、前触れのないリクエストにも。いいよ、の一言が初めから投げられない僕は、いつだって横を向いたまま、仕方ないなとぼやいて。気づけばそれが、僕らの常になってしまっているけれど。

「チハヤ、大好き!」
「清々しいくらい調子がいいよね、君って」
「え、そうかな。本当のことだよ?」

嫌いな人間にそうそう何度も仕方ないなと言えるほど、僕はお人好しでもお節介でもない。本当に仕方ない時期は、もうとっくに通り越した。今残っているのはただの、響きだけ、前のままの抜け殻のような言葉だ。
気を抜けば芯を貫く言葉に、軽口を叩く。そうでもさせてもらえないと、僕は多分。

「今でも今じゃなくても、チハヤのことは好きだもん。いつも言ってるじゃん」

その先で選ぶ言葉を、大きく間違えてしまう気がする。そう、聴覚を塞ごうとしたのに、彼女の声は躊躇いがなくて先に耳へ届いてしまった。ぷつりと、真っ直ぐに張った糸の上を上手に転がっていたボールが落ちる。早く、言わなくては。いつものように。はいはい、ありがとう。そうだっけ、悪趣味だね。何でもいい、どれでもいいからいつものように返事をしよう。
そう思ったのに、落下の瞬間、口をついて出た言葉はこれまでに発したことのあるどれにも当てはまらないものだった。

「本気?」
「え?」
「嘘がつけるタイプには、見えないんだけどさ。君のそれって口癖なのか、本当なのか、何なんだろうね」
「チハヤ?」
「……嘘つきでもさ、限界はあるの」

できあがってしまった法則を、壊すのが嫌だった。そんなふうに思ったことどころか、他人との間に暗黙の了解なんてできたこともなかった僕にとって、それは未知の代物だったから正しい壊し方も分からない。それが、僕と彼女の関係だった。彼女が笑い、僕が呆れ、彼女が懲りず、僕が折れる。それはデザートの話でも好きの言葉でも同じことで、軽口の上に並んでいる僕たちは、特に僕は、本当のことを言ってしまっていつも通りという足場を崩すことが何より怖い。そうだったのだけれど。


「本気じゃないふりするのも、結構疲れるんだよね」


柔らかなソファの隅へ押し込むように片腕で埋めた彼女の肩は細く、もう後にも退けないけれど、せいぜい嫌われたくなくて本当の顔で、困ったように笑った。

温い鉛を溶かすような、鈍色の熱に溺れている。好きだと、他愛なく君が言うたび、この胸がそれを溶かすためにどれほどの熱に灼かれているか。気づかないのなら、今ここで。いつもの言葉を、君に返そう。

「―――好きだよ、アカリ。冗談でも友情でもなく、結構前からね」

オレンジのシフォンケーキのページを広げたまま、料理本がソファから落ちる。拾いに逃げようとする片手に指を絡めて捕まえれば、彼女は両目を見開いて声もなく僕を見た。いつだって雄弁で無邪気な眸が、徐々に赤くなっていく頬の上ですっかり言葉をなくしている。
ここまで言ってしまった以上、僕には戻る場所もない。これまで彼女に与えられてきた言葉のすべてを返すつもりで、どのみち本気にさせてみせると口づけた額は、溶けるように熱かった。



宣告

(この親愛から君を連れ出す)
▼追記

Cotton girl ※アギ主


喉元を過ぎて気づく甘さに、僕は振り向かされてばかりだ。


「ミコトさん、ミコトさん、ちょっと」

冷たい空気を割って進む、羽飾りがせわしなく揺れている。石の敷き詰められた長い道を真っ直ぐに歩いていく背中は小さく、そのくせ僕よりずいぶん速く歩いた。息を乱すほどの駆け足でもないけれど、決して穏やかな歩調でもない。初めだけかと思いきや緩む気配のないその速度に、思わず声をかける。

「どこまで行くんですか」
「散歩だって」
「散歩って速さじゃありませんよ。もっとゆっくり歩いたっていいでしょう」

ねえ、と。同意を求めるように言ってみるが、それに返事はない。ちらと振り返った彼女は何か物言いたげな、というより思案するような眼差しで僕を見て、結局何も言わずにまたくるりと背中を向けてしまった。速度は落ちない。羽飾りは相変わらず、冬の日の冷たさを物ともせずに進んでいく。手を繋がれているので、必然的に僕の足も速くなる。右、左、右。

「……」

無理にでも引き留めようと思えば、いつでもできるのだけれど。手を繋いでいるということは、彼女が僕を前へ前へと引っ張るように、僕が彼女を後ろへ引っ張ることだって可能なのだ。だけど、と。途切れなく石畳の継ぎ目を踏み越える自分の左右の爪先へ視線を向けながら、考える。僕の知る限り、彼女は意味もなく無言で歩いていけるような人ではない。

と、すると。そう考えてみて僕は、困ったなと明後日の方向を見上げた。川がさらさらと流れている。彼女には何かしら、今立ち止まりたくない理由があるのかもしれないと思う。そこまでなら、僕にも考えが及ぶ。
けれど問題はその先で、僕にはならばその理由がなんなのかということを、ぴたりと察するほどの勘の良さも上手に聞き出す言葉の巧みさも、どちらも持ち合わせている自信があまりないということだ。怒らせるようなことはなかったと記憶しているが、それも本当にそうだろうかと追及されてしまうと正直に言って分からない。君はぼんやりしていると、何度か人から言われたこともある。もしかしたら僕が見落としただけで、彼女にとっては何か、分からないことが分からないような大きな理由があるのかもしれない。

「……ギ、アギ!」
「わっ」
「きゃ、そんなに驚かないでよ。さっきから呼んでたんだから」
「え?」

そんなことを次から次へ繋ぎ合わせて考えていたら、どうやら二度、三度、呼びかけられるまで気づかなかったらしい。唐突に耳元で呼ばれて驚いた、と思ったのは僕だけのようで、彼女のほうは心外だと言わんばかりに、ふいと瞼を伏せて頬を膨らませている。
ごめん、と口にしてから、そういえば足を止めていることに気づいて辺りを見回した。なだらかな山の麓だ。季節外れの虫の声が、せせらぎに交じっていくつか聞き取れる。

いつの間にか、こんなところまで歩いてきていたのかと。しばしぼうっとその景色を眺めてから視線を下ろせば、じっと見上げているワインレッドの眸と目があった。一瞬、何か言うべきだろうかと言葉を探して息を呑んだが、先に口を開いたのは彼女のほうだった。

「もう帰りたい?」
「え?」
「……」

じっと。まるで何かを必死に探ろうとしているような眼差しに、いつもの快活な彼女とは違ったものを感じて戸惑ってしまい、会話よりもその動揺が先に立って、答えをすぐに口にできなかった。そんなことは、と。たった一言、ようやく口にする。こんな眼差しを、さっきも見た気がする、と脳裏に歩いてきた道を巻き戻す。川縁で見た、振り返ったときの顔だと思い出して、視線を背けた。

「帰りたいなら、私も一緒にアギの家の前まで帰る」
「どう、して」
「どうしても」

今日の彼女は、分からないことだらけだ。心の中でついたつもりのため息が滲み出て、目の前の空気を白く染めた。ワインレッドが、薄い綿のような膜の向こうで霞んで、また鮮やかになる。僕には手に取れる言葉が、もう見つからない。仕方なく探り返すようにその目を覗いてみれば、緩やかに解かれた手が、そっとマフラーに触れた。

「……無理言ってごめんね」
「え?」
「アギ、最近あんまり外で会わないんだもの。忙しいのかなって思ったけど、それにしたって、前はよく川岸やこの辺りで会えたのに」

首元を通っていた風が、彼女の直したマフラーに打ち消されて零れる。ぽつりぽつりと、彼女が話すたび、浮かび上がる白い呼吸を見ていた。今の僕の頭の中に似た霞の中に、真意を探す。

「……帰るなら、ゆっくり歩いてね」

悴んだ両手が遠慮がちにマフラーを握って、そう呟いたとき。脳裏にばらばらのささやかな記憶がまるで彼女から流れ込むように甦って、霞を消した。

「――――――」

いつだったか、そういえばもう結構前のことになるけれど。この麓で会った彼女に、近頃少し、何をしても行き詰まっていると話したことがあった。絵を描いても、彫刻に手をつけても、どことなく落ち着かなかった。そうなの、とだけ相槌を打った彼女に、こんな話は困らせるかと早々に切り上げたのを覚えている。
そういえば、だ。話したことさえ自分では忘れてしまっていたけれど、あれ以来、外に出ても気分が晴れず、噴水のほうを回って引き返すばかりだったかもしれない。最後に彼女とこの場所で話したのは、きっとあのときで。


喉元を過ぎて気づく甘さに、僕は振り向かされてばかりだ。風の抜けるような速度で透明に、透明にこの胸へ手を翳す彼女の、影を残さない優しさにもっと、いつだって気づいていきたい。

「……心配、してくれたんですね」
「私が気にしただけだから。……?」
「どうもありがとう。……少しだけ、話しませんか」

帰り道へ向かおうとしている彼女の手を掴んで呼び止めれば、ワインレッドが瞬くように見開かれて。そうして僕のよく知る、いつもの彼女が嬉しそうに頷くので、今日は久しぶりにもう少し山の上まで行こうと思った。



Cotton girl

(真綿と溶けるこの白日)
▼追記
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