両手いっぱいの果実で罠を張って、瓶の底で君を待ち侘びる。
かたん、と椅子の脚が床板に擦れる音で、僕はグラスを拭いていた手を止めた。表面にまだ点々と残る水滴が、厨房の小さな明かりを弾いて光る。絶え間なく流れていた音楽さえ消された酒場には、僕がそのグラスを籠に置いた音まで、不思議に大きく響いた。その音に、カウンターの傍のテーブルでブランケットを被っていた人影が身じろぎをする。
「ん……」
「起きた? アカリ」
名前を呼ぶと、ようやく彼女は突っ伏していた顔を上げて、僕の顔を見て瞬きを二、三度した。チハヤ。どこかぼうっとした、いつもの彼女からは想像のつかない声だ。なぜここに、とでも言いたげな表情に、まだ寝ぼけているようだと厨房を出て近くへ行ってみる。
「君さあ、寝る前の記憶ある?」
「へ……?」
「夕飯食べに来て、居合わせたルークとオセと飲んでたでしょ。覚えてる?」
「……あ。お、思い出した」
ずり落ちたブランケットを引き上げて聞けば、彼女はここがどこで、自分が何をしていたのかを思い出したのか、状況を察したように慌てて辺りを見回した。ほとんどの明かりはとうに消され、踊り子もいなければ、彼女以外に客も残っていない。それも当然だ。何せ、時刻はもう深夜一時を回ろうとしている。従業員も、僕一人しか残ってはいなかった。
すっかり静かになっている酒場を見渡して、アカリはうわあ、と申し訳なさそうな声を上げる。その様子だと、思ったよりも酔いは醒めているらしい。恐る恐るといった顔で見上げてきたアカリに、僕は内心、覚悟したよりは早く起きたなと思いながらも、わざとらしく溜息をこぼした。
「君さ、前に酒はそこまで弱くないとか言ってたけど。裏を返せばまあまあだって自覚があるんだったら、ああいう連中と張り合おうとか、冗談でも止めたほうがいいと思うよ」
「ご、ごめん」
「恋人だからって眠りこけた君を任される、僕の身にもなってもらいたいね。まあ、見えないところで行き倒れたり、帰り道で転がってるのを拾ったりするよりはマシかもしれないけど」
「道で寝るほど酔わないよ!」
「顔に服の跡つけて言われても、全然説得力ない。水は? いる?」
「お願いします……」
赤く袖の跡がついた頬を慌てて隠しながら、アカリはさすがにばつが悪そうに頷いた。
ようは、飲みすぎて潰れたのである。いつものように酒場で夕食をとりにきて、僕が少し料理に意識を取られている間に、偶然にもやってきたルークとオセと顔を合わせて。カウンター越しに話をしているのは聞こえたから、久しぶりに会ったと盛り上がっているのは僕も知っていた。
料理ができあがって振り返ったとき、三人でテーブルに席を移動しているのにも気がついたが、今日は僕も注文が立て続けに入って忙しかったのだ。アカリの相手もあまりできそうにないなと思っていたところだったので、ちょうどいい話し相手を見つけたなら何よりだと思っていた。
「はい」
「う……、ありがとう。あの、チハヤ」
「何?」
「ごめんね。私が起きるの、待っててくれたんだよね。もう、とっくに閉店してるのに」
そうして、ほんの一時間か二時間、目を離した結果がこの状況である。珍しく汐らしい態度になっているアカリに水を渡しながら、僕は改めて、なぜあのとき、あの二人とアカリという歯止めの利かない組み合わせを止めなかったのだろうと自分にも溜息をつきたい気分に陥った。
元々気の合う友人なのは知っていた。ただ、少々合いすぎると言ってもいい。突き抜けているようで普段はそれなりにコントロールの利いている彼女だが、親しい人間の前での楽しいや嬉しいといった感情に対してだけ、極端に無防備になるのは何とかならないものなのだろうか。キャシーから先ほどまでのオーダーのほとんどはアカリが空にしていたらしいと告げられたときは、いくらなんでも耳を疑った。
「そんなに楽しかった?」
「え?」
「ちょっとぐらい無茶したくなるほど、あの二人と会えて楽しかったの、って聞いてるの。ま、楽しくなかったらあんなに笑ってないか」
「チハ、」
「ごめんね、ちょっと一口」
テーブルにのせられた手から、水を注いだグラスを抜き取る。まだ溶けずに多く残っている氷が、舌先に触れて鋭い冷たさを与えてくれた。グラスをテーブルに返すと、アカリは何か困惑したように、どうしたのかとでも聞きたいような顔をしてまだ僕を見上げていた。橙のライトがシナモン色の髪を、キャラメルに染めている。
「少し、冷まさないと喋れないくらいには、妬いてるんだよね。今」
「え? 妬いてるって、あの妬いてる?」
「そうだよ? それ以外に、何があると思うの。知らないでしょ? あの二人が、何だかんだいって最初に潰れるところが、可愛いところだ、って言ったこととかね」
ねえ、とテーブルに手をついて見下ろせば、アカリは戸惑いと驚きが入り混じったような顔で、僕をまじまじと見ている。大方、僕がこんなふうにはっきり「妬いた」などと口にするのが珍しいとでも思っているのだろう。内容を気にするよりも、そのことに気を取られているのが丸分かりだ。
そういうところが本当に、無防備で容易い。
「それは、んっ」
「……それは、友達として憎めないって意味だよ、とか?」
「そうだよ。どっちかっていうと、情けないとか、しょうがないみたいな意味の」
「しょうがない、ね。じゃあ、僕も君のことをそう思って許さないといけないのかな?」
分かりきった反論ばかりしようとする唇を塞いで、最初に答えを奪った。え、と瞬きをした彼女に、心の中で小さく笑う。
まだ酔いが回っているふりをして、そうだよ、と言えば、そろそろ解放するつもりだったのに。素直にどういう意味かと食いついてくるから、僕はまだもう少し、この我が儘を引き摺ってもいいかと期待してしまう。
「恋人が他の男と楽しそうにはしゃいで、同じテーブルで寝顔まで晒して。ここが店で、僕が厨房の内側にいなかったら、さっさと追い出すか、そうじゃなければ君を連れて帰りたかったね。何時間、そんな思いで仕事してたと思ってるの。それでも、君のことだからしょうがない、って僕は思うべき?」
「う……、ごめん。その、チハヤ忙しそうだったし、別に私が誰といても気づかないかなって思ってて。そんなふうに思ってくれるとは、考えてなかったっていうか……、そうだよね。怒ってる?」
「まあ、多少は」
敢えて選んだ「多少」という言葉を、彼女は「大いに」と理解したようだ。妬いてる、と告げて以来ぼうっと赤かった顔を勢いよく上げて、何かを決意したように力強い目で僕を見る。そうして、真剣な表情で口を開いた。
「どうしたら、私と仲直りしてくれる?」
「は?」
「だって、怒ってるんでしょ。悪かったのは私だけど、やだよ。せっかく今、ゆっくり話せるのに、チハヤと喧嘩したくない」
「……ふうん? じゃあ、さ」
「うん、何?」
かたん、と椅子を一つ、引く音が響く。隣の席に座った僕を見て、アカリは首を傾げた。それからまるで、何でも真面目に聞こうというように姿勢を正すから、微かに笑いそうになってしまう。
喧嘩、と彼女は言うが。気づいていないのだろうか。僕はそもそも、本気で腹を立てていたら、こんなに長々と喋ったり、あまつさえ「妬いた」などと打ち明けたりするはずもないだろうということに。
テーブルに肘をのせて、今か今かと次の言葉を待っている彼女をじっと見る。そうして心の中で、そうだな、と自分の一つの提案に賛同した。
「君からキスしてくれたら、もうこの話は終わりにしてあげるよ」
「……へ!?」
「何、そんなにびっくりしてるの。ほんの一秒か二秒で、何時間分かチャラにしてあげる、って言ってるのに」
「で、でも……!」
妬いたというのは、嘘だ、と。言ってしまったら、それは嘘になる。独占欲が強いと言われようが器が小さいと思われようが、彼女に言ったことは概ね本当のことだ。ただ、怒っている、というのは少し違う。気づかないうちに無防備にも眠りこけていたアカリを、当然のように寝かせたまま、彼女の話で盛り上がっている男がいることに嫉妬は覚えた。
だが、オセがそんなアカリを「可愛い」と評したことについては、彼はむしろそんな状態で平静を装っている、僕をからかったのだ。同意したルークにもその真意があったのかどうかは知らない。ただ、あれが最近酒場に足を運んでいる理由は踊り子にあるのだということも分かっているので、本当は怒るどころか、妬く必要もないのだということは十分に知っていた。
そんなことを知る由もない彼女は、先ほどから両手を宙で握ったり開いたり、何かを言おうとしては空気だけを吸ったり吐いたりして真っ赤になっている。無理なら無理だと言えばいいのに、それさえも頭が働かないほど、どうやら動揺しているらしかった。
好きだ好きだと平気で連呼するくせに、こういうときには途端に手も足も出さなくなるのだから、僕としてはそれを崩す瞬間が楽しくて仕方がない。目が合えば、ぱっと背けられた。横を向いた顔に、橙のライトが赤らんだ影を落とす。
「今さら、そんなに焦らなくたって。さっきしたでしょ?」
「それはそう、だけど……!」
「だったら、躊躇うことないんじゃないの。……ああ、それとも」
代案を匂わすようなことをぼやけば、彼女は頑なに背けていた視線を急いで僕へ戻した。密かに髪へ伸ばしていた手が頬へ触れて、わずかな水滴の冷たさに、硝子玉のような目が丸く開かれる。
「上手にできるように、もう一回お手本がほしい?」
真っ直ぐに、その目の芯を見て僕は笑った。
両手いっぱいの果実で罠を張って、瓶の底で君を待ち侘びる。駆け引きと名づけるには、熟しすぎた果実を差し出して。色とりどりの罠の奥から手を伸ばして、同じ瓶の中へ落としてしまいたい。溺れるには浅く、君の足では立てないくらいの、瓶の中へ。
「い、いらない! いいから黙ってて、今するんだから!」
「はいはい」
「……っ」
「まだ?」
「あああ、目、開けないでってば!」
もどかしいくらいそろそろと伸ばされる腕を、引き寄せたくなる衝動を隠して、僕は言われた通りに目を閉じた。太陽の香りが、ふと鼻をくすぐる。時計の秒針の動く音が、この部屋の心拍のようにカチコチと響いていた。
その一瞬の静寂に、彼女は僕にキスをした。
ダブル・コンポート
(一つの恋に呑み干され)