もしもこの腕がもう少し長かったら、この足がもう少し速かったら。
「グレイ」
冬にしてはぬるい風が、それでも確かに少しずつ熱を掠め取っていく。安いマフラーを引き上げてぐるりと首に巻き直しながら、足元で同じように動く影を一歩踏んだときだった。
「グレイったら!」
「うわ!?」
ふいに聞き慣れた声が耳を叩き、振り返るよりも早く背中にかかる柔らかい衝撃。焦点を少し下げればぴたりと触れた眼差しと、背中を叩いたときのまま伸ばされた白い手に、俺は一拍遅れて口を開いた。
「クレア、さん」
口にすれば目の前の顔は声を聞いて浮かんだシルエットに収まり、頭の奥でふんわりと落ち着く。咄嗟の出来事に動揺していた心臓も案外呆気なく静かになって、そんな俺を知ってか知らずか、彼女はわざとらしく片頬を膨らませた。
「グレイったら、さっきから何度も呼んでたんだよ」
「え?」
「なのに全然気づいてくれないし。何か考えごとでもしてたの?」
責めるような呆れを含んだ口調はすぐに消え失せ、彼女は気遣うようにこちらの表情を覗き込んだ。空色がぐっと近くなって、ふるりと揺れる。
「そんなことは、ないけど……」
答えた言葉は事実であって、けれど勝手に唇から出たものだった。瞬きに掻き乱された思考は先刻の自分が何かを考えていたかなど冷静に思い出すより早く、ひとまずこの距離から逃れることを選んだらしい。
実に俺らしい、惜しい本能だ。それならいいの、と離れていって細められた目に笑みを返しながら、心の中でそう自分に毒づく。
「あ、ねえ」
「え?」
「グレイは、どこか行くところ?」
もう少しくらい、あのままだって良かったろうに。そんな本音がちらりと脳の全面に出てきたとき、歩き出しかけた彼女がくるりと振り返って言った。頭の中を悟られたくなくて、思わずキャップを深く被る。とはいえ彼女の問いかけは、そんな俺の焦りの上をするりと越えて、他愛ないものだったのだが。
「仕事も終わったから、少し散歩に行こうかと……クレアさんは?」
「同じ。息抜きがてら教会のほうまで行こうと思って」
「あ、そうだったんだ」
「うん。ねえ、一緒に行ってもいい?」
頷けば礼を言ってにこりと笑い、彼女はぱっと適当な方向へ足を向けて歩き出した。俺も初めからそちらへ行くつもりだったから、特に何を言うこともなくついていく。
「そういえばね、この間―――」
さくり、さくり。日頃見かける仕事中とはうって変わって、ゆるやかな歩調で歩く彼女は何だか新鮮だった。背中でかすかに揺れる髪が俺の隣を越えて、視界を抜ける。柔らかな靴音はいつの間にか揃って、俺はそれでも斜め前の彼女の話にうんと相槌を打ちながら、少しだけ何かを変えたくて。
日溜まりを掬う肩に伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろす。ああもしもこの腕がもう少し長かったら、この足がもう少し、速かったら。
意図せず届いてしまいました、なんて小さな嘘もつけるのに。でも。
「……え」
「……あ、ええと」
「……」
「……」
そんな考えごとに、気を奪われているつもりになって。風に逆らって振った手で、彼女の指を握った。
沈黙に、遠慮がちな力だけが伝わってくる。俺は、ふいと前を向いた彼女を見て思うのだ。
「……ばあか。言い訳くらい、先に考えておいてよ」
きっとどんな上手い、奇跡みたいな嘘だって。彼女の前では、俺にとっては多分、砂の盾。
故意心Lv.1
(ぬるい向かい風が、冷たい)