《ふぁんそんこそ気功の命・2/気功の山を歩こう!》
【ふぁんそんテクニック】
(二)
放鬆(ほうしょう)などという言葉は日本語には無い。
従って、気功の教室において、僕は師からこの言葉を教えられても、意味も解らなければ、概念も持てなかったのだ。
師は、そしてたの多くの指導者たちも、それを〔リラックス〕とか〔脱力〕として訳して伝えていた。
いま考えてみれば、確かに〔放鬆〕に該当する適当な日本語は無い。
だから、僕は、放鬆の中国語読みである〔ふぁんそん〕という言葉を直接用いているのだ。
漢字の中国語読みを表記するピンインでは、〔fang-song〕となっている。
〔ng〕は、「ン」と止めないで「ンー」と鼻に抜けるように発音する言葉だそうだ。
四声( ̄\v/)で言えば、「\ ̄」だと思う。
(間違っていたら教えてほしい)
とにかく日本語にはない言葉で、それを的確に表す日本語訳もなかったのだ。
つまり、〔ふぁんそん〕は、リラックスでも脱力でもないということなのである。
(三)
リラックスとか脱力、或いは、よく似た言葉で弛緩などという言葉もあるが、柳のようにだら〜んと垂れ下がっている訳ではない。
力や気が抜けて、必要な緊張が途切れている訳でもない。
緩んでいるけれどシャンとしている。
シャンとしているけれど余分な緊張はない。
しかも、それらは表面的な緩みだけではなく、内的な緩みが伴っているのだ。
具体的なイメージをすれば、厚さ1?以下で幅1?、長さ30?くらいの鋼(ハガネ)を想像しよう。
その端を持って立ててみると、その鋼はシャンと立っている。
しかし、手を左右に細かく揺らすと、鋼はしなるように、或いは波打つように揺れるだろう。
決して箸や棒のように直線のままで揺れない訳ではないだろう。
だからと言って、だらーんと垂れ下がっている訳でもないのだ。
細井釣り竿をまっすく立てているのも同じだ。
シャンとしているが、やわらかくしなやかに揺れる。
そんな体を体の中から作っていく。
それが放鬆法、即ち〔ふぁんそんテクニック〕なのである。
《ふぁんそんこそ気功の命/気功の山を歩こう!》
気功の山の中腹(五合目)までに身につけておきたいものとして主に〔ふぁんそんテクニック〕と〔体幹テクニック〕の技がある。
その他には、腹式呼吸法や逆式腹式呼吸法、そして、基本的な体の使い方などがあるだろう。
そこで、読者には「耳にタコができる」かもしれないが、それらの技のポイントやヒント、コツなどについて、、もう一度、点検し直してみようと思う。
【ふぁんそんテクニック】
(一)
気功は〔ふぁんそん〕に始まり〔ふぁんそん〕に終わる。
気功の山の登山口から直ぐに〔ふぁんそん〕を身につけ、その〔ふぁんそん〕を手掛かりに山を登り、頂上に到達してみると〔ふぁんそん〕だけの世界が広がっている、そんな感じだろう。
勿論、僕は頂上に至っていないので、まだその心境では亡いのだが…。
気功を考える場合、〔ふぁんそん〕への理解と取り組みなしには気功は出来ないと言っても過言ではないだろう。
〔ふぁんそん〕してこそ、様々な気の訓練も可能になるし、様々な功法(作品)も気功としての功法になるからだ。
僕は、どんな功法や動きに際しても、意識的な動きや筋肉的な動きのないように心掛けている。
故意に体を動かしているようでは、気功的な動きにはならない。
体の中の気が動いているのだから、しなやかで滑らかで、体の何処かの部分が他の部分と離れて動くことはない。
体の何処かに、速い遅いがなく、全てが空気のように動いているのだ。
視覚的に言えば、蝋燭や焚き火などの炎のような感じだろうか。
そんな動きが出来るようになるためには、〔ふぁんそん〕が絶対的な必需品なので有る。
(二)
つづく
《カリキュラムが必要だ・2/気功の山を歩こう!》
【早く確実に登るために】
(三)
因みに、〔かんかんかんさいれん〕というのを漢字で表すと〔緩感貫採練〕となる。
〔緩〕は体内を緩めて〔ふぁんそん状態〕にしていくという放鬆法を表している。
次の〔感〕は、体内に気持ちを持っていき、その部の〔ふぁんそん状態〕や〔気の感覚〕を体感するという意守法法のことだ。
〔貫〕は、体内で気を巡らせる技である貫気法のこと、〔採〕は、自然界の気を採り入れて丹田に収めていくという採気法のこと、〔練〕は、採り入れた気や体内の気を練って丹田力を強くしていく練丹法のことである。
周天法というのもあるが、それは、貫気法が同じルートで気を行き来させる練功であるのに対し、行きと帰りとで違うルートを通し、如何にも気を回していくように巡らせる練功のことで、貫気法の変形と考え、〔貫〕の中に組み込んでいる。
そして、〔かんかんかんさいれん(緩感貫採練)〕のうち、最初の〔緩〕と〔感〕の二つが登山口から五合目辺りまでの基礎的練功になり、あとの〔貫、採、練〕は、その基礎的練功の修練の上に位置づけられるのである。
つまり、〔緩感〕の練功と一定の修得なしには、〔貫採練〕は不可能だということなのだ。
そして、殆どの功法は、後半の〔貫採練〕のために作られており、従って、僕は〔緩感〕のための練功法を創作し、〔ふぁんそんテクニック〕、〔体幹テクニック〕として、その技の生理学的な理論と具体的方策としての技術論を体系化していったのである。
《カリキュラムが必要だ/気功の山を歩こう!》
【早く確実に登るために】
(一)
気功というものは、気の感覚を感じて、体内で気を巡らせたり、自然界の気と気を交流させたり、採り入れたり、生命力としての丹田力を強くしたりすることの楽しさや喜びを実感してこそ、「気功をしている」と言えるのだ。
その段階が五合目以降の段階である。
しかし、その前段を含め、〔気の訓練〕を大事にしないで、功法だけを教え、功法のみに重きを置いている教室もあるようだ。
そんなことが関係しているのかも知れないが、この五合目までのレッスンに対する指導書(教科書)は無かったのだ。
そこで僕は、僕が長い間かかって身につけてきた技や理論を整理して、気功を学び深めていくための手順を大まかではあるけれど、カリキュラム的に組み立てねばならないと感じ、その課題に取り組んだのだ。
それが「かんかんかんさいれん」という表現になったのだ。
(二)
気功の世界では練習することを〔練功〕と表している。
そして、その練功法も用意されている。
それが、放鬆法、意守法、貫気法、周天法、採気法、練丹法などだ。
しかし、それらは並列的に位置づけられていて、しかも、その内容に具体的な技術論がなく、言葉抱けで「放鬆(ふぁんそん)しましょう」とか「意守丹田をして下さい」などという具合で、如何にすれば放鬆できるのか、如何にすれば意守丹田ができるのかという技術論が無かったのだ。
僕は、それらの練功に対する技術論から取り組み、それらをカリキュラム的に組み立てたのが〔かんかんかんさいれん〕なのである。
《誰もが身につけられる技にするために、再び登山口へ/気功の山を歩こう!》
【如何にして整理し理論化された技として提供できるか】
(一)
僕は気功の技を身につけるのに長い年月を要した。
勿論、未だ道半ばである。
作品としての功法を教えてくれる人は、師を含めて沢山いたが、本来の気功である〔気の訓練〕を理論化して整理して伝えている人はいなかった。
勿論、感覚というものは伝え辛いことは確かである。
僕たちが赤い色を赤と認識できるのは、子どもの頃に、母親たちが、身の周りにある具体的なもの、例えば、リンゴやイチゴ、ポストなどを指して赤という色を具体的に教えてくれ、僕たちはその色を脳に刻み込み、赤という共通認識を持てるようになっているが、全盲の人に赤の色を脳に刻み込んでもらうのは無理である。
彼らは、リンゴとイチゴとポストを触ることは出来る。
食べ物や花なら味も匂いも判るだろう。
ザラザラしている、つるつるしているなどの感触は判る。
リンゴとイチゴは具体的な味で判る。
しかし、そこに「赤」という認識は作れない。
色は、みて、具体的な色というものを脳に刻まない限り、認識にはならないのだ。
(二)
気功における気の感覚は五感とは違う。
体の感覚なので、伝えるには、伝え方への探究はいるが、伝えられないものではない筈だ。
僕は、長い年月をかけて発見し身につけてきた気功の技を、具体的に解りやすく練習し、体感していく為の技として理論化してきた。
そして、発見し、気づきを得た段階の理論と技から順に仲間たちに伝えて来た。
発見し、一定の理論として認識できたところから直ぐに伝えていくといういい加減な伝え方だったために、後から修正を加えねばならないものも沢山あったし、これからもそうであろうが、やはり、具体的な技として身につけていくための理論の探究は続けていかねばならないのだろうと思う。
(三)
発見や気づきに基づく理論は、例えば、腕は胸鎖関節からぶら下がっているように力を抜くこと、スワイショウはハの字形に揺らすハンガースワイショウが一番力の抜けた揺らし方であること、腕は胸板からムチのようにしなやかに動かすこと…など、一つの細かなことから〔ふぁんそんテクニック〕などの概略的な認識や〔かんかんかんさいれん〕などの体系化されたものまで色々だった。
中でも、気功状態の脳と体を作っていく〔ふぁんそんテクニック〕と気功を学び深めていくための手順である〔かんかんかんさいれん〕の二つは、誰もが気功の技を身につけられるものとしていくための決定的な内容を持っている理論だと自負している。
そして、その内容をご紹介していこうというのが、この〔気功の山を歩こう!〕なのだ。
(四)
五合目以降を登るために、絶対に身につけておかねばならない技である放鬆法(ふぁんそんテクニック)と意守法(体感テクニック)は、初心者であれ熟練者であれ、何度も立ち返って再確認し、より深い内容の技として身につけていかねばならないものである。
だから、僕は何度も登山口に戻り、別の道を探索していくのである。