《誰もが身につけられる技にするために、再び登山口へ/気功の山を歩こう!》
【如何にして整理し理論化された技として提供できるか】
(一)
僕は気功の技を身につけるのに長い年月を要した。
勿論、未だ道半ばである。
作品としての功法を教えてくれる人は、師を含めて沢山いたが、本来の気功である〔気の訓練〕を理論化して整理して伝えている人はいなかった。
勿論、感覚というものは伝え辛いことは確かである。
僕たちが赤い色を赤と認識できるのは、子どもの頃に、母親たちが、身の周りにある具体的なもの、例えば、リンゴやイチゴ、ポストなどを指して赤という色を具体的に教えてくれ、僕たちはその色を脳に刻み込み、赤という共通認識を持てるようになっているが、全盲の人に赤の色を脳に刻み込んでもらうのは無理である。
彼らは、リンゴとイチゴとポストを触ることは出来る。
食べ物や花なら味も匂いも判るだろう。
ザラザラしている、つるつるしているなどの感触は判る。
リンゴとイチゴは具体的な味で判る。
しかし、そこに「赤」という認識は作れない。
色は、みて、具体的な色というものを脳に刻まない限り、認識にはならないのだ。
(二)
気功における気の感覚は五感とは違う。
体の感覚なので、伝えるには、伝え方への探究はいるが、伝えられないものではない筈だ。
僕は、長い年月をかけて発見し身につけてきた気功の技を、具体的に解りやすく練習し、体感していく為の技として理論化してきた。
そして、発見し、気づきを得た段階の理論と技から順に仲間たちに伝えて来た。
発見し、一定の理論として認識できたところから直ぐに伝えていくといういい加減な伝え方だったために、後から修正を加えねばならないものも沢山あったし、これからもそうであろうが、やはり、具体的な技として身につけていくための理論の探究は続けていかねばならないのだろうと思う。
(三)
発見や気づきに基づく理論は、例えば、腕は胸鎖関節からぶら下がっているように力を抜くこと、スワイショウはハの字形に揺らすハンガースワイショウが一番力の抜けた揺らし方であること、腕は胸板からムチのようにしなやかに動かすこと…など、一つの細かなことから〔ふぁんそんテクニック〕などの概略的な認識や〔かんかんかんさいれん〕などの体系化されたものまで色々だった。
中でも、気功状態の脳と体を作っていく〔ふぁんそんテクニック〕と気功を学び深めていくための手順である〔かんかんかんさいれん〕の二つは、誰もが気功の技を身につけられるものとしていくための決定的な内容を持っている理論だと自負している。
そして、その内容をご紹介していこうというのが、この〔気功の山を歩こう!〕なのだ。
(四)
五合目以降を登るために、絶対に身につけておかねばならない技である放鬆法(ふぁんそんテクニック)と意守法(体感テクニック)は、初心者であれ熟練者であれ、何度も立ち返って再確認し、より深い内容の技として身につけていかねばならないものである。
だから、僕は何度も登山口に戻り、別の道を探索していくのである。
《体内感覚をたいかんするために・2/気功の山を歩こう!》
【体内を如何に体感するか】
(三)
〔気功流手当法〕だけでは、意守法をものにするには困難がある。
気功で言う〔意守法〕というのは、手当てなどの媒介手段を用いることなく、意念(気持ち)を持って行くだけで、その体内の部の気の感覚を体感するという技だからである。
掌を当てて体内を体感するということと、気持ちを向けるだけで体感するということの二つの間には大きな隔たりがあり、その間を埋めるための練習が必要なのだ。
それが〔ふぁんそん流手当て法〕と〔気のボール当て〕である。
(四)
〔ふぁんそん流手当法〕というのは、〔気功流手当て法〕の中で、掌が当てられた部位の皮膚から皮下、体内にかけて、温かな感覚が染みこんできているという感覚が体感できてきたら、掌を皮膚から離して体感してみるという練習法だ。
手を離して、気持ちを、いま感じていた皮膚から皮下、特に体内の感覚に持って行き、同じような感覚が再現できるかを確かめていくという練習なのだ。
掌を当てて体内を体感するという〔気功流手当て法〕の中で感じてきた体内感覚を感じるのは、体性感覚によって実際に感じている訳だから、それはイメージではなく実際の肉体的現実なので、その感じているところに容易に気持ちを持って行くことが出来るようになり、これが脳からのフィードバックを可能にしていくのだ。
掌を当てて、体内感覚が感じられたら、掌を離して、感覚の再現を練習していくこの〔ふぁんそん流手当て法〕は、体性感覚を開発していく大切な取り組みなのである。
(四)
〔ふぁんそん流手当て法〕によって皮膚から皮下、体内の感覚が少しなりとも再現できるようになれば、次は、掌を当てて練習するところから一歩進んで、最初から〔気のボール〕を当てて練習してみるとよい。
例えば、〔気のボール〕を作って胸板に押し当てるようにし、意念を胸板の中に持って行くのだ。
〔ふぁんそん流手当て法〕で体感できた体内感覚が再現されて来るだろう。
そして、更に、これまでにない感覚が現れてくる。
それは、掌から胸板までの空気と胸の中の感覚が同化していき、まるで〔気のボール〕の三分の一から二分の一、三分の二くらいまでが体の中に入っているというような感覚である。
すると、外と中を隔てていた胸板のバリアが消えていくのだ。
この外と中を隔てている皮膚感覚、肉体感覚が消失していくという感覚を体感することが、これから先の貫気、周天、採気などという本格的な気功の山を登っていくための必需品なのである。
ここで、やっと五合目辺りだろうと思う。
《体内感覚をたいかんするために/気功の山を歩こう!》
【体内を如何に体感するか】
(一)
掌での気の感覚や〔気のボール〕の感覚は皮膚感覚なので、緊張から弛緩への移行による副交感神経優位への変化によって、さほど難しくなく体感できる。
或いはスワイショウでの、肩関節の中の腕の付け根の受動的な動きの体感によって引き起こされる副交感神経優位の状態を掌や足の指の皮膚温の上昇によって体感することもさほど難しくはない。
問題は体内感覚の体感である。
体内の状態などというものは、空腹感や尿意、便意、或いは痛みなど生理的に不都合な状態でない限り体感するという経験を積んではいないからだ。
ましてや、副交感神経優位になっている体内の感覚など、体感したことはないだろうと思う。
従って、意守法といって、脳からのフィードバックによって、意念(気持ち)を向けた先を副交感神経優位にして体感するなどという気功の技は、段階を踏んだきちんとした練習なしには体感できないのだ。
というより、僕自身が、この体内感覚を体感するまでに悪戦苦闘したことは言うまでもない。
(二)
体内の感覚を体感する練習として開発したのが〔気功流手当て法〕である。
例えば胸板に掌を当てる。
僕たちの普段の脳の使い方では、どうしても五感としての触覚を用いて掌の感覚で感じようとしてしまうのだ。
しかし、僕たちが体感したいのは体の中である。
従って、掌の感覚ではなく、胸板の皮膚の側から掌を感じてみるのだ。
当てている掌は、自分の掌ではなく、他の物体、例えばカイロを当てていると考えれば良いだろう。
すると、胸板の皮膚に掌が触れているのがわかると同時に、胸板で掌の温かさがわかってくる。
その温かさを感じていると、やがて、胸板の皮膚自身が温かくなってくる。
そして、その温かさは皮下に染みこんでくるのだ。
あとは、その染みこんできている温かさだけを感じていれば良いのだ。
やわらかなスポンジの中に温かな空気が染みこんでいる、そんな感じが出て来たら、それが〔体内感覚〕なのである。
そして、鎖骨の間の凹み、両胸の間、胃袋の前、下腹、腰など、様々な部位に掌を当てて、一カ所ずつ体感していく練習をすれば良いのだ。
(三)
つづく
《動きを点検する/気功の山を歩こう!》
【何の為の動きなのか】
(一)
気功には様々な功法(作品)がある。
それらの作品の一つ一つを覚えるのは楽しいことだが、それだけで満足していては気功の山は登れないのだ。
気功の本来の意味や目的は、気を体内で自由に巡らせることが出来るようになること、自然界に満ちている気を体内に採り入れて自らのパワーにしていくことなどの〔気の訓練〕である。
そのことによって健康を回復して元気になっていくことは言うまでもないが、それは目的ではなく結果なのだ。
結果よければ全てよしというので在れば、気功をする必要はないだろう。
健康に貢献するのは気功だけではないからだ。
しかし「入静なければ気功ではない」というのと同じように「気の訓練をしない気功は気功とは呼べない」こともまた事実である。
(二)
従って、気功には様々な功法(作品)があるが、その一つ一つの作品は〔気の訓練〕の為に創作されているのである。
一つの作品の中に用いられている幾つかの動きは、それぞれにある特定の、或いは数個の〔気の訓練〕の為の動きとして組み入れられているのだ。
気功の山を登っていく為には、その作品の中のその動きは何のために組み入れられているのか、その動きは如何なる〔気の訓練〕を導いているのかなどといった方向からのアプローチ、視点が必要なのだ。
つまり、体の動きを体の動きとして捉えるのではなく、気の動きとして捉え直してみる必要があるということなのだ。
(三)
このような視点で功法を分析してみると、幾つもの作品の中には同じような動きがあることが解ってくる。
幾つもの作品に共通する動きがあるのだ。
例えば、膝の屈伸による上体の上下の動き、その動きによって誘導される両手の上げ下げの動き、その両手の動きも前で上げ下げする、横で上げ下げする、前から上げて横から下ろす、横から上げて前から下ろすなど様々だ。
両手を左右に開く動きもあるだろう。
足を前後に開いて上体を前後させる動きもあれば、前に進んでいく動きもあるだろう。
それら一つ一つの動きが〔気の訓練〕としての意味を持っているのだ。
しかも、気の動きを誘導する為には最も良い動きがあり、その動きは如何なる動きなのかを探究していくことも忘れてはならないだろう。
最も良い動きに寄って、最も有効な〔気の訓練〕が可能になるのだ。
〔体の動き〕と〔気の動き〕を統一させ、共に最も良いものにしていってこそ、一つの作品を体の運動から気功としての動きへと発展させていけるのである。
《気功流呼吸法を身につけよう!・2/気功の山を歩こう!》
【気功流呼吸法の修得】
(四)
気を採り入れる部位を点としての経穴ではなく、その経穴を中心とした面で捉えるという視点を獲得した僕ではあったが、直ぐに僕は新たな壁に突き当たったのだ。
それは何か。
気の採り入れ口を経穴から面に移しただけで、呼吸の仕方は変わらなかった為に、自然で楽な呼吸ではなく、吸い入れようとする無理で苦しい呼吸のままだったのだ。
僕は経穴ではなく、単に皮膚を用いた呼吸にしようとしていただけだったのである。
ちょっと理解が難しいかも知れないので、普通の呼吸を例に出して説明しよう。
(五)
例えば、「鼻で息を吸って」と言われた場合、鼻を意識して鼻から吸い入れると、その空気は、感覚的には首あたりで止まってしまい、胸の中には入らない感じになる。
ところが、実際の呼吸においては、空気は独りでに鼻から入っている。
「大きく胸の中に吸い入れる」という場合でも、鼻から独りでに流れ込んでくる。
これはどういうことなのか。
つまり、空気は鼻から吸い入れるのではなく、胸やおなかを膨らませるような感じで息を吸うと空気は独りでに鼻から流れ込むだけなのである。
気功における採気法に用いる〔面呼吸、皮膚呼吸〕も、普通の呼吸のように鼻で吸うのではなく、鼻から流れ込むというこの当たり前の視点が必要だったのだ。
(六)
その部で吸うのではなく、その部から流れ込むという視点で呼吸の実習をしてみればわかることだが、例えば胸の中に気を吸い入れるような感じにして、気持ちを胸板に持って行くだけで胸板から独りでに流れ込み、吐くと独りでに胸板から流れ出ていく。
気持ちを背中に持って行けば、独りでに背中の皮膚から流れ込み、独りでに流れ出ていく。
胸板や背中の皮膚で吸うのではなく、気持ちをそこに持って行けば、その部から気は流れ込み、出て行くのだ。
同じように、腹式呼吸のように、おなかの中に吸い入れるようにおなかを膨らませていく時、気持ちを腰に持って行けば、気は腰の皮膚から流れ込み、腰の皮膚から流れ出ていく。
胸かおなかに気を採り入れるように膨らませていく時、気持ちを掌に持って行けば掌から、足の裏に持って行けば足の裏から、頭頂部に持って行けば頭頂部から、それぞれに独りでに流れ込み、独りでに出て行くようになる。
この全身の皮膚を用いての呼吸法を身につけることが、気功の山を登っていく為には必須の条件なのである。