スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

ジェットコースター状態(精神が)


とまぁ…、前回の記事ではかなり荒れた精神状態だったわけですが、とりあえず一段落つきまして。ちょっとだけ浮上。

お世話になってる担任の先生にも噛み付いちゃったよヤベェとか思ったんですが、変わらずよくしてくださって(涙)若造が生言ってすみません…。
出てきたその子の態度も悪くなかったので、再び見せかけの穏やかさを取り戻せて一安心でした。

白黒はっきりしたことが好きな私からすると、学校という現場はグレーな部分もかなりあってちょっともやもやすることもあるんですが、自分の選んだ仕事ですからね。ちょっとづつでも受け入れていけないといきませんね。

しかし、見えてないものがいっぱいあるなぁと思った今日この頃。
クラスの子達の授業では見せない姿を部活の先生から聞いて、ううむ…と思いました。やっぱり女の子は怖いわー。と、自分を棚に挙げてみる。

…でもね、その無法地帯状況ってまずいと思うのよ。クラスでは言わないことを部活の先生の前で言うってのは、どうなんでしょうね。愚痴とか、悪口とか。
私は、担任の先生がクラスではそれを言わせない状況を意図的に作ってるのだと思う。だって学校ってあの子たちの社会だから。私たちの仕事場と同じだもの。


と、ここまで書いていったん保存しただけのつもりが投稿されてたw


「私たちの仕事場と同じ」つまり社会生活なんだよ―って、当たり前だけど。
社長の前で、愚痴ったり悪口言ったりしますか?仕事中に。まともな人ならしないでしょう?
部活だって学校生活だよね―っていう。そのあたりわかってない子たち多すぎだけど、この学校。

基本、どこでどう伝わるかわかんない悪口は言っちゃいけないと思うのですよ。
そりゃむかついたり、いらいらしたり嫌いだったりするけどさ、人間だもの。でもそれは自分の勝手な感情で。どんな理由があったって、例えどんなに賛同者がいたとしても、それで相手を傷つけていい道理にはならないんじゃないかなぁ。だって自分がされたら嫌でしょう?自分がされて嫌なこと、人には出来るっておかしいよね、人間として。

…っていうのを伝えていく場だと思うので、私は担任の先生を見習ってる。どんな理由があっても私の前では悪口は許さないし、暴言も許してないつもり。あくまでもつもり。気づけてないだけかもしれないし。
ガス抜きもさせてやらないとと言っていた部活の先生が間違ってるとは思わないけれど、その先生の前では言うってことは、その先生の前では怒られない=容認されているって子供は思っちゃいませんか?
容認されているってことは自分は間違ったこと言ってないって感じるだろうし、でもそういうことじゃないんだよ。回り回れば人を傷つけることなんだよ、それって。人傷つけて正しいも何もないわ―、と思うのです。

(悪口・愚痴)本音を言う=信頼の証?

違うんじゃないかなぁ、それ。そんな信頼ならわたしはいらないなぁ。
言葉って怖いからさぁ。人を救うこともあれば、人を殺すこともあるんだよ。毒にも薬にもなるなら、薬にしてほしいよ。だって言葉はその人自身だもの。自分が毒になるか薬になるかって言われたらやっぱり薬になりたいでしょ、普通。
私も強者の理論を振りかざしてることにこの前気がついたから、正しい言葉で人を傷つけないのですむように言葉を使いたいって思うよ。

とまぁ、今は聞く姿勢びんびんなのでいろんな人がいろんなことを話してくださって、日々勉強中です。
語ってもらえるというのはいいことだ。上辺だけじゃないその人を知れる。あれ、それでいいのかなとか、自分なら…って考えながら、自分の感覚を磨いていきたい。








心のやり場がないこと



 精神面がちょっと不安定。

 どうにかして安定を図りたいのだけど、次から次へともやもや。

 

 弱い子を、そういうもんだって認めてあげられない。だって同じように忙しい中、ちゃんと頑張っている子がいる。嫌なことにも逃げずに向き合っている子がいる。それなのにどうして、自分に甘くて逃げてばっかりの子を「しょうがないよ」って包んであげられるというのだろう。どうしたって私には出来ない。

 きちんと向き合って、それでもどうしても出来なくて妥協するのは逃げじゃない。これ以上やったら壊れてしまう。そう思って立ち止まったりするのも逃げじゃない。でも嫌なことから目を背けて、背を向けて、一歩も前に進めないのは逃げだ。逃げて逃げて、逃げ切れるならそれも良いさ。でも、自分から背を向けたものはどこまでもどこまでもついてくる。必ずどこかで向き合わないといけないんだって。

 

 自分が選んだことなら責任をとれ。それが本当に正しい選択だったかじゃなくて、選んだ後にどう行動するかで価値は変わるんだ。

 やるべきことをサボったなら、どこかで死ぬ気で頑張って取り戻せ。楽しく遊んだなら、その分やるべきことはやるべきだ。

 自分が手を抜いて受けた叱責なら甘んじて受け止めろ。悔しい気持ちを次に生かせばいい。

 

 自分を取り巻くものすべてを逃げ口上に使うずるさが、私はたぶん許せないんだろう。清廉であれなんて思わない。だって私もずるいもの。

 ずるいから、自分の選んだものを全て間違いにしたくないんだと思う。間違いにしないように手を打つし、出来る限りのことをやる。考え方を変える。まぁそれだって諸刃の剣で、昔から頑なで頑固な子だと言われ続けた要因はそこにあるんだろうな。とはいえ、後から振り返ってもっと賢い選択を認めることも出来るようになったし、昔よりは柔軟性を身につけたと思うのだけど。

 

 だってさぁ、世の中絶対の選択なんてないんだよ?最良に違いないって思って選んだら、思わぬ落とし穴があったり、賢い選択ではないよなぁと思っていたら思いがけず幸運に恵まれたり。どんなに頑張ったって認めてもらえないことだってあるし、頑張らなかったことが認められてしまうことだってある。そんな理不尽で運任せな世の中だからこそ、自分の選択を最良にするだけの努力をしないと結局苦しむのは自分なんだって。もちろんたった13年ぽっちしか生きていない子供にそれを分かれなんてそんな無茶は言わないけれど、その子の逃げてばっかりの弱さを受け止め続けていれば本当にそれで良いのかなぁって。

 

 

 とまぁ、ここまで答えのない自問自答だった訳なのですが。

 この件に関しては担任の先生と話が平行線でいっこうに交わらないので、私ぺーぺーだし、担任の先生はベテランだし、尊敬してるし、私間違ってんのかなーとか、心狭いのかなぁとか、ちょっと泣きそうだった。で、今、本当に今気がついた。指導タイプが違うんだ、きっと。私はまだ本当にぺーぺーだけど、思考が父性型教師に近いんだと思う。私は悪いことは悪い、ダメなことはダメだって思う。不可抗力じゃない限り、そこにどんな理由があっても。だけど担任の先生は多分母性型教師で、それよりもいま目の前にいるその子の精神的安定を第一に考える。例えどんなにずるくても、甘えていても。

 どっちが正しくてどっちが間違ってるとかは多分ない(ぺーぺーのくせにおこがましいとは思うけれど)

 

 ただ、父性型の考え方は強者の理論らしい。母性型は弱者の理論だとも。

 私は結構弱者側だと思ってたからびっくりした。だって、しょうもない中学生だったし。弱い子の気持ち分かると思ってたんだけどなぁ。

 生徒を簡単に変えられるなんて思ってないのもホント。好きなだけ迷って困って試行錯誤すればいいと思ってるのもホント。そんな環境でありたいと思うのも本心。だけど、嫌なことからすぐに目を背けて逃げ出すばかりの子をどうしたって許せないのも本当なんだ。どうしたもんかね。

 

 

<<prev next>>
カレンダー
<< 2013年12月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
アーカイブ