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息切れという病


 五月病になる人の気持ちがわかったような気がする、今日この頃。

 この数日、自分でも自覚するぐらい疲れてるな―って感じがして。特に昨日がピーク。午後ぐらいから、帰りたくて帰りたくてしょうがなくなった。いつもはそんなことないのですよ。私学校好きだから。
 でも授業の準備終わってないし、帰れないし、でも帰りたいしで、すごい葛藤。

 結局、明らかに自分がおかしいのがわかってたので帰りましたが。後は後で何とかしよう。そうしよう。
 
 で、結局のところ何が原因かと言いますと。4月からこっちおよそ一ヶ月ガンガンぶっ飛ばして仕事してたんですよね。去年、見切り発車だったことが災いして最後自分の首を絞めたので(とはいえ仕方なかった)だから、今年は1年分しっかり見通しを持って、生徒にどんな力をつけさせたいのか、明確なイメージを持って授業するぞ―って意気込んだの。まぁそれ自体は、とても大切なことだと思うのですけれど、私の馬鹿なところは全教科でそれをやろうとしたこと。

 3教科×3学年=9

 正直、キャパオーバーでした。
 たくさん教科を持たせてもらえていること自体はとてもありがたいのです。相互に関わり合って、新しいことが見えてくるから。でもね、自分の専門教科でさえやっと本質が見えてきたような気がするぺーぺーが、専門じゃない教科まで同じようにやろうとするには、知識も技能も経験も足りなすぎるのですよ。本質が見えてきたというのはつまり、登るべき道が見えてきたというわけで、つまり去年一年は麓をうろうろしてたみたいなもの。まだ登りはじめてすらいない。

 つまり、目標設定が自分の能力に見合ってなかったわけです。例えるなら旭岳すら登ったこともないのに、富士山すらすっ飛ばして、エベレスト登っちゃうぞ―って意気込んでるようなもの?そりゃ息切れもするわ。
 専門教科と、専門外教科と。優劣をつけるわけじゃないけれど、まず自分の能力でも努力すれば登れそうな山を登るべき。家庭科は、富士山を目指したい。技術と美術はまず旭岳を登るところからはじめてみよう。
 とまぁ、こうしたい、こうありたい、こうでなければという思いに突き動かされて、知らないうちに出来ない自分を追い詰めてたのでしょうね。で、持って1ヶ月だったと。


 思考の世界は制約がないので、自分がどこまでもいけるような、何だって出来るような、時にそんな錯覚をおこしてしまうのでしょう。これが俗に言う頭でっかちってやつなのかな。
 でも現実にやろうとすると、足下を踏みしめて1歩ずつ登って行かなければいけない。人間には羽がないから、もしも頭の中に到るべき頂上が見えていたとしても、そこに一足飛びで飛んでいくことは出来ない。
 一足飛びって、両足をそろえて飛ぶことなんですってね。その場でどんなに両足をそろえて、飛び上がろうとしても飛べない人間はちっとも進まないですよね。それなら、ちょっとずつでもいいから、時には躓いて転んだっていいから。片足を前に踏み出して進んでいく方がずっといい。


 明日からはまた、出来るところから頑張ろう。

本質を問う



 某研究者の会見について。
 例に漏れず、すべてを見たわけではありませんから、詳しく言及するつもりはありません。
 私、文系ですし。科学のことは、さっぱりとんとんです。


 しかし、驚いたのが会見後の周りの反応です。見事にだまされとるがな!と思いました。
 言うなれば、教室で自分が悪いことをして注意されたにも関わらず、泣いて訴える可愛い女の子にころっとだまされる先生たちの図。いやいや、先生。彼女注意されることしたんですけど。泣いたのは結果論です。え、うっかりミス?うっかりで許されるレベルですか、それ?


 今回の騒動の本質は、あの細胞があるかどうかじゃありません。うっかりで済むようなレベルではない数々のミスが問題なんです。曲がりなりにも卒論を書いた身としましては(そして本当に学会に出ることになった)、うっかりであのミスはあり得ない。規模が大きくなればなおさら、自分だけじゃないのならなおさら、あんな初歩的ミスはあり得ないと思います。
 悪意があるかどうかは別にしても、あれは間違いなく故意です。ただ、この場合は、悪意が"なかった”ことを完璧に証明するのは不可能ですから、こちらが悪意があったことを証明しないといけないのです。
 一方でこちらも、あの細胞がないことは証明できないのですから、あると断言するなら口ばっかりじゃなくて、しっかり、誰が見ても信じるような証拠をだして、あることを証明しないといけないわけで。つまるところ悪魔の証明というやつですな。



 正直なところ、真相はどうでも良いです。
 組織の暗部を若い科学者がスケープゴートにされてるという話でもいい。
 引っ込みの付かなくなった女性が行くところまで行こうとしてるならそれでも良い。
 あの細胞があろうがなかろうがだって、別にどうでも良いんです。


 なぜ、私が話題に出したかというと、この手のひらの返しがえしようが気持ち悪くてですね。馬鹿じゃないのって思う。踊らされやがって。たぶんこの泥沼の状態、真っ白も真っ黒もない。
 最初、理系女だなんだと祭り上げた馬鹿マスコミには辟易しました。本質はそこじゃないだろって思った。研究者が若いことでも、女性であることでも、割烹着着てることでもない。世紀の発見を取り上げてやれよと。その時点で、私にとってこの件はどうでもよかったんですが。興ざめ。
 馬鹿なマスコミも、流されるばかりの大衆も、もうちょっと賢くなれよって思う。表面しか見ない人多すぎ。


 本質は何かを、常に追い求めたい教員の卵2年目。生徒にも言い聞かせてる。


 

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