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気功とは何か、何をすることなのか・4

【手足が温か〜い!】

  二つ目の訓練は自律訓練法と言われるものだった。
  自律訓練法には幾つかのステージが用意されていたが、僕は最初の二つの訓練を実習しただけだった。
  それは、まず、「手足が重た〜い」と自分に言い聞かせ、実際に手足が重たくなって行く感覚を体感する訓練で、次が「手足が温か〜い」と言い聞かせて体感する訓練だった。
 それも、右手、左手、右足、左足と個別に練習しながら体感を深めていくというもので、これは、先ほどの脳波の訓練と同じ原理なのだが、違うところは、気功で言うところの「意念」を使う点にあった。
  言ってみれば、自分の意思で手足の脱力感や温かさを出していく訳だが、これも、脳波をα波にし、自律神経を副交感神経優位にしなければそういう生理的な現象を起こすことは出来ず、意念を向けて、向けた先(手足)の生理的な変化を体感するという「意守法」の練習をしていたことになるのであった。
  この自律訓練法は、この後、副交感神経優位によってもたらされる生理的な現象として、呼吸や心拍数が穏やかになるということの体感に進んでいったので、僕はこの訓練をやめた訳だが、この訓練法の最後の方のステージに「おなかが温かくなる」というのがあったので、そこまで訓練を続けていれば、「意守丹田」も、もう少し早く体感できていたかも知れないと思うのである。。

気功とは何か、何をすることなのか・3

【脳波をα波にする訓練】

  この訓練は器具を用いた訓練だった。
  通販で買った物だ。
  弁当箱くらいの箱からコードが伸びていて、その先に、血圧を測るような感じの小さいもので指を巻くようになっているだけの単純な装置だった。
  マジックテープで指に巻き付け、スイッチを入れると、箱に付いている赤いランプが点滅する。
  しばらくしているとランプの色が緑に変わる。
  緑色になると脳波がα波になったことを示すのだそうだ。
  その時に、「おっ、変わった!」などと余分なことを思うと、ランプが赤になってしまう。
  それを繰り返していくうちに、脳がどんな風な状態がα波の状態かを覚えていき、赤から緑に変わる時間が短縮されていく。
  このような訓練を通して、僕は脳波をα波にしていくテクニックを身につけていったのであった。

  しかし、おわかりのように、これは脳波の状態を直接計っている訳ではない。
  脳波がα波に変わることで自律神経が副交感神経優位に傾き、そのことによって指先の毛細血管が拡張し、血流量が変わったことを示していたのだった。
  だが、当時は、その生理的な反応(生理学的な理論)には頭が及ばず、僕は脳波をα波にする訓練のみに夢中になっていた。

気功とは何か、何をすることなのか・2

【最初の山】

  僕が気功の世界に入って、最初にぶつかった課題、即ち、乗り越えなければならなかった山は、手のひら感覚と気のボールづくりであった。
  僕は、気功が気の訓練だということも知らずに気功の世界に入り、また、当時は、何らかの功法を覚え、それを続けて練習していくことが練功だと思っていたので、最初に林茂美先生から習った大雁功や林厚省師から習った太極気功18式などの功法を練習していた。
  しかし、それはラジオ体操や炭坑節の踊りを覚え、それを毎日しているのと同じことで、決して気功の練功とは呼べるものではなかったのだ。
  気の感覚のことを「気感」と言うが、気感の入り口である掌の感覚やその発展である気のボールを作ることも、具体的な練習方法は教えられることは無かった。
  掌を向かい合わせて、近づけたり遠ざけたりしながら掌に意識を向け、「感じよう、感じよう」としていたのだ。
 しかし、これは掌感覚や気のボールづくりとしては、何の理論もテクニックもない、意味のない作業だったのである。
 そんな時、当時発行されていた「気マガジン」という月刊誌の中に、気のボールを作る技の記事を見つけ、それをを見ながら気のボールづくりに取り組んだのだった。

  と同時に取り組んだことが二つある。
  一つは、器具を用いての脳波をα波にする訓練であり、もう一つは自律訓練法と言われる訓練法だった。

気功とは何か、何をすることなのか・1

【山の頂は】

  かつて横綱千代の富士が引退する時、「体力の限界!」と言い放ったことがある。
  プロ野球の選手などが引退する時も、よく「やり尽くしたので悔いはありません」などと言うのを聞く。
  このように、肉体を用いて頂上を目指している人たちの場合ならば、肉体的な限界はあるだろうし、その肉体の最高潮の段階での技術的な到達点はあるだろうと思う。
  しかし、小説家の場合、宇野千代さんは九十才を超えて小節を書いたように、寂聴さんは九十六才を超えて、尚、書き続けているように、病で床に伏すまで、或いは、床に伏していても、その能力は発揮できるようである。

  芸術や文化的な活動の中においても、肉体を用いる舞踊などは、ある程度の限界はあるだろうが、頭脳や感性を用いる分野では、極端な言い方をすれば、限界はないのだろう。
  では、気功はどうなのだろうか。

  僕は、三十年余の気功探究の中で、幾つもの山を乗り越えてきたと思っている。
 丘のような山から里山に続く低い山、一時間ほど歩かないと頂上に着かない山と、幾つもの山を越え、向こうにある山に登れば一番高い山だと信じて登頂してみると、更に向こうに高い山が見えるといったように、気功の世界を歩いてきたのだ。
  その
辺りのことから話を進め、「気功とは何か、何をすることなのか」について考えていくことにしよう。

意守法が気功の中心

【意守法が気功の中心】

気功の主たる作業は、体内で気を巡らせたり、自然界の気を採り入れたりすることだ。
そして、その為には、気の感覚を体感できる能力が身についていなければならないだろう。


その「気の感覚を体感する能力」を身につける取り組み、それが意守法なのだ。
そして、そこで用いられる感覚こそが体性感覚なのである。

掌や足の裏、丹田ばかりではなく、顔、首、肩、背中、胸、腰、腹、腕、脚などの全てにわたって、意念を向けるだけで、その部を「ふぁんそん状態」にし、そのゆるんで温かな感覚が体感できるようになることが必要なのだ。

では、その能力を身につける為には如何なる練習をすれば良いのか。

やはり、手当てによる体感から始めるのが効果的だろう。
手を当て、当てられた部分の皮膚から皮下に現れてくる感覚を体感し、その感覚を体に覚え込ませることなのだ。
体に覚え込ませるということは、その感覚である体性感覚を脳に記憶させていることになり、脳の記憶が出来さえすれば、逆ルートで体の側にその感覚を再現させることが出来るようになり、意守法が完成するのである。

この基本的な練習をしないでおいて「感じられない」、「わからない」などと言うんじゃない!