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覊を引け。

深夜更新ご容赦下さい。


ようやく、大学のレポートがあと二つになりました‥(´Д`;つかれた



最近、またゲームをやりたくて面白いのはないかと模索してます。



エースコンバットの新作がPSPででるんですってね。



自分は固定機派(PS3とか)なのでなんとも(涙






さてさて

前回の記事、思った以上に皆様の反応がありましたので続きを書かせて頂きます。








エピクロスは「善いか悪いかはそれが本人がどう感じられるかで決まる」


「自分の死は感じることが出来ないので善いとも悪いともいえずそれゆえ死はよくも悪くもなく何物でも無い」と言っているわけです。



死後の世界は無い物として死のプロセスは
死につつある状態→死の瞬間→死んでいる状態となります。

そこでエピクロスは
誰しも死につつある状態にあるならそのことを意識し感じることができる。その人が恐怖や痛みを感じることが出来るのはまさにその人が生きていて意識があるからで我々が死は悪い、恐ろしいものだと考える根拠がここにあるが、しかし、その人が死ぬ瞬間はその人は意識を失う。そして意識がなければ当然感覚もなくなるはずである。だから死ぬ人自身は自分の死や死んでいる状態を感じることは無い。

そこで我々が悪いと思っているのは実は死につつある状態のほうでしかない。と考えているわけですが、果たして本当にこの推論は正しいでしょうか?




実際は推論自体は間違っていないのである。

例えば、
「脊椎動物か無脊椎動物かは背骨の有無で決まる」

「机は生き物ではないので背骨があるともないともいえない」

「それゆえ机は脊椎動物でもなければ無脊椎動物でもない」と言っているようなもの。

つまり死の善悪を考えるのは机が脊椎動物かどうかを考えるくらい馬鹿らしいことであるというわけだ。




では前提は正しいだろうか?

「自分の死は感じられないのでいいとも悪いとも言えない」

この前提に対して
「一度心臓が止まってまた生き返った」(だから死そのものを感じることができる)というコメントがありましたが

つまりこれは臨死体験というものです。
ただ臨死体験というのは死の瞬間ではなくて、死につつある状態で一種の夢のようなものであり死そのものを体験してないため悪いともいいとも言えないでしょう。



他には
「死後にも意識があるのでは」という問い。
これは結局のところ肉体は滅んでも魂は死なないと主張しているのに等しい。この場合肉体が滅ぶことがどうして悪いことなのかさらに示す必要がある。


そしてもうひとつの前提として

「ものの善し悪しはそれが本人にどう感じられるかによって決まる」というところ。

これは本当に正しいのだろうか?

どんな場合にも本人が嫌な思いをしなければその人は害を受けていないと言えるだろうか。



例えば、あなたが誰かに嘘をつかれたり、悪口を言われたりしているが自分もそれを知らないものとする。

このとき、
「自分がそのことを知らない」という事実はその誰かがあなたに悪いことをしているということを否定する根拠にはならない。
またもし誰かが自分に悪いことをしているならたとえ自分はそのことを知らなくても自分はそれによって害を受けてるといってよいはずだ。

つまり当人の知らないことがその人を傷付けることは有り得ない。周囲の人が後ろめたさなどを感じてても本人はそれを知らないのだから傷付いておらず害を受けているとは言えないはずだ。


しかし、当人が裏切りを知って不幸になるのはそもそも当人にとって悪い事だからであり、当人が裏切く、何かを奪われたことを知り不幸になるのはそもそも何かを奪われることが本人にとって悪い事だからでありその逆ではない。



同様に、死があなたに害をもたらすときたとえあなた自身はそのことを知らなくてもやはりあなたは死によって害を受けていると言える。


そしてその害とは、

「死によって、生きることが含んでいる様々な経験の可能性を奪われる」
ということ。生きてなければ良いことも悪いことも経験することが出来ない。だから死は本人にとって最大の不幸である。


生きることは人生におけるあらゆる経験の可能性をもたらす条件である。

死とはその可能性が奪われることに他ならない。そしてあらゆる経験の可能性を奪われるというのが本人にとって悪いということは客観な事実である。

それゆえ、たとえ本人が自分が死んだことを知らなくても死によってその人に悪い事が起きたと言えるのではないだろうか。





エピクロスの犯した最大の間違いは物事の善悪の基準を「本人の感覚」に限定したことである。


世の中には本人の感覚とは無関係に客観的にその善悪が定まる物事も存在する。

そして死はそちらに属するのではないだろうか。






考察への誘い

さっきから外でカラスがうるさく鳴いてます。



なんか不気味‥´`





夜にカラスが鳴くのはなにか不幸の報せだと昔はよくいったようです。



そんな話に関連付けると

最近、学校での同級生殺傷事件とか多い気がします。


いじめられてる友達を救えずに自殺だとか。
今日も芸能人が一人自殺したっているニュースをやっていました。



余りこういう話は好きじゃ無いんですが

世間ではワールドカップで盛り上がっている事ですし‥


けれど、たまには考えるべきものなのかも知れないです。






「死とは怖くないのか」

「死とは悪くないのか」





村上春樹/『ノルウェイ
の森』の一節には



「死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ」



この一節を解釈すれば死ぬまでは死など考えなくていい。
ということでしょう



ということは死など怖くないのか?

けれど「死=悪いこと」という概念が存在するのは確かです。

つまり生きている間にも死を意識せざるを得ないはず。

けれど死ぬまで死は考えなくてよくて死んでしまえばそもそも考える必要はない。



つまり死について全く考える必要はない。という考えも一理あるでしょうね。



そしてこの考えが正しいとすれば死は恐ろしいという我々の直感のようなものも実は根拠など無くなってしまうのではないでしょうか。



ギリシャ時代の哲学者エピクロスも死は怖くないという考え方を弾き出していました。


エピクロスが言うには


「死は我々にとって何物でもないと考えることに慣れるべきである。というのは、よいものと悪いものは全て感覚に属すが死は感覚の欠如だからである。」

「なぜかといえば我々が存在する限り、死は現に存在せず死が現に存在するときはもはや我々は存在しないからである。」


つまりエピクロスは死が善いが悪いかはそれが本人にどう感じるかに決まる。
己の死は感じることすら出来ないのでいいとも悪いとも言えないと。
だから死はよくも悪くもない。と結論付けた。



通常はある事が悪いのはそれを経験した人が嫌な目にあうからである。



そもそも感じることができないものがある人にとってよいとか悪いとかということは考えられない。経験できないのだからその人が嫌な目にあうことも有り得ない。



誰しも「死につつある状態」にあるならそのことを意識し感じることができる。その人が恐怖や痛みを感じることが出来るのはまさにその人が生きていて意識があるからで我々が死は悪い、恐ろしいものだと考える根拠がここにある。


しかし、その人が死ぬ瞬間はその人は意識を失う。そして意識がなければ当然感覚もなくなるはずである。だから死ぬ人自身は自分の死や死んでいる状態を感じることは無い。
そこでエピクロスは我々が悪いと思っているのは実は死につつある状態のほうでしかない。と言っている。


だから死は善いとも悪いとも言えないのである。死という感覚を感じることは出来ないのだから。



果たして本当にそうだろうか?





行き場なき嗚咽





窓から射す




街灯の明かりが




この時間には




少し明る過ぎる


































聞こえてくるのは




ささめくような




木の葉と葉が




擦れ合う音だけ




























虫の音も




鳥の囀りも




今は影を潜めて



























遥か遠く




瞬くような灯が




見えるだけ



































まるで




他人事であるかのような




冷ややかな




大気を吸えば




吸うほど苦しくなる


































無味無臭の




時間だけが




目の前を




通り過ぎて行く




































どちらまで、




そう尋ねるのは酷だろう
























行き場など無い




時の流れ

















抗うことも忘れ




導くことも出来ず




ただ過ぎていくのだ


























歯止めを知らない




この不甲斐無さのように




























大丈夫だ、








そう言い放つ声も








また流れて








無音であるはずだ








根拠など何処にも








無いのだから




水銀の杯




足元に散蒔れた




大小様々な




憎しみが転がる























擦れど




いくら擦れど




落ちることの無い




躯にこびりつく




哀しみが




幅を利かす

































人を好き




人を嫌い




人と人の間に挟まれて





























人波に流されて




掴む藁も見付からず




意識も飛ぶ


































気が付けば




いつの間にか




岸辺に




打ち付けられている
























誰もいない事を




心から願い




ここだけは




未踏≠ナあるという




一縷の光が




背を照らし




足を引きずるほど




歩き探ってみるものの
































なんてことは無い




何処にでも人はいる




腐るほど
































喉渇く








眼前に列なるそれは








見て呉れは








怯えるほどに







美しい銀色の








河のようで目が眩む








恍惚と

























けれど一度でも








口にしてしまえば








心どころか命さえ








奪われてしまうのだ



傍観者の退路

じんわりと熱の篭る教室

窓側に座る私

いつもと同じ友人が隣に座る

他愛ない会話

窓から抜ける風

人々の会話は何をしゃべっているのかは解らない

講義は始まってもなお携帯を弄っている隣の友人

いつもと同じ

風になびく中庭の青々と生えた芝生を横目に

先生のロジカルな話しに耳を傾ける

いつもと同じ

帰りの電車に揺られながら窓から流れる景色を眺め

手持ち無沙汰の私は

何の着信も無い携帯を当たり前のように開く

いつもと同じ

何か世界に自分の生きた爪痕を残したい

いつの間にかそれさえもいつもと同じと括られてしまうの













自分が自分に一番甘いなんて誰がいったのでしょう

本当にその通りです

かつて掲げた旗は今や靡いていません





「何か世界に自分の生きた爪痕を残したい」

なんて台詞は漫画や映画でよく耳にするもんです。


今話題のかのドラッカーも似たような言葉を残しています。

「何で覚えられたいか」

別に何かの書物や歴史に名を残こすなどという荘厳な気構えじゃなくても誰かに自分の事を覚えてもらっていればそれだけでも意味は十分にあると思います。


ただ、それさえも今は難しく感じますけど





誰かの記憶に残る事が出来たならそれは自分の存在の証明にほかならない


なら、もう少し模索する時間がほしい



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