2010-6-25 01:37
深夜更新ご容赦下さい。
ようやく、大学のレポートがあと二つになりました‥(´Д`;つかれた
最近、またゲームをやりたくて面白いのはないかと模索してます。
エースコンバットの新作がPSPででるんですってね。
自分は固定機派(PS3とか)なのでなんとも(涙
さてさて
前回の記事、思った以上に皆様の反応がありましたので続きを書かせて頂きます。
エピクロスは「善いか悪いかはそれが本人がどう感じられるかで決まる」
「自分の死は感じることが出来ないので善いとも悪いともいえずそれゆえ死はよくも悪くもなく何物でも無い」と言っているわけです。
死後の世界は無い物として死のプロセスは
死につつある状態→死の瞬間→死んでいる状態となります。
そこでエピクロスは
誰しも死につつある状態にあるならそのことを意識し感じることができる。その人が恐怖や痛みを感じることが出来るのはまさにその人が生きていて意識があるからで我々が死は悪い、恐ろしいものだと考える根拠がここにあるが、しかし、その人が死ぬ瞬間はその人は意識を失う。そして意識がなければ当然感覚もなくなるはずである。だから死ぬ人自身は自分の死や死んでいる状態を感じることは無い。
そこで我々が悪いと思っているのは実は死につつある状態のほうでしかない。と考えているわけですが、果たして本当にこの推論は正しいでしょうか?
実際は推論自体は間違っていないのである。
例えば、
「脊椎動物か無脊椎動物かは背骨の有無で決まる」
「机は生き物ではないので背骨があるともないともいえない」
「それゆえ机は脊椎動物でもなければ無脊椎動物でもない」と言っているようなもの。
つまり死の善悪を考えるのは机が脊椎動物かどうかを考えるくらい馬鹿らしいことであるというわけだ。
では前提は正しいだろうか?
「自分の死は感じられないのでいいとも悪いとも言えない」
この前提に対して
「一度心臓が止まってまた生き返った」(だから死そのものを感じることができる)というコメントがありましたが
つまりこれは臨死体験というものです。
ただ臨死体験というのは死の瞬間ではなくて、死につつある状態で一種の夢のようなものであり死そのものを体験してないため悪いともいいとも言えないでしょう。
他には
「死後にも意識があるのでは」という問い。
これは結局のところ肉体は滅んでも魂は死なないと主張しているのに等しい。この場合肉体が滅ぶことがどうして悪いことなのかさらに示す必要がある。
そしてもうひとつの前提として
「ものの善し悪しはそれが本人にどう感じられるかによって決まる」というところ。
これは本当に正しいのだろうか?
どんな場合にも本人が嫌な思いをしなければその人は害を受けていないと言えるだろうか。
例えば、あなたが誰かに嘘をつかれたり、悪口を言われたりしているが自分もそれを知らないものとする。
このとき、
「自分がそのことを知らない」という事実はその誰かがあなたに悪いことをしているということを否定する根拠にはならない。
またもし誰かが自分に悪いことをしているならたとえ自分はそのことを知らなくても自分はそれによって害を受けてるといってよいはずだ。
つまり当人の知らないことがその人を傷付けることは有り得ない。周囲の人が後ろめたさなどを感じてても本人はそれを知らないのだから傷付いておらず害を受けているとは言えないはずだ。
しかし、当人が裏切りを知って不幸になるのはそもそも当人にとって悪い事だからであり、当人が裏切く、何かを奪われたことを知り不幸になるのはそもそも何かを奪われることが本人にとって悪い事だからでありその逆ではない。
同様に、死があなたに害をもたらすときたとえあなた自身はそのことを知らなくてもやはりあなたは死によって害を受けていると言える。
そしてその害とは、
「死によって、生きることが含んでいる様々な経験の可能性を奪われる」
ということ。生きてなければ良いことも悪いことも経験することが出来ない。だから死は本人にとって最大の不幸である。
生きることは人生におけるあらゆる経験の可能性をもたらす条件である。
死とはその可能性が奪われることに他ならない。そしてあらゆる経験の可能性を奪われるというのが本人にとって悪いということは客観な事実である。
それゆえ、たとえ本人が自分が死んだことを知らなくても死によってその人に悪い事が起きたと言えるのではないだろうか。
エピクロスの犯した最大の間違いは物事の善悪の基準を「本人の感覚」に限定したことである。
世の中には本人の感覚とは無関係に客観的にその善悪が定まる物事も存在する。
そして死はそちらに属するのではないだろうか。