2012-5-5 23:45
皆様こんばんは
久しぶりの更新でございます
もうゴールデンウィークも残すところあと1日になってしまいました。まだ1日あるじゃないかと思う方やもう1日しかないと思う方いらっしゃると思います。
今日は久しぶりの高校時代の友人らと一年ぶりぐらいの飲み会だったのです。
いや、正確には「飲み会のはず」だったんですが…
昨日の夕飯を食べたあとぐらいからなんか首回りにぽつぽつと発疹が出始めてあれよあれよとそれが全身にヽ(´▽`)/
痒みとぴりぴりとした痛み。
そこは堪えて今朝を迎えたらだいぶ発疹が引いていたので大丈夫だろうと思っていたんですが、午後にまたぶあっと全身に広がって顔まで(゜ロ゜)
こんな状態で飲み会に行くわけにもいかないし、しぶしぶ病院の救急科電話して行ったら連休のせいなのかなんなのか物凄い人で診察終わって薬貰うまで4時間近くかかりましたとさ。
なんか、食べ物が原因らしいけれど今までアレルギーなんてなかったからなあ…
久しぶりに会う奴ばかりだったのでどうにか行きたかったのだけど。
話したいことも沢山あったしね( ノД`)
みんな盛り上がったかなあorz
それはそうと、この間映画を見てきました。
『わが母の記』
ネタバレはしませんが、個人的な感想として
内容は暗い映画かと言えばそうなんですが、「人と向き合う」という生きる上で避けられないテーマに焦点が当てられていて、ある意味でほっとするようなものでした。
人と向き合うという、「人」には友達や先生、先輩、後輩、店員、全くの他人と色々な人が当然いますがやはり家族や親子といったものは全くの線引きなんだなと思えるもので、どれだけ腹が立っても完全に嫌うことの出来ない恋人同士の愛とは別の愛を認識することが出来ました。
この映画とリンクような記事が平成24年5月4日の産経新聞の第7面に掲載されています。
「憲法第24条第一項はこう述べる。
婚姻は両性の合意のみに基づいて成立しと。
この条文は個人主義の立場に立つ。「両性の合意のみ」が家族を形成するという宣言であり、その具体像が核家族である。
夫婦二人の幸せだけでいいとしてきたこの家族像には、親も見えない、子も見えない。ましてや親類などとはむしろ煩わしいとなる。
…親の葬儀をせず、その死を隠して親の年金を受け取り続ける。育てられないと称して幼児や少年少女を虐待死に至らしめる親。或る僧侶が引く次のような実話は現実のすさまじさを物語って余りある。
或る夫婦は、老親の面倒をみず、親の建てた家から追い出し、庭に掘っ立て小屋を造りそこに住まわせた。老親が亡くなったあと、小屋を壊そうとすると、夫婦の子がこう言ったという。
お父さんやお母さんが年をとったらそこへ入ってもらうから、壊さないでほしい、と。
…昨年の東日本大震災のとき、被災者は行方不明となった家族の名を呼び続けていた。
ここなのだ、「絆」の最も中心となっているのは家族なのである。
この家族は血でつながり、家族共同体にこそ日本人の生きる基盤があるのだ。
にもかかわらず、個人が基盤と人は言い続けてきた。
…先祖から子孫一族へという生命の連続、子孫の慰霊により人々の記憶に残ること、この両安心感が死の不安や恐怖を鎮めるのである。そうした古来の死生観の上に立った家族主義だからこそ、日本人は最後にそこに依るのである。」
これは記事の一部ですが、今回の映画を物語っているように思いました。
興味のある方は是非ご覧になるといいと思います。
長くなりましたが、本日はこの辺で。
ではまた。