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気功の山の登り方・山小屋?

気功の山の登り方・山小屋?

?、気功は禅の一種です

 「気功とは何か、何をすることなのか」という僕の探究の道を振り返り、広い意味での現時点での認識の二つ目は「気功は禅の一種です」ということになるでしょうか。

 気功は如何なる場合にも気の感覚の体感と気の巡りを誘導する穏やかで滑らかな動きと呼吸を三位一体として調えていき、入静状態を獲得していく訳ですから、その取り組みは「禅」そのものと言えるでしょう。
 しかも、入静状態において、体内の「ふぁんそん感覚」を越えて大きく広がった「空の体感」ともなれば、般若心経の一節である「空中無色…以無所得」の実践的体感そのものと言えるだろうと思えるのです。
 「空に中っては、肉体は無になっており」から始まり、精神的活動も視覚や聴覚などの五感もそれに用いられる意識も、感覚によって認識される外部の光や音なども、釈尊の説いた様々な教えも総てが無の状態になっており、以って、無所得の状態になっているのだと説かれているんです。
 ここで言う無所得とは、収入が無いという意味ではありません。
 仏教的な意味で「主観と客観の区別がなく、あれこれと思い図ることのない自由な境地」という意味なんだそうです。
 皮膚感覚が薄れ、外と中の境目がなくなり、何ものにも囚われず、何ものにも振り回されることのない静かな境地、それが気功における「空の体感」てすから、それは正に無所得の境地と同義語だと言えるでしょう。
 そして、それが観自在菩薩の修行だとすれば、私たち気功の練功者は観自在菩薩として気功に取り組んでいくのだと自らを戒める必要があるんではないでしょうか。
 そういう心境での気功的な実践は、更なる禅の高みへと導いてくれるのだと思います。
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