なつまるです。
それにしても、やりきれないなー。
一般的な夏休み明け、9月が近づいてきましたね。
この時期になると中学生・高校生辺りの皆さんの自殺率が高くなるそうで、関連して色々言う人が現れます。
きみは悪くないとかいじめに負けるなとか、居場所があるから大丈夫みたいな、だいたいそういう話です。
もちろん良いことだと思うのですが、私の時にはそういうのなかったなぁと僻む(?)気持ちはぬぐえません。
「いや、あったかもよ?」
とか言われても、当時の私が知らなきゃそれまでです。当時の私は知らずに救われなかった、それがすべてです。なんという視野の狭さ。
そう、実に今更ですが(ダブルミーニング)、それともどこかで軽くふれたかな、とにかく私はいじめられっこでした。
実態は「いじめ」とは少し異なるかもしれませんが、ややこしいのでもう
「私いじめられてました!」
という前提でこれからの話をしていきます。
周囲の誰も皆そう思っていなかったかもしれないし、恐らく当時の私にも自覚はなかったでしょう。当然の事として受け止めて、針のムシロに黙って耐えていました、多分。
以下(私にとって)つらい話。
具体的な描写はありません。
ただ私の気持ちだけを、振り返り思う今の事だけを、書いていくつもりです。
まずはあれですね。
ありきたりですが、やってらんない。
私を踏み台にして青春を謳歌した輩がたくさんいる、それがやりきれない。
今頃なにしてるのかな、幸せにしているのかな、それは正直興味なくて、だけど私よりは数千倍マシな思春期だったはず。
単純にその事が許せない……のかなんなのか、実は自分でもよくわかりません。
世の理不尽さを噛みしめた一幕ではあるけれども。
クラスメイトからハブられた、それだけと言えばそれだけ。
身体の実害はなにもなかったし、言葉の暴力はありふれていた(私に限った話ではなかった)。
いや、殴る蹴るは他のクラスの子にされてた気がするけれど、よく考えたらそういう子だった。彼女に蹴られるより、別の子の陰口の方がよほど怖かった。
でも、陰口自体を憎む気にはとてもなれなくて。
ちょっと社会人になってみたら、誰かしら何か言われてるもので……むしろ他の人たちがそれで団結してたり、何かしら反面教師にしてたり。
そんな風に考えちゃったら、もう当時の私にも非があったかもしれないという思考でまっしぐらですよね。そこまでじゃなくても、私という共通の敵をつくる事でクラスメイト達のつながりは保たれていた面もある。とか。
普通に理不尽ですけど、でもあの年頃で「みんな仲良く」とか、それはそれで普通に無理です。
だからと言って誰かが、例えば当時の私が社会的に殺される必要があるか?っていう疑問は……なくもないです。今にして思えば、ですが。
運よく私は部活では人間扱いをうけて、少なくとも無視はされなくて、それで中学校卒業までなんとかなりました。
高校生活も楽しいばかりじゃなかった、また針のムシロになる場面もたくさんあったけど、詳しくは割愛。
問題は、うっかりなんとか今日まで私が生き延びて、しかし未だにこの時期の傷を引きずってうだうだ言っている事です。
あの時があったから、みたいな開き直り方は出来ません。こんなの無いに越した事はありません。
やり直したい、というのとはまた別の気持ちです。無かった事にしたい、が表現としては近いかも。なりませんけど。
きみは悪くない
(いやどこかで非があったかも)
いじめに負けるな
(そもそもいじめと呼べる事態なのか)
居場所はあるよ
(皆はそれを学校の中に見出だしてるよ)
もう、万事そんな感じ。
生き延びた先の現在がこんなんで、だから私は、いじめなり何なりで悩む子がいても「大人として」言葉を持てないんですね。
気の毒と思いつつ、漠然と「世知辛いなぁ……」みたいにぼやくのみ。
まったく世知辛い。
……という吐き出しでした。
「自殺者まで出てるんだから、いじめはひとごろしの所業だ」
とか、普通ならそう断罪してもいい所なんでしょうけど、私には無理でした。
つらくて無理でした。